第4話 川のせせらぎ
足元にはゴツゴツとした岩が並んでいる。
少しだけ坂になっているため、滑らないよう下を向き慎重に歩みを進める。
所々、緑に苔むし、踏みしめるたびに水が溢れるのが分かった。
湧水が流れる浅瀬はきらきらと輝いている。
大きな木々に囲まれたそこは、私の知っている森とは違い、鳥や虫の囀りはなく、ただ木の葉のゆらめきと、川のせせらぐ音だけが静寂の中に響いていた。
湿度の上がったその場所は、あまりに静か過ぎて、二人の足音だけがやけに大きく聞こえる。
前を歩く犬神は、相変わらずぶっきらぼうに背中を向けたままだが、その耳は少しだけ後ろを向いているように感じた。
あまりの気まずさと沈黙に耐えかね、私は少し声を張り、気になっていることを聞いてみようと考えた。
「瀬織津姫ってどんな人?」
「瀬織津姫、様、な!」
歩みを止めて私の方に振り向く。
「瀬織津姫様…。」
「そうだ!これから頭を下げにいくんだから、無礼のないようにな。」
「は、はい…。偉い神様なの?」
「当たり前だろ!瀬織津姫は、穢れを川へと祓う神様だ。
「よしはらのおかみ?」
「ぷっ!なんだそれ!まぁ、お前に言ってもわかんねーか!」
ケラケラと笑い調子に乗ったのか、大股で地面を踏みしめた瞬間、犬神の体が斜めに傾いた。
「げ…!!」
すかさず犬神の腕を掴むが、バランスを崩して、二人もろとも浅瀬に落ちる。
「冷たっ!おい、何するんだよ!引っ張るな!」「引っ張って無いです、助けようとしたの!」
二人共が慌ててバシャバシャと水を掻き分けている中に、透き通るような一際高い声が響いた。
「な、何をしてるんですか!!」
恐る恐る声のした上流の方へと顔を向けると、そこには白魚のような肌、川の流れのように波打つ美しい髪と羽衣を纏った女性が、水面一つ立てずに水の上に立っているのが見えた。
「せ、瀬織津姫…様。」
さっきまで大騒ぎしていた犬神が、情けない声を上げる。浅瀬に尻餅をついたまま、見惚れるだけで二人とも動くことができない。
「神聖な川辺で水遊びとは何事ですか!早く上がりなさい!」
「「は、はい!!」」
そろりそろりと、浅瀬から這い出る。
濡れていた服は、水が幾つか滴り落ちると、あっという間に乾いてしまった。
「瀬織津姫様、申し訳ございません。決して遊んでいたわけではなく、足を滑らせ、二人して転げ落ちてしまったのです。」
先ほどとは打って変わって、かしこまった喋り口調で瀬織津姫様に向かって頭を下げている。
ちらちらこっちの様子を見ている犬神に、こずかれそうだったので、私も見習って深くお辞儀をした。
「あらあら、そうだったのですか。」
川上から優しい声が響く。
「して、その者は一体…。」
声とは裏腹に訝しげに私のことを見るその目からは、警戒と疑念を感じた。
「ウカノミタマ様からの使命により、上ノ国へと参った氏子です。」
「…ウカノミタマ様が、そのようなことを?このような人の子に使命とは、一体なんでしょう?」
触れられたくない、至極真っ当な疑問を不思議そうに首を傾げながら投げかける。
一瞬口を固く結んだ犬神は、目を泳がせながら息を呑む。
その様子を隣で見ていると、何もできる気がしない自分がもどかしい。
「龍神様に、宝珠を、届けに行くのですが、穢れたこのような人の子が、神の側へ参るのは無礼になると考え、せめて瀬織津姫様に穢れを祓ってもらえないかと、ここへ訪れた次第でございます。」
他人事ではないんだけど、なんだか面接みたいだな、なんて考えが頭の端っこに浮かぶ。
「では、本当であるならば、その宝珠見せていただけますか?」
雑念も一気に吹き飛ぶようなその言葉に、空気が割れる。
ピンと糸を張ったような沈黙の後、
「あの、その…」
たじろぎながら言葉を紡ごうとした犬神から瀬織津姫様は視線を外し、ゆっくりと私を見つめる。
何も言わず、ただただ静かに、穏やかな表情で私が口を開くのを待っているようだ。
犬神もそれを察してか、はっと息を呑み、祈るように見守っていた。
心臓がどきどきする。
きっと、私が喋らないといけない。
それだけは、わかる。
「……ちょっとした不注意で、無くしてしまいました。」
視線を落とす。
私が言えることはきっと、それだけだ。
瀬織津姫様がどんな表情をしているのか、確認する勇気はなかった。
川のせせらぎだけが、時が止まっていないことを証明するように響き渡っている。
「…よろしい。」
想像していた言葉とは違い、驚いておずおずと顔を上げる。
「無い物は仕方がないでしょう。」
その言葉を聞き、隣の犬神が胸を撫で下ろすのがわかった。
「神の前で取り繕わず、真っ直ぐに真実を告げたこと。その清さこそ、私が何よりも重んじるものです。」
ふわりと美しい羽衣を揺らし、優しく微笑む。
途端に、瀬織津姫様が息を大きく吸い込むと、周りに幾つかの水の玉が現れた。
それは、羽衣の後ろで大きく円を描くように浮いている。
回転が速くなるにつれ、玉は一つの水となり、やがて二匹の水龍へと姿を変えた。
二匹の水龍は、大きな口を開け、私と犬神目掛けて飛んでくる。
「な、なんで俺までっ!?」
私は咄嗟に目を固く閉じると、衝撃が体をすり抜けて行くのを感じた。
二匹の水龍は交ざり合い、大きな一匹となり、あっという間に川へと姿を変え、轟々と下流へと流れていった。
「う、うう。」
へたり込む犬神を見て瀬織津姫様は静かに笑っている。
「荒療治ではありますが、上ノ国にいる間は問題ないでしょう。」
「あ、ありがとうございます。」
目の前で行われた神々しい神技を思い出し、改まってお辞儀をする。
「行く当ては決まっているのですか?」
「はい…。
しおれた耳のままそう伝える。
瀬織津姫様は右手でふわっと円を描いた。
すると、そこには大きな
ゆらゆらと私の姿が歪に映っているのがわかる。
雨粒が一つ落ちたようなゆらめきは、静まることはない。見つめていると、犬神がいる場所には、大きな影がかかっているように見える。
(何かの影?……気のせいかな?)
犬神は水鏡に映らないように、静かにすーっと体を横に動かした。
突然、水鏡は大きな石が落ちたように強くゆらめくと、そこには先程までの自分ではなく、綺麗なオレンジ色の光が映った。
「磐守は今、秋祭りで騒がしそうですね。」
その風景からは、軽やかな音色が今にも聞こえてきそうだ。
「犬神。」
「は、はい。」
背筋を正し、真っ直ぐ瀬織津姫様を見る。
「人から離れた場所にいる神には、特に失礼のないように。」
そう言い終わると、水鏡がどんどん私と犬神に近づいてきた。
ゆらめきに飲み込まれて行く。
咄嗟に目を閉じると、耳に届く音が川のせせらぎから、軽やかな音色へと入れ替わっていった。
目を開けると、丘上から眺めたオレンジ色の灯籠のすぐ側に立っていた。
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