第4章 温泉街の湯けむり賠償事故



温泉街は、湯気の奥で勘定の音がしていた。


ダンジョン支脈、第三湯脈区画。


そこには、地上の温泉街に似たものがある。

似ているだけで、だいぶ違う。


石畳の通り。

湯気の上がる排水路。

魔石灯の並んだ旅館。

湯治客向けの食堂。

探索者専門の整体屋。

魔力泉を瓶詰めにする薬師工房。

浴場の横にある賭け札売り場。

湯上がり客相手の素材買取屋。

魔獣肉の蒸し焼き屋台。

効能を三倍くらい盛っていそうな貼り紙。


いい匂いもする。


硫黄。

薬草。

肉。

酒。

甘いまんじゅう。


ただ、全部混ざると、少し気持ち悪い。


「観光地ですね」


ユリカが言った。


右腕はまだ吊っている。

歩き方も少し硬い。


だが、白瓶堂から外出許可は出た。


正確には、俺と久瀬と白瓶堂の秋良が三人で話し合い、最終的に秋良が面倒になって折れた。


条件は三つ。


長く歩かない。

戦わない。

倒れたら即帰す。


一番守れなさそうなのは、二つ目だった。


「観光地です」


俺は答える。


「ただ、ダンジョン内の」


「それを付けると、だいたい嫌な意味になりますね」


「事実なので」


ユリカの左手の横には、小さな保険ボードが浮いている。


代理人一号。


試験運用。

権限は契約説明、保険料回収、更新受付、事故一次受付、証拠登録まで。査定と高額支払いは不可。準備層操作も不可。


防衛機能も不可。


そこだけは、本人も俺も何度も確認した。


彼女は歩きながら、ボードを指でつついていた。


「これ、まだ慣れません」


「俺も最初はそうでした」


「今は?」


「慣れたと思っていました」


「黒いやつが出るまでは?」


「はい」


ユリカは、嫌そうな顔でボードを閉じた。


俺の方のボードには、温泉街旅館組合からの相談内容が並んでいる。


【相談者:第三湯脈旅館組合】

【主題:ビジネス賠償保険】

【関連:施設賠償責任/受託物補償/休業損害/風評被害】

【要望:団体契約】


文字だけで面倒だ。


火災保険や移震特約は、まだ分かりやすい。


自分の店が壊れた。

戻す。


自分の家財が消えた。

探すか、復元する。


賠償責任は違う。


自分が加害側になる。


客が怪我をした。

預かった荷物を壊した。

表示と違う効能で苦情が出た。

食事で腹を壊した。

排水で隣の源泉を汚した。


つまり、客に頭を下げる保険だ。


商売人は、自分が被害者になる保険には興味を持つ。

自分が加害者になる保険には、少し遅れて興味を持つ。


だいたい、誰かに請求されてからだ。


温泉街の入口には、旅館組合の職員が待っていた。


丸顔の男で、額に汗をかいている。

湯気のせいなのか、緊張のせいなのかは分からない。


「瀬尾律様ですね。こちらへ」


様。


普段、保険屋かボード屋と呼ばれるので、少し落ち着かない。


ユリカが横で小さく笑った。


「様ですよ、保険屋さん」


「やめてください」


「瀬尾様?」


「もっとやめてください」


職員は聞かなかったことにしてくれた。


できる人だ。


案内されたのは、温泉街の中心にある組合会館だった。


建物は古いが、手入れはされている。

入口には大きな湯桶の紋。

壁には、魔力泉の効能を示す色分け図。


赤湯。

白湯。

青湯。

黒湯。


赤湯は筋肉痛。

白湯は魔力酔い。

青湯は精神安定。

黒湯は高位探索者向け。


黒湯の説明だけ、やけに小さい文字で注意書きが多かった。


「黒湯、危なそうですね」


ユリカが言う。


「危ないものほど高いです」


「保険みたいですね」


「やめてください」


会議室には、旅館の主人たちが集まっていた。


高級旅館。

湯治宿。

安宿。

貸切浴場。

薬師工房。

食堂。

興行浴場の主催者。

荷物預かり屋。


興行浴場という言葉を見た時点で、俺は少し帰りたくなった。


机の中央に座っているのは、旅館組合長の岩倉という男だ。


銀湯楼の主人でもある。


温泉街で一番大きな旅館。

石造りの三階建て。

貴族や上位探索者も泊まる。

魔力泉を直接引いた個室風呂が売りらしい。


岩倉は、よく磨かれた爪をしていた。


この手の人間は、契約書の細かい字も読む。

ただし、自分に都合の悪いところは、読んだ上で忘れた顔をする。


「噂は聞いております」


岩倉が言った。


「商店街を復元した保険ボード。死にかけの探索者に上級ポーションを通した保険。大したものです」


褒め言葉に聞こえる。


だが、目は値踏みしている。


ユリカが、少しだけ後ろへ下がった。


「本日は、温泉街の事業者向け保険の相談と伺っています」


俺が言うと、岩倉は頷いた。


「ええ。特に建物です。魔力泉は扱いが難しい。湯脈が乱れれば、旅館設備が壊れる。浴場も修復が高くつく。あなたの保険なら、建物を戻せるのでしょう」


やはり、そこから来る。


自分の建物。

自分の浴場。

自分の設備。

自分の損害。


俺はボードを開いた。


【温泉街事業者向け保険案】

【建物設備補償】

【源泉設備補償】

【休業損害】

【施設賠償責任】

【受託物補償】

【食中毒・薬害類似事故補償】

【風評損害対応】


何人かが、施設賠償責任のところで顔をしかめた。


分かりやすい反応だ。


「建物だけでは足りません」


俺は言った。


岩倉の眉がわずかに動く。


「と、言いますと」


「温泉街は、客を入れる商売です。浴場で転倒する。湯で火傷する。魔力酔いを起こす。預かった装備が壊れる。食事で腹を壊す。隣の源泉を汚す。建物を戻す保険だけでは、客への責任は処理できません」


