炳場風彦と糸井川正臣
第39話 出会い
炳場風彦は炳場富三と妻ヨシの間に生まれた長男だった。なかなか子宝に恵まれなかった夫妻にとって、風彦は待望の第一子であり一人息子だった。
富三は都内で貸本屋や古本屋を数軒経営していて、経済的に家族は何不自由のない生活を送っていた。千葉県に居を構えたのは、コレクションの蔵書を置けるだけのスペースがある一軒家が欲しかったから、という理由だ。
風彦は両親にとても大切に育てられたが、幼少期から身体が弱く、学校は行ったり休んだりを繰り返していた。
風彦が中学校を卒業しようとしていた頃、両親が交通事故で他界した。
残された風彦は、両親が残した遺産と保険金で生活せざるを得なくなった。その額は、風彦が一生暮らしていけるだけのものであった。
金に目が眩んだ親戚から同居の提案をされる事もあったが、風彦は家族で過ごした家を守りたいと一人暮らしの道を選んだ。
元から進学にそこまで興味がなかった風彦は高校には行かず、日がな一日父が残した蔵書を読んで過ごしていた。
その蔵書の中に、日本の新進気鋭の画家の作品を集めた『新鋭画家選集』という画集があった。風彦はその中の一作、ドレスを着た女性と猫を描いた糸井川正臣の『静けさと癒し』という作品に惹き付けられた。
何故その作品に惹き付けられたのか分からなかった。自分はそんなに女性に執着するタイプではないし、今まで女性に恋愛感情を抱いた事もない。そもそも学校も行ったり行かなかったりだったのだ、恋に落ちるくらい深い付き合いをした女性はいなかった。それに、猫の事だって特別好きなわけでもない。
自分でもこの感情が良く理解出来なかったが、都内で糸井川正臣の個展があるというので、風彦は銀座にある宇田川画廊に出向いた。
初めての銀座、初めての画廊、初めての絵画展。
何もかもが初めての風彦は、その空間を全力で楽しんだ。店主の宇田川も感じのいいおじさんといった感じで、そこはとても心地の良い場所だった。
「ぼくの絵を、楽しんでくれていますか?」
そこに声を掛けて来たのは、背の高いシュッとした中年で、少し白髪が混じった髪の毛に多少目立っている皺。しかし、洗練されたその佇まいは風彦の視線を奪うには十分だった。
「その絵、淑女と猫っていうありきたりな構図なんですけどね。それでもぼくは何だかこの作品が持つ癒しの力みたいなものが気に入っていて」
口をあんぐりと開けて彼を見つめる風彦を見て、中年男性はクスッと笑って目を細めた。
「失礼。自己紹介がまだでしたね。ぼくは糸井川正臣と言って、この絵を描いた画家です」
「あなたが……!」
これが、風彦と糸井川の出会いだった。風彦はその時、身体中に雷が落ちたかのような衝撃を感じていた。こんな感覚は初めてだった。相手は中年のおじさんで、芸能人のような華があるわけでもない。ただ、彼の纏う空気や、その柔らかな物腰、そして自分を見つめる優しいまなざしに心惹かれていた。
呆然とする風彦に対し、糸井川が切り出した提案はさらなる衝撃を彼に与えた。
「その……急にこんなお願いをするのは失礼だと百も承知なのですが、あなたにぼくの作品のモデルをやって頂きたい。ぼくは一目で君の美しさの虜になってしまったようだ」
「えっ……!? わたしがですか!?」
この提案が、彼らの運命の歯車を大きく狂わせる事になるとは。
風彦はしばらく逡巡したが、ここで断る理由もなかった。
「あの……わたしで良ければ、糸井川さんのモデル、やってみたいです」
彼らは自覚していなかった。お互いがお互いに一目で惹かれていたのだと。あぁなる事は全て運命だったのだと。そしてその愛はあまりにも悲しいものだったのだと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます