風の向こうには、まだ知らない世界がある。
StoryHug
風の向こうには、まだ知らない世界がある。
ルイカは、どこまでも続く道を、土をしっかりと踏みしめながら歩いていた。
ザッ、ザッ──。
足音は大地へ溶け、風がそのあとを撫でるように通り過ぎていく。
草木や花々が生い茂る大地は、穏やかな暖かさに包まれ、
澄み渡る青空の下、明るい陽光が降り注ぎ、小さな光の粒が空気の中をゆっくりと漂っている。
「この香り……とっても懐かしいな。」
ふと、彼女は小さく呟いた。
風は、秋の香りを運んでくる。
やさしく鼻先をくすぐるその空気は、胸の奥にしまっていた記憶を、そっと揺らしてくるようだ。
揺れる茶色の髪の上には、使い込まれた真鍮色のゴーグル。
それは飾りではない。
砂埃の舞う遺跡を越え、風の唸る渓谷を歩き、幾つもの知らない景色を見てきた──探検家としての、小さな証。
陽の光を受けるたび、額の上で控えめな輝きを返している。
身にまとっているのは、白いブラウスを基調とした、どこかのどかな旅装。
ふんわりとした袖口は風をやわらかく孕み、けれど胸元から腰にかけては、濃い茶色の革ベルトや金具が幾重にも重ねられている。
可憐さと実用性。
まるで相反するような二つが、彼女の身体の上では不思議なほど自然に寄り添い合う。
肩には深い緑の布が片側だけに掛けられ、金の刺繍が秋の光を受けて細く煌めく。
腰元にはチェック柄のスカート。革のコルセット、小さなポーチ、方位磁石のような丸い金具。
そして肩から提げられた大きな革鞄は、いかにも旅人らしい存在感を放つ。
ザッ、ザッ──。
泥道も石畳も迷わず歩けるように作られた、膝下まで届く丈夫な茶色のブーツ。
可憐な少女の姿をしていても、その装いには確かに──
「旅を続ける者」の強さがあった。
ルイカは小さく微笑みながら、もう一度ゆっくりと香りを吸い込む。
“エテオランジュ”。
そう呼ばれるオレンジ色の葉が、風の中で手を取り合うように揺れる。
柑橘にも似た、やさしい香り。
その匂いは、どこか懐かしくて──まるで、「おかえり」と言われているような気がした。
ルイカはふと立ち止まり、肩から提げた革鞄の中をあさった。
中には地図や工具、保存食。
旅の途中で託された小さな手紙までもが、大切に詰め込まれている。
当て所もなく、それでも世界の美しい景色を見てまわりたい──。
そう思い立った、少し前の自分。
鞄の中には、そんな彼女の軌跡が、小さな欠片のように残されていた。
ひとつ手に取り、そっと取り出したのは、一枚の額縁に入った小さな写真。
それは、家族写真だった。
真ん中では、幼さの残るルイカが、両手でピースサインを作って楽しそうに笑っている。
その隣には、革で服や靴を仕立てる職人肌の父。
豪快に笑うその姿は、不器用なくせに誰より優しかった。
そして、もう片側には母。
いつも温かなスープを作ってくれた、おっとりとした笑顔の人。
──ルイカが「旅に出たい」と言った時。
二人は、決して止めなかった。
ただ、ひとつだけ。
絶対の約束をさせた。
『必ず無事で戻ってきなさい。』
あの時の声が、不意に胸の奥で響く。
重みがあって、それでいて穏やかな声。
まるで今も、すぐ隣で話しかけられているような気がした。
気づけば、写真のガラス面に小さな雫が落ちていた。
「あれ……?」
思ってもみなかったことに、ルイカ自身が少し驚く。
咄嗟にごしごしと目元を擦り、困ったように笑いながら振り返った。
そして──景色を見渡す。
世界は、どこまでも続いている。
遠くには、小さく旅人や商人たちの姿が見える。
何度も人の足や、動物たちが踏みしめてきた丘道を、懸命に登っている。
その道の両脇では、エテオランジュと草花たちが風に揺れ、
赤く色づいた葉が空へ舞い上がる。
それはまるで、旅人を歓迎する紙吹雪のように、ゆっくりと風へ溶けて。
視線を上げれば、遥か彼方まで広がる大地。
知らないことばかりだ。
自分は、まだ何も知らない。
けれど──。
その「知らない」が、不思議と胸を高鳴らせる。
彼女は小さく息を漏らしながら、向かう先を遠く見つめた。
朧げながら、小さな町が見える。
石造りの塔。
空へ向かって伸びる煙突。
そこから立ち昇る煙は、誰かの暮らしの温度を感じさせる。
「昼食を作っているのかな。」
風にさらわれる、小さな呟き。
さらにその向こうには、青く霞む山々が連なる。
輪郭はやわらかく、空と地平線の境界さえ、曖昧に溶けていた。
「あの向こうには、何があるのかな。」
空は広い。
世界は、こんなにも広い。
そんな当たり前のことが、どうしてこんなにも心を震わせるんだろう。
夕暮れにも、朝焼けにも見える琥珀色の光。
雲の隙間を抜けたそれが、草原へ長い影を落としていく。
景色そのものが、ゆっくりと呼吸をしているようだった。
ルイカは、鞄の中へそっと写真をしまう。
世界は、ただ美しいだけじゃない。
風が暖かい日もあれば、冷たい日もある。
道に迷うこともあるだろう。
泣いてしまう日だって、きっとある。
でも──その先には。
前へ進まなければ出会えない景色がある。
喜びがある。
胸を震わせる瞬間がある。
「──よしっ!」
ルイカは、小さな町へ向かって再び歩き出した。
家族を思い出す香りに包まれながら。
痛みも、喜びも。
その先にある世界の美しさを知るために。
今日もまた──。
風の向こうには、まだ知らない世界がある。 StoryHug @StoryHug
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