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  • Autoplayへの応援コメント

    最初は、「疲れた一日をそのまま切り取った作品」として読んでいました。

    ベッドに横になっているのに首に力が入っている。冷たくなったコーヒーを一口飲んで、眉間にぐっと力が入る。皺を無理やり伸ばしたシャツを着て、少しだけ昨日より重くなったズボンを穿いて、底が削れた靴を履いて家を出る。電車に揺られて運ばれていって、また少し底が削れた同じ靴で帰ってくる。

    前日から少しずつ残ってしまったものが、一日の前と後を繋いでいる。

    その細かい積み重ねが、読んでいるあいだ、肌に近いところにある作品だと感じました。



    この作品の奥で静かに支えているものについて、私なりに考えました。

    まず気になったのは、「力を抜く」という動作が、何度も出てくることです。

    冒頭の主人公は、ベッドに全体重を預けて横になっています。それなのに、「知らない間に少しだけ首に力が入っていた」。休めているはずの姿勢なのに、気づいたら身体が緊張している。そこで初めて、「意識して力を抜く」という動作が来ます。

    この「意識すれば抜ける」は、最初だけです。

    朝になれば眉間に力が入る
    通勤の電車では腹に力が入る

    そしてそこで、「意識しているのに、腹の力を抜くことができない」という文が置かれます。

    ここが、この作品で重い一文だと思いました。

    意識している
    わかっている
    それでも抜けない

    自分の身体のはずなのに、自分の思いどおりにならない。
    休もうとすればするほど、うまくいかない感じがある。

    これは「忙しいから疲れている」という話とは、少し違うと思います。いくら意識を向けても届かない場所が、自分の身体の中にある。その感覚が、作品のあちこちに滲んでいます。



    もうひとつ、読みながらずっと引っかかっていたのが、「声」のことです。

    冒頭で、聞いていたはずのAutoplayの声が「いつの間にか誰のものか分からないものになっている」と書かれます。気づいたら、もう声の出どころが分からない。いつそうなったのかも分からない。その移行は、「いつの間にか」という言葉で置かれるだけで、説明されません。

    そして、その声の描かれ方が変わっています。

    「聞き慣れない聞き馴染んだ声」

    矛盾しているはずなのに、なぜかよく分かる感じがします。

    初めて聞くような気がする
    もう身体に馴染んでしまっているような気もする
    知らない声なのか、知っている声なのか、決められない

    その曖昧さが、さらっと置かれます。

    ここで私は、この作品が「誰かの声」の話というより、「声が誰のものか分からなくなる感覚そのもの」の話をしているのだと思いました。

    そしてその感覚が、職場の場面で別の形になって戻ってきます。

    「おはようございます」
    「はい、わかりました」
    「すみません」
    「お疲れ様です」

    定型句が四行、そのまま並ぶ。その直後に、「自分の声だったのか。」と一文だけ置かれます。

    外から流れてくる、誰のものか分からない声
    自分が発したはずなのに、自分のものか分からなくなった声

    この二つが、作品の中で少し離れた場所に、静かに並んでいます。どちらも「誰のものか」という問いに触れていて、どちらも、答えが出ないまま次の場面へ移っていく。

    こわいのは、その二つが「繋がっている」と説明されないことだと思います。

    ただ、同じ問いの形をして、並んでいる。



    音のことも印象に残りました。

    Autoplayの音が途中で変わって、「ざらざらとどこかを逆撫でる音」になる。主人公はモニタの電源を切ります。自分から切る。能動的に止める。

    「音のない世界に耳鳴りだけが響く」

    外の音は消えた
    内側の音は残る

    これも、「意識しているのに腹の力が抜けない」場面と近い気がしました。外側は自分で操作できる。でも、そこから先の内側には届かない。

    寝る直前の場面には、もうひとつ印象に残るものがあります。

    「捨てたい景色が瞼の裏から頭の中に入っていくのを見送る」

    追い出すのでも、受け入れるのでもなく、「見送る」感じです。
    自分の頭の中に入っていくものを、止められないまま見ている。
    そういう受け身の感覚が、この作品全体に流れていると思います。



    帰宅後のコーヒーカップの場面は、この作品の中で大事な場所だと感じました。

    朝と同じ位置に置かれたままのコーヒーカップ。少し残っていたコーヒーが蒸発して、「茶黒い跡」としてこびりついている。飲み残しが、一日かけて、取れない跡になっている。

    「スポンジと洗剤を取って力を入れて削り取る」

    ここで初めて、力が外へ向かう。

    身体の中に入り続ける力
    意識しても抜けなかった力

    その同じ「力」が、ここでは外の対象へ向けられて、こびりついた跡を落とす。

    ただ、ここを「だから主人公は前に進んだ」とは言い切れない気がします。

    その直後の、一文です。

    「パソコンの電源を点けて、いつもの配信サイトを流す」

    最初の夜とは、少し違うと思います。

    最初の夜は、聞いていた声が「いつの間にか」誰のものか分からないものになっていました。けれど今夜は、主人公が自分でパソコンの電源を点けて、自分でいつもの配信サイトを流します。

    完全に受け身ではない
    自分の手で始めている



    ここで、この作品でいちばん長く残る部分が来ます。

    自分で起動した。自分で始めた。

    それなのに、そのあとに来る一文です。

    「また、いつの間にか知らない知っている声が聞こえてくる」


    「いつの間にか」

    最初の夜も「いつの間にか」でした。聞いていたはずの声が、気づいたら誰のものか分からないものになっていた。

    そして、自分で配信サイトを流したこの夜も、気づいたときには、また「いつの間にか」のところへ来ている。

    自分でスタートを押しても、その後の移行は、自分のあずかり知らないところで起きているように見える。

    「知らない知っている声」

    これも最初の「聞き慣れない聞き馴染んだ声」と同じ形です。同じ問いを持った表現が、言葉を変えて戻ってくる。

    そして、また、少しだけ首に力が入る。



    最後の一文を、冒頭と並べると、ずれが少し見えます。

    冒頭では、「意識して力を抜く」。
    終点では、「途中であきらめてゆっくりと力を抜く」。

    同じ動作です。でも、「途中であきらめて」が入っている。

    意識してどうにかしようとすることを、途中で手放している感じです。

    私はこの「あきらめ」を、単純な悪化とも、単純な救いとも言い切れませんでした。

    意識して制御しようとする力そのものを手放したから、ようやく少しだけほどけた。そう読むこともできます。

    逆に、意識的に自分を整えることが、もう少し難しくなってきたようにも読める。ループの中に少しだけ深く入ってしまった、とも読めると思います。

    そのどちらかを、作品は決めません。

    力を抜く動作は、最後にも置かれている。
    それが何を意味するのかまでは、決めてくれない。

    そこが、この作品の余韻を強くしていると思いました。



    読み終えて長く残るのは、ひとつの感覚の形です。

    自分で始めても、その後の移行はまた「いつの間にか」として起きる。
    外から流れてくる声も、自分が発した声も、同じ「誰のものか」という問いに触れていく。
    力を抜こうとしても、身体が許さない時間がある。それでも最後には、途中であきらめて、力を抜く動作だけが残る。

    完全に同じところへ戻っているのか
    少しだけ違うところへ来たのか

    その判断を、作品はこちらへ手渡したまま、閉じます。

    その手渡し方の静かさが、読んだあとも、ずっと残っています。



    私はこの雰囲気がとても好きです。