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  • 『老馬』への応援コメント

    幻想的な作品に興味を惹かれました。
    この幻想世界の仕組みを、少し追ってみたくなり筆を取りました。
    少し長くなりますがお許しください。


    最初は、夢の中で老いに追われる話として読んでいました。

    子供の姿に戻った「私」が、懐かしい教室にいる。そこから目覚めたように自室へ移り、学校へ向かったはずなのに、見知らぬ大浴場へ迷い込む。そこで出会った青年が、見ているうちにみるみる老いていって、老馬のような化物になって追いかけてくる。

    それだけでも、夢の不気味さや、老いへの恐怖の話として十分に読めると思います。

    最後まで読んでもう一度はじめに戻ると、それだけでは足りない部分があるような気がしました。

    この作品の奥で静かに支えているものについて、私なりに考えました。



    気になったのは、この作品の中で何度も同じような場面が出てくることです。

    「何かに名前をつけようとする」
    「何かを見分けようとする」

    教室で、教師は「井の中の蛙、大海を知らず」を出して、「私」を蛙に見立てます。けれど「私」はそれをそのまま受け取らず、「視野の狭い御学者様は、もっぱら、自分の常識の壁を大層熱心にご観察のご様子です」と、見立てを教師の方へ返してしまう。

    そのすぐあとに出てくる「老いたる馬は道を忘れず」も、似た形をしていると思いました。

    「私」は、「勿論、このことわざの意味は知っている」と言います。

    その意味そのものは、本文の中には直接書かれません。

    ただ、「知っていて、ため息が出るのである」「こりゃあ、罠だ」とだけ置かれて、話は次に進んでいきます。

    「知っている」

    「何を知っているのかは、書かれない」

    このあたりから、すでに、名前と内容のあいだに小さなずれが始まっているように感じました。

    黒板の場面も、同じ形をしていると思います。

    みんなが黒板と呼んでいるものを、「私」は「私には到底、緑の板にしか見られません」と言う。

    「名前は黒板」

    「見えているのは緑の板」

    名前と、実際に見えているものが、ぴたりと重なりません。

    似たようなことが、大浴場でも起きています。

    大浴場、と呼ばれているその場所は、本文では「家にある風呂場よりは広く」とありながら、実際には鏡と椅子の組が五つ六つ並んでいるだけの、狭い浴場として描かれています。「大」浴場と呼ばれているのに、読んでいる感触としては、どこか窮屈です。

    言葉が指しているものと、目の前にあるものが、少しずつずれている。

    そして、面白いと思ったのが、この大浴場の窓から見える木です。

    「この見えている木々の幹は、教室の窓から見える木立の足元なのである」と書かれていて、教室と大浴場は、同じ木の、上と下でつながっている。教室では、その緑の葉に「生まれ変わるのなら、やっぱりこの揺れ動く葉々が良いかしら」と思いを寄せていた「私」が、大浴場では、その同じ木を見上げて、「命に満ちた緑色と、それを包む空の寂しき青い色」を思い出している。

    同じ緑が、ここでは、寂しい青に包まれている感じです。

    すぐあとに出てくる青年の老化の描写では、その白髪が「不毛の大地に生えた細く萎った草草を連想させるまでに枯れていき」と書かれます。生まれ変わるなら葉っぱがいい、と思っていた「私」のすぐそばで、髪が枯草のように枯れていく。

    同じ「緑」や「葉」のイメージが、生きることと、枯れていくことの両方に重なっているように感じました。

    大浴場で出てくる青年も、はっきりした答えとして置かれているわけではないと思います。

    青年は「生きるための意志だよ。生きるための意志の強さが、老若に関係しているんだよ」と説明します。けれど、その説明をした本人が、まばたきのあいだに、みるみる老いていく。説明している人が、その説明の直後に、自分の身体でその説明を揺らしてしまう。

    だから、この台詞は、作品全体を解く答えというより、それ自体が不安定なものとして置かれているように感じました。

    「私」は、その青年を「老馬」と呼び、「化物」と呼びます。

    その名づけも、最後まで安定しない感じです。

    ここでひとつ気づいたのが、「奇襲」という言葉です。

    教室で、「私」は黒板を見ている教師の背中に向かって、「緑です。」と奇襲をかけます。大浴場では逆に、老いた青年が「私」に襲いかかってくることを、「私」は「奇襲だな」と呼びます。

    仕掛ける側だった「私」が、いつのまにか、仕掛けられる側になっている。

    そして、逃げ込んだ部屋で、友人に「化物は君じゃないのかい」と返されることで、化物だと思っていたものが、少しだけ「私」の方へ戻ってきます。ここが、地味に怖いところだと思いました。

    はっきり「そうだ」と言われるわけではないのに、完全には他人事でいられなくなる感じです。



    終盤で横たわっている男については、友人の発話によって「君」とつながっています。そこは、ぼかさずに、はっきり書かれていると思います。

    ただ、その「君」が、どの場所の、どの時点の「私」なのか。

    夢の中の私なのか
    目覚めたと思った私なのか
    寝たきりだと告げられた私なのか

    作品は、そこをきれいに整理してはくれません。だから、「夢だったのか現実だったのか」という話だけにしてしまうと、少しもったいない気がします。むしろ、夢も、目覚めも、寝たきりも、どれかひとつが他のすべてを説明する場所にはなっていないと思いました。

    その不安定さの中を、言葉だけが先に進んでいく感じがありました。

    そして、最後の二文です。

    「私は、ようやく理解した。」
    「老馬は道を間違えてはいなかった。」

    ここで、「理解した」と言われます。

    けれど、何をどう理解したのかは、本文の中では説明されません。

    「老馬」が何を指すのか
    「道」が何を指すのか

    それも、ひとつには決まりません。

    教室では、「このことわざの意味は知っている」と言われたのに、その意味は書かれませんでした。

    終盤では、「理解した」と言われるのに、その理解の中身は書かれません。

    「知っている」

    「理解した」

    その中身は、どちらも本文に残らない。

    その直後に、「青年の顔をついに思い出すことはできなかった」と置かれるのが、静かで、強い終わり方だと思いました。

    ここでは、「青年の顔」という、思い出すべき対象は、はっきりあります。けれど、それを思い出すことには失敗する。

    一方では、理解したと言いながら、何を理解したのかは示されない。

    もう一方では、思い出すべき対象はあるのに、思い出すことに失敗する。

    この二つは、互いを補い合わないまま、並んで終わります。

    『老馬』は、老いの正体を暴く話ではないと思います。

    夢と現実の境目を解く話でも、たぶんないと思います。

    何かに名前をつけようとする
    見立てようとする
    説明しようとする
    理解しようとする

    そのたびに、いちばん大事な中身だけが、少しずつ手元からずれていく感じです。

    最後に残るのは、「分かった」と言いながら中身を残さない理解と、「顔」というはっきりした対象を持ちながら、思い出すことに失敗する記憶です。

    読み終えたあと、もう一度、題名の『老馬』に戻りたくなりました。

    戻っても、答えがひとつに固まるわけではありません。

    そこに、この作品の、いちばん静かな余韻があるように感じました。