第9話
生後二ヶ月。
リアン(中身25歳・元シェフ)の野望は留まるところを知らなかった。
ベビーベッドの中、彼は愛機である胡桃割り人形『センチネル』と向かい合っていた。
(センチネルを自在に動かせるようにはなった。……だが、これじゃあ駄目だ)
リアンは不満げに眉を寄せた。
現在の操作方法は「魔力の糸」による遠隔操縦(ラジコン)。これには致命的な弱点がある。
それは、「俺の視界の範囲内でしか動かせない」ということだ。
壁の向こうや、家の外の様子を探るには、直接目で見る必要がある。それでは偵察の意味がない。
(次のステップだ。カメラ付きドローンじゃなくて、俺自身が乗り込む……FPV(一人称視点)操作だ)
リアンは深く息を吸い込み、目を閉じた。
(意識を……魂を、センチネルに移す。俺は木だ。俺は人形だ。俺は……センチネルだ!)
全神経を研ぎ澄まし、体内の魔力を脳天から放出させるイメージ。
幽体離脱に近い感覚。
フワリと体が軽くなり、暗闇の中に吸い込まれ――そして、カチリと何かが嵌まる音がした。
「……(成功したのか?)」
目を開ける。
視界がいつもより低い。そして、色が褪せて見える。
見上げると、そこには目を閉じて眠っている「自分(赤ん坊のリアン)」の顔があった。
「……(俺がいる)」
自分の喉からは声が出ない。だが、思考はクリアだ。
手を目の前にかざす。そこにあるのは、木製の無骨な指。
(よし……成功だ!)
リアン――いや、現在のセンチネルは、歓喜に震えた。
試しに、その場で跳躍してみる。
(バク転!)
クルンッ、スタッ。
重力などないかのような軽やかさ。
赤ん坊の肉体という「拘束具」から解き放たれた開放感は、筆舌に尽くしがたいものがあった。
(良い感じだ。これならどこへでも行ける)
センチネルは窓枠を見上げた。
鍵はかかっていない。少し開いた隙間から、夜風が入ってきている。
(せっかくだ。外の空気を吸いに行こう。ついでに庭の警備(パトロール)だ)
センチネルは忍者のように壁を駆け上がり、窓の隙間から外へと躍り出た。
夜の庭は静まり返っていた。
月明かりの下、芝生の上で一人の男が動いていた。
父、アークスだ。
ヒュンッ!!
大剣『紅蓮』が空気を切り裂く音。
ただの素振りではない。剣に「闘気」が乗っているため、振るたびに衝撃波が庭の木々を揺らしている。
(はぇぇ……やっぱり、父ちゃんは強いんだなぁ)
センチネルは窓枠の陰から、その様子を観察した。
元A級冒険者の剣技。無駄がなく、重心が全くブレない。
料理人の視点から見ても、あの体の使い方は芸術的だった。
(あの剣速……今の俺(センチネル)でも回避できるか? いや、風圧だけでバラバラにされるな)
父の偉大さに感心していた、その時だった。
「キャァァァァァァァッ!!!」
二階の子供部屋――つまり、さっきまで俺がいた場所から、引き裂くような悲鳴が響き渡った。
母、マーサの声だ。
「ッ!? マーサ!? どうした!!」
アークスの反応は神速だった。
大剣を放り投げ、闘気を足に纏わせると、爆発的な加速で家の中へと飛び込んでいく。
「くっ! 何事だ!?」
センチネル(リアン)も慌てた。
泥棒か? それとも魔獣が出たのか?
俺も加勢しなければ!
センチネルは窓枠を蹴り、全力で子供部屋へと急行した。
「リアン! リアン!! 起きて! お願い!」
子供部屋に戻ると、そこには半狂乱になったマーサの姿があった。
彼女はベビーベッドの中の「リアン(本体)」を抱きしめ、必死に揺さぶっている。
「どうしたんだマーサ! 何があった!」
「貴方!! リアンが! リアンの意識がないの!!」
マーサの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
彼女は夜中の見回りに来て、ぐったりと動かないリアンを見つけたのだ。
呼吸はしている。心臓も動いている。
だが、呼びかけても、揺さぶっても、つねっても反応がない。
まるで「魂が抜けた」ように。
(――あ、やばいかも)
窓枠に辿り着いたセンチネルは、その光景を見て血の気が引いた(木製だが)。
そうだ。意識を人形に移している間、本体は「空っぽ」になる。
それは側から見れば、昏睡状態――あるいは、原因不明の危篤状態に見えるに決まっている!
「何だって!? どいてくれ、俺が見る!」
アークスが青ざめた顔で駆け寄る。
(やべぇ……! これ、洒落にならん! 本体に戻らないと!)
センチネルはアークスの股下をすり抜け、ベッドの影から本体へとダイブした。
(戻れ! 俺!)
魔力のパスを逆流させる。
軽い木の体から、重く、温かい肉の檻へ。
「リアン! 目を開けてくれ!」
アークスの太い指が、リアンの頬に触れた瞬間。
ドクンッ!
リアンの小さな体に、衝撃と共に意識が戻った。
全身の神経が繋がり、視界に色が戻る。
目の前には、絶望に染まった両親の顔。
(やばい! 生きてるアピールだ!)
「……お、……おぎゃああああああああ!!(俺は無事だから! 生きてるからぁぁ!)」
リアンは渾身の力で泣き声を上げた。
「あぁ!! リアン!! 良かったわ! 声が出た!」
マーサはその場にへなへなと崩れ落ち、再びリアンを強く抱きしめた。
その腕の震えが、リアンに伝わってくる。
「良かった……本当に良かった……!」
アークスも目元を拭い、大きく息を吐いた。
だが、歴戦の騎士の判断は冷静だった。
「よし! すぐ様、病院(教会)に行こう! 原因が分からない。一時的な発作かもしれないからな!」
「えぇ、そうね! 分かったわ!」
(えっ? いや、あの、俺はもう元気で……)
「おぎゃ?(病院?)」
「すぐ準備する! マーサはリアンを! 俺は馬車を出す!」
二人の動きに迷いはなかった。
深夜の緊急搬送決定である。
「おぎゃあああああ!!(違うんだ! ただの幽体離脱なんだ! 注射はやめろぉぉぉ!!)」
リアンの必死の抵抗も虚しく、彼は毛布にくるまれ、夜のルナハン市街を爆走する馬車に乗せられた。
(……ごめんなさい。二度としません。許してください)
揺れる馬車の中で、両親の心配そうな顔を見ながら、リアンは深く反省した。
一難は去ったが、この夜の「原因不明の昏睡事件」は、シンフォニア家の語り草として長く残ることになるのだった。
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