株式会社タニン

鵬らなど

第1話

『やあ、イーサン』


 いつもの時間に起きて、顔にカーテンから一筋の光が当たる。


 使い古された身体は動かすたびに軋むように痛んで、枕には数十本ほどの抜け毛が落ちていた。 


 もう、六〇歳だしょうがない。


 いつもの時間になった電話をいつものように手に取り電話に出る。


 いつもの声だが、呼ばれるのはいつも違う名前だ。


『今日から君はマックスだ。長距離ドライバー。いいか? 君はマックスで長距離ドライバーだ』


 そうとだけ告げると、電話は一方的に切られた。今日の仕事は長距離ドライバーか……。


 久しぶりの運送業に腕がなる。


「宅配です」


 玄関の方でいつもより早い時間に声がした。


 私はすぐに扉を開ける。


「マックスさんでお間違いないでしょうか? こちらお荷物です。サインをお願いします」


 いつものようにサインを書いた。


 荷物は小包に包まれてくる。包装紙をビリビリに破いてゴミ箱に捨てた後、箱の中身を確認する。


 中身はおそらく会社の制服だろう。綺麗にクリーニングに出されているが、ところどころほつれていて年季を感じさせる。


 帽子も縁のところが少し黄ばんでいて気持ち悪い。でも、今日の制服はいい方だ。

 私はその服に袖を通して、アパートの席につき、さっき入れたコーヒーを喉を鳴らしながら呑む。


 毎朝コーヒーを飲むのがイーサンの日課であった。この時間は前の人物と今の人物が混在する不思議な時間なのだ。


 私は二五歳のとき、高時給と高待遇の求人票に誘われて、不思議な会社に就職した。


 それは日ごとに新しい名前を賜って、別の会社に出勤させられると言うものだった。


 仕事は多岐に渡り、様々な業界渡り歩いた。


 面白いものだと、大学教授や、アイドル、AV女優なんかもやった。(男なのに女優とは、といった感じだが。服を着ると自然とそうなる)


 しかも、新参者ではなく長年そこで勤めているような態度を周りの人はするのだ。

 もちろん私はその会社に行くのは初めてだし、全員の顔などわからない。


 しかし、一度宅配される制服に袖を通すと今まで存在しない記憶や、仕事の知識なんかが湧いて出てくるのだ。


 今も、届いた制服に袖を通したら記憶が急に現れた。


 長距離ドライバーとしての記憶が私に現れた。


 出勤時間までまだ時間があるが、私は“いつも通り”早くに家を出た。








 会社に着くと皆、私に笑顔で挨拶をした。昨日までいなかったはずの人間が会社の門を通り、従業員以外立ち入ることのない部屋に入ったとしても誰も反応することはない。


 「やぁ、マックス今日も早いね」


 社員食堂でまたコーヒーとサンドウィッチを頼んで気合いを入れるために軽い運動をしていると、同僚のジムが声をかけてきた。


「やぁ、ジム。早くに来ないとどうしても調子が出なくてね」


「それはそうだ。出社時間ギリギリにきて仕事に入ったときは酷かったからね」


「そうだったな。仕事終わりかい?」


「あぁ、今から帰って眠るところさ。君の奥さんの手料理、また今度食べさせてくれ」


「わかった。カレンにそう伝えるよ」


 ジムは私にプラプラと手を振って私がきた方向へ去って行った。


 もちろん、本来の私に妻はいないし、昨日ですら私は違う人物として責務を全うしていた。


 彼のことも知らない。でもなぜかわかるんだ。


 私はコーヒーを飲み干した後すぐにトラックへ向かった。


 この仕事を始めてもう三五年経とうとしていた。


 何度も自分が誰かわからなくなってしまう。私は本当にサムなのか? いや、ジョンなのか? マックスなのか? 鏡の前で問うても誰も答えはしてくれない。


 自分の名前がわからなくなってしまってから、自己は崩壊を始めていた。


 私が私である時間はどこにもない。


 うちに帰っても今日はマックスの家族が待っている家に帰る。


 カレンにキスをして子供を抱いて、妻と同じ床に着く。


 そのまま眠り、明日は違う人生と職を生きるのだ。


 私はいつまでこうして生きていればいいのだろうか。


 毎日毎秒そう思う。


 私が仕事中に死んだらその名前の家族が悲しむだけで私の本当の親は悲しんでくれない。


 一回だけ搬送の仕事で両親と兄にあったことがあったのだ。


 玄関に出たのは親父、元気そうだった。


 私の顔を見てもただの配達員のように接していた。


 自分をアピールしても親父はただ首を傾げるばかり。


 決定的だったのは、昔玄関にある下駄箱にある傷がなくなっていたのだ。


 親父が思い出だからと四歳の頃につけたイタズラでつけた傷。綺麗に消え去っていた。


 私はどうしようもなくなって、配達を終えて車に戻った後ずっと泣いていた。

 もう帰る場所すらないんだと。


 そして、今日も仕事を終えた。

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