第8話:デートの約束
ガチャリ、と玄関のドアを開けながら、スーツケースを手にした父親が振り返った。
「じゃ、また今度帰る時は連絡するから、ちゃんと電話に出るんだぞ」
「うん、わかった。次は気をつけるよ」
苦笑いしながら答える僕の腕時計は、17時45分を指していた。
3日前に両親が突然帰国したあの日と同じように、空はゆっくりと日が沈み初め、綺麗な茜色に染まりつつある。
「千代子ちゃん、蓮翔をよろしくね。……蓮翔も、千代子ちゃんに迷惑かけちゃダメよ?」
「任せてください、お母様! 私がちゃんとお世話しますので心配ありません!」
僕の隣で、ちーちゃんがこれ以上ないほど自信満々に力強く胸を張った。母親はその頼もしい姿に目を細め、嬉しそうに微笑む。
「うふふ、本当に頼もしいわぁ! よろしくね!」
両親の三日間の帰国は、本当にあっという間だった。
いつも誰もいない冷え切った家だったから、少しの間だけでも賑やかな家族の時間を過ごせて、僕は心の底から嬉しかった。だけど、二人は仕事のためにまたすぐに日本を離れ、海外へと飛び立つ。話によると、次はオランダに向かうらしい。
「あっ! そうだわ、千代子ちゃん。あなた、お洋服あまり持ってきてないんじゃない? この三日間、学校のセーラー服姿か、蓮翔のTシャツ姿しか見てなかったから」
「あー、えーっと……。はい……。その……」
急な指摘に、ちーちゃんが少し気まずそうに視線を泳がせた。
確かに、急に僕の家にやってきたちーちゃんは、着替えなどの荷物をほとんど持っていなかった。
「やっぱり! ちょっと待ってね…………はい、これ!」
母親はそう言うと、手元の大ぶりなバッグから、何やら長方形の四角い塊を取り出してちーちゃんの手元に差し出した。
「……! お、お母様!? 困ります、こんなに……!」
「いいのいいの! 女の子なんだから、オシャレもしっかり楽しまなきゃ! 他にも必要なものがあったら、これで買いなさいね!」
母さんはちーちゃんの小さな手のひらに、ぽんと『それ』を握らせた。
……それって、いや、どう見ても…札束。しかも、白い紙の帯がしっかりと巻かれた、分厚い一万円札の塊だ。
「わぁ……こんな大金、生で見るの初めてだよ……」
僕は隣からその光景を凝視したまま、声を漏らした。
生まれて初めて生で見た、銀行から卸してきたばかりのような帯付きの札束。我が親ながら、貿易会社経営者の金銭感覚と豪快さはちょっと
「明日は土曜日だし、どうせ蓮翔は部活にも入ってないんでしょ? 千代子ちゃんとお買い物デートでもしてきなさい!」
「お買い物……デート……!!!」
母親の口から出たその単語に、ちーちゃんの瞳がカッと見開かれ、まるで星が飛び出さんばかりのキラキラとした輝きを帯びた。
「はは! いいねぇ! このままいくと、将来はお嫁さんかな??」
「ちょ、父さん! 何言ってんの、気が早いよっ!」
父親の悪ノリに、僕は慌てて声を裏返らせた。昨夜、ちーちゃんと自室で両思いであることを確かめ合ったばかりなのに、親の前でそんな話をされたら心臓が持たない。
僕が顔を真っ赤にしてうろたえていると、道路の向こうから一台の黒のタクシーが吸い寄せられるように近づき、我が家の前に静かに止まった。
「お、きたか! じゃあ、あとは頼んだからな、蓮翔。……まあなんだ、俺の息子だからなんも心配してないけどな! ははは!」
父親は僕の肩をポンと叩くと、どこか意味深なウインクを投げてきた。
二人は手際よく荷物をトランクに預け、タクシーに乗り込んでいく。
「お父様、お母様、お気をつけて!」
ちーちゃんはタクシーに向かって深々とお辞儀をし、車が見えなくなるまでその姿勢を崩さなかった。
♦︎
茜色の空が次第に暗くなっていく中、タクシーのテールランプは徐々に消えていった 。
それを見届けた直後、ちーちゃんがガバッと勢いよく顔を上げ、僕の方を振り返った。
「ねえ! れん君! 今の聞いてた!? お買い物デートだって! なんて素敵なご両親なの……! し・か・も! お嫁さんとまで言ってくれた……!」
ちーちゃんは両手を自分の頬に当てて、完全に顔の筋肉がふにゃふにゃに緩んでいる。
さっきまでの凛としたお淑やかな仮面はどこへやら、無防備で幸せいっぱいの表情だ。
「確かに、いい両親だと思うよ。ちーちゃんの服のこととか、ちゃんと気にしてくれてたんだなあ。そんな素振り、全然見せなかったのにさ」
僕は母親から渡された帯付きの札束を大事そうに抱えるちーちゃんを見て、少しだけ胸が熱くなった。両親なりに、僕たちのこれからの生活を応援してくれているのだろう。
「明日! 絶対に行こうね! お買い物デート! …………。ねえ…れん君。お買い物って、どこに行けばいいんだっけ?」
ちーちゃんが首を傾げ、不思議そうに尋ねてきた。
「あーー。うーーん、どこがいいかなぁ……。ここから電車で2駅進んだところに、大きなショッピングモールがあるんだけど、そこなら色々揃ってるかもね!」
「しょっぴんぐもーる……!」
響きだけでワクワクしているのか、ちーちゃんは僕の腕をぐっと掴んで、上目遣いで僕をじっと見つめてきた。
「私、ショッピングモールとか初めてだから、ちゃんと隣でエスコートしてね! れ・ん・と・君!」
いたずらっぽく名前を小分けにして呼ばれ、僕は息が詰まりそうになった。
明日は僕にとって、人生で初めての「デート」というイベントになる。しかも、昨夜お互いの気持ちを伝えて付き合い始めたばかりの、大好きな彼女との初めての外出だ。
(ちゃんとエスコートできるかなぁ……。変なところで失敗して、格好悪い姿を見せたくないな……)
ラブコメの主人公のようなプレッシャーが、僕の肩にじわりとのしかかってくる。
「ほら! お家入ろ! ご飯食べて早く寝て明日に備えなきゃ!」
ちーちゃんは僕の手を引きながら、ウッキウキの足取り軽やかに、跳ねるようにして家へと入っていく。
僕のTシャツがはためくその後ろ姿。その弾むような背中を見つめながら、僕はプレッシャーを感じつつも、これから起きるであろうイベントを想像して、胸の高鳴りをどうしても隠せずにいた。
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