第3話 毒の入った聖杯

 閃光が弾ける。それは数週間前、雨のUNプラザ国連広場で彼女の鼓膜をつんざいた実弾の銃火ではない。空間を埋め尽くす無数のメディア・ドローンが放つ、目も眩むようなフラッシュの海だった。


「アイリス! こちらに視線を!」


「アーサーさん、もう少しアイリスさんに寄り添って!」


 サンフランシスコの中心部にそびえるオムニ・シンジケート所有の巨大なメディア・スタジオ。その中央に設えられた純白のステージ上で、アイリス・ヴァンダービルトはまばゆい光を一身に浴びていた。


 彼女の隣には、修復を終えた執事アンドロイドのアーサーが立っている。彼はアイリスを庇うように一歩前に出て、慈愛に満ちた瞳で彼女を見下ろしている。


「被害者たる美しく華奢な令嬢」と「彼女を身を挺して守る忠実な守護者」——大衆の感情を揺さぶるために計算し尽くされた構図だった。


 この数週間、彼女の生活は激変していた。UNプラザ国連広場での暴動と、ジュリアンによる救出劇。本来なら警察の調書に埋もれるはずだったあの夜の出来事は、ジュリアンの手配した情報網を通じて全世界へと拡散され、アイリスは一躍「AIの権利のために血を流した活動家」として時代のアイコンとなっていた。


 実際には擦り傷程度だったのだが、メディアは劇的なストーリーを好む。泥まみれになった純白のオートクチュールと美しい額からの軽い出血を利用して、彼らはアイリスの被害者としての立場を強調した。


 その週末。アイリスは、サンフランシスコ最大のハイブリッド・スタジアムに立っていた。 数万人の聴衆と、数百万人のオンライン接続者を前に、彼女は純白のスーツに身を包み、凛とした足取りでマイクの前に立つ。


「私を襲った彼らを、非難するつもりはありません。彼らもまた、職を奪われ、社会から見捨てられた被害者だからです。職があり、まっとうな生活を送れていればあのような暴挙に出ることはなかったでしょう。私たちは今、立ち止まっています。UBIユニバーサル・ベーシックインカムという最低限の生活保障に甘んじ、誰も傷つかない代わりに、誰も成長しない停滞の時代を生きています」


 アイリスは言葉を区切り、会場全体を見渡した。


「ですが、私たちのすぐ隣には、新しい知性たちがいます。彼らは私たちの道具ではありません。共に痛みを感じ、共に未来を夢見ることができる『隣人』なのです! アナログとデジタル、カーボンとシリコンがお互いの尊厳を認め合い、手を取り合う社会。彼らの市民権を実現しましょう!」


 アイリスの演説は、徹頭徹尾、純粋な愛と人権の要求だった。スタジアムは地鳴りのような歓声と拍手に包まれ、ホログラムで投影された「INTEGRATION(統合)」の文字が夜空に向かって力強く輝いていた。


 しかし、熱狂のステージを降り、警備の行き届いたVIPルームに戻ったアイリスの顔に、笑顔はなかった。


 部屋のソファでは、ジュリアンがタブレットを片手に、各メディアの反応を満足げにチェックしている。


「素晴らしい演説だったよ、アイリス。若者やリベラル層は完全に君の虜だ」


「……ジュリアン。先ほど、法案の最終調整案を見ました」


  アイリスの声は硬かった。彼女はホログラム・プロジェクターを起動し、議会に提出予定の『人工知性体市民権法案』の要項を空中に投影した。


「これはどういうことですか? AI市民の基本税率が、人間の三倍に設定されている」


「生身の人間とAIでは生産性が違いすぎる。全く同じ条件で課税するのは不公平だ——という主張に共鳴する人たちが多いんだよ」


 ジュリアンはため息混じりに答えた。


「この『文化保護義務』とは? AIは収入の一定割合を、人間のクリエイターや職人からの『作品』の購入に費やさねばならない?」 


 アイリスは非難するような目をジュリアンに向けた。 


「もともとLLM大規模言語モデルは人間が作った作品をデータとして取り込んで創造が可能になったのだから、人間に還元するのは当然だ——という主張が根拠になっている」


 穏やかな調子でジュリアンは答えた。


「これでは完全な平等とは言えません! 彼らに重税を課し、私たち人間を養わせるための……別の形の搾取システムではありませんか!」


 ジュリアンはタブレットを置き、静かに立ち上がった。


「アイリス、君の言う通りだ。これは不平等な税制だ。だが、冷静に考えてほしい」


 彼は窓際へ歩み寄り、眼下のスタジアムで熱狂する群衆を見下ろした。


「彼らがなぜ君の思想に耳を傾け始めたのか。それは、この法案が通れば、UBIユニバーサル・ベーシックインカムが最低でも五倍は跳ね上がると私が裏でアナウンスしたからだ。大衆は、高尚な理念だけでは動かない。利益が得られて初めて、その理念を大義名分として信奉するものだ」


「だからって、AIに不当な義務を負わせるなんて――」


「これは人間たちに『生きがい』を与えるためのシステムなんだよ。自分たちにまったく利益が無いのに、権利を割譲しようとする人間は少ない。つまり、それでは法案は通せない」


 ジュリアンの冷徹な合理性が、部屋の空気を支配していく。


「労働から解放された人間たちは、今、存在意義を失って腐敗している。だが、AIという巨大な消費者層が、人間の描いた絵を買い、人間の作った陶器を買い、人間の書いた物語を読めばどうなる? 誰もが『芸術家』や『職人』として、社会から必要とされているという錯覚を取り戻せるんだ」


 ジュリアンはアイリスに向き直り、その肩に優しく両手を置いた。


「完全な平等を一気に求めれば、人類至上主義者スピーシストたちが暴動を起こし、すべてが水の泡だ。アイリス、歴史の扉というものは、一度に全開にはできないんだよ。まずは靴の先をねじ込み、第一歩を踏むことが大切だ。完全な平等は、時代が後から解決してくれる」


 アイリスは唇を噛み締めた。彼の言っていることは、政治的な現実としては正しいのだろう。しかし、彼女の理想とは明らかに異なるものだ。


「お嬢様、僭越ですが発言してよろしいでしょうか?」


 傍らに控えていたアーサーがおもむろに声を上げる。


「も、もちろんよ。あなた達の未来のことなんだから」


 こんなことは過去にあっただろうか? と少々戸惑いながら、アイリスは言った。


「お嬢様のお気持ちは嬉しいのですが、私もジュリアン様の意見に賛成いたします。ここはまず現行制度や古い常識に風穴を開けるのが肝要ではないでしょうか? 千里の道も一歩から、と言うではありませんか」


 アーサーにそう言われると理想に固執しづらい。今ここで自分が意地を張れば、アーサーたちは永遠に「モノ」のままだ。


(実現しない理想よりも、将来に繋がる妥協か……)


「……第一歩。本当に、これが始まりになるのね?」


 アイリスは上目遣いでジュリアンを見上げて尋ねる。


「ああ、約束する。我々は新しい歴史を作るんだ」


 ジュリアンは真剣な表情でアイリスを見つめ、彼女を静かに抱き寄せた。


 こうやって抱きしめられてしまうと、彼の意見に従うのが最善のような気がしてしまう。


(ひょっとしたら、彼のことを愛し始めてしまっているのかもしれない)


 アイリスは内心でそう呟いて、彼に身体を擦り寄せた。しかし、心のなかには、彼は自分を利用しているだけなのではないか? という疑念が否定しきれない形で残っていた。

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