部屋の空気が、少し悪くなった。


旅館の主人たちは、事故の話を嫌う。


自分の店で起きるかもしれない事故の話は、もっと嫌う。


貸切浴場の女主人が言った。


「お客様が勝手に滑った場合も、こちらの責任ですか」


「場合によります」


「便利な言葉ですね」


「はい」


ユリカが横で小さく笑った。


俺は続ける。


「床が濡れていたのか。注意表示があったのか。手すりはあったのか。湯の温度は適正だったのか。酒を出した後に黒湯へ入れていないか。そういうところを見ます」


「細かい」


食堂の主人が言った。


「事故の後は、もっと細かくなります」


部屋が静かになる。


嫌な言い方だが、事実だ。


薬師工房の若い男が手を上げた。


「魔力泉を瓶詰めして売る場合は」


「効能表示と実際の効能がずれていれば、薬害類似事故や表示責任の話になります」


「薬じゃありません。湯です」


「瓶に詰めて効能を書いて売れば、似たような扱いになります」


若い男は、隣の主人と顔を見合わせた。


心当たりがある顔だった。


ユリカの小さなボードが光る。


【代理人補助】

【説明項目:効能表示/受託物/施設管理】


彼女はそれを見て、嫌そうな顔をした。


「私も説明するんですか」


「代理人なので」


「試験です」


「試験なので」


さらに嫌そうな顔をした。


だが、彼女はボードを閉じなかった。


「探索者向けに言うなら」


ユリカは、少し考えてから言った。


「荷物を預ける時、剣や防具の状態を記録していなかったら、壊れた後に揉めます。預けた側も、預かった側も、絶対に面倒になります」


会議室の視線が彼女に向く。


吊った右腕。

頬の傷。

元探索者だとすぐ分かる。


「私は、死んだことにされた側なので、記録がない怖さは少し分かります」


部屋が、さっきと違う意味で静かになった。


俺が言うより、効いた。


ユリカは、自分で言ってから少し後悔したような顔をした。

だが、もう遅い。


保険の説明は、たまに自分の傷を使う。


使わない方がいいのかもしれない。

でも、使った方が伝わる時がある。


それが嫌なところだ。


岩倉が軽く咳払いした。


「施設賠償の必要性は分かりました。ただ、保険料が高くなりすぎるのは困ります」


来た。


全員がそこに戻る。


「補償を削れば安くなります」


俺は言った。


何人かが顔を明るくする。


だから、次も言う。


「ただ、削ったところで事故が起きれば、出ません」


顔が戻る。


この反応も見慣れてきた。


「組合契約にするなら、最低限の必須補償を決めた方がいいです。建物設備、施設賠償、受託物、休業補償。温泉街なら、源泉設備と泉質変動の扱いも必要です」


「泉質変動?」


岩倉が聞いた。


少しだけ、声が硬い。


「魔力泉は安定しないのでしょう」


「通常管理の範囲です」


「異常が出た時、営業を止める基準はありますか」


岩倉は答えなかった。


代わりに、隣の湯治宿の主人が視線を逸らした。

薬師工房の若い男も、手元の資料を見るふりをした。


ある。


何かある。


ユリカも気づいたようだった。

こちらを見ないまま、左手の指でボードを軽く叩く。


小さな表示が出る。


【注意:反応あり】

【議題候補:泉質異常時の営業判断】


代理人ボード、意外と使える。


「泉質が変わった時の事故は、温泉街では重要です」


俺は続けた。


「客が火傷をした。魔力酔いを起こした。装備が腐食した。効能が逆に出た。そういう場合に、自然現象だから全部不可抗力とは言い切れません」


岩倉の目が細くなる。


「それは、こちらが異常を把握していた場合の話でしょう」


「把握していたなら、特に」


「把握できない異常もあります」


「そのために記録を取ります。湯温、色、魔力濃度、排水、客数、清掃状況。記録があれば、責任を軽くできる場合もあります」


記録。


この言葉で、商人たちはだいたい嫌な顔をする。


面倒だからだ。


だが、事故の後に一番欲しくなるのも記録だ。


ユリカが小さく呟いた。


「記録がないと、死んだことにもされますしね」


「重いです」


俺が言うと、彼女は少し肩をすくめた。


「効くかなと」


効く。


効きすぎることもある。


会議は一度休憩になった。


組合側が、保険料の試算と必須補償の範囲を内部で話したいと言ったからだ。

要するに、いくらまで削れるか相談したいのだろう。


俺とユリカは、会館の外へ出た。


温泉街の通りには、夕方の客が増え始めていた。


湯治客。

探索者。

貴族らしき一団。

温泉まんじゅうを売る子供。

湯上がりの冒険者。

魔力泉の瓶を抱えた薬師。


平和に見える。


平和に見える場所ほど、事故が起きた時に揉める。


銀湯楼の二階から、湯気が一度だけ青白く光った。


通りの何人かが顔を上げる。


だが、すぐに視線を戻した。


温泉街では、湯気が光ることくらい珍しくないのだろう。


ただ、会館の窓際に立っていた岩倉だけは、その光を見なかった。


見なかったのではなく、見ないふりをしたように見えた。


「温泉、入りたいですか」


ユリカが聞いた。


「仕事中です」


「入りたいんですね」


「少し」


「正直ですね」


「右腕に効く湯もあるかもしれません」


言うと、ユリカは吊った腕を見た。


「効能表示、信用していいんですか」


「今から保険の対象にするところです」


「最悪の答えですね」


その時、通りの奥で悲鳴が上がった。


観光地の悲鳴は、最初少し遅れて届く。


誰かが転んだのか。

喧嘩か。

芸の一部か。


周囲が判断に迷うからだ。


二度目の悲鳴で、空気が変わった。


旅館の方だ。


銀湯楼。


温泉街で一番大きな旅館。

岩倉の旅館。


白い湯気が、旅館の二階から噴き出している。


ただの湯気ではない。


青白く光っている。

魔力を含んだ蒸気だ。


ボードが勝手に開いた。


【事故一次受付】

【発信元:銀湯楼】

【事故種別:浴場内負傷/受託物損害疑い】

【被害者:複数】

【代理人対応:可能】


ユリカの前にも、小さなボードが開く。


彼女は、一瞬固まった。


代理人としての、初めての事故受付だ。


「行けますか」


俺が聞くと、ユリカは嫌そうな顔をした。


怖がっているのではない。


たぶん、怖がっている顔を見られるのが嫌なのだ。


「転んだらお願いします」


「分かりました」


「今は、まだ転んでません」


彼女は左手でボードを押した。


【事故一次受付:代理人片桐ユリカ】

【受付開始】


銀湯楼の玄関から、濡れた浴衣の客が飛び出してきた。


腕を押さえている。

肌が赤く腫れている。


その後ろから、宿の従業員が叫びながら走る。


さらに、探索者らしき男が、腐食した剣を抱えて出てきた。


刃が、黒く変色している。


温泉で、剣が腐る。


普通なら、かなり変な事故だ。


ダンジョン内なら、少しだけあり得る。


俺はボードを開く。


【現場確認:開始】

【主題:施設賠償責任/受託物補償/泉質変動】

【注意:営業中異常発生】


会議で話したばかりの事故が、会議の休憩中に起きた。


こういう時、保険屋はよく思う。


だから言ったのに。


ただ、その言葉は絶対に口に出してはいけない。


俺とユリカは、湯気の上がる銀湯楼へ向かった。


銀湯楼の玄関は、すでに人で詰まっていた。


濡れた浴衣の客。

桶を抱えた従業員。

怒鳴る探索者。

泣いている子供。

湯気で曇った魔石灯。

床に落ちた札。

誰かが踏んだ温泉まんじゅう。


観光地の事故は、見た目が散らかる。


血と瓦礫だけなら、まだ分かりやすい。


ここには怒りと恥と湯気と金が混ざっていた。


「通してください。保険受付です」


ユリカが言った。


声は大きくない。


だが、よく通った。


元探索者の声だ。

ダンジョンで仲間に指示を飛ばしていた声。


何人かが振り向く。

彼女の右腕を見る。

吊られた腕と頬の傷を見て、少しだけ道を空ける。


俺が言うより早かった。


代理人一号は、思ったより使える。


ユリカの前に小さなボードが浮く。


【事故一次受付】

【受付者:片桐ユリカ】

【場所:銀湯楼】

【事故種別:浴場内負傷/受託物損害】

【証言記録:開始】


彼女はそれを見て、ほんの一瞬だけ顔をしかめた。


それでも閉じない。


「怪我人は?」


「奥です!」


従業員の一人が叫んだ。


「湯治客が三名、探索者が二名。肌が焼けたみたいになってます。あと、預かり装備が」


「装備は後です。怪我人が先」


ユリカが即答した。


従業員は、少し驚いた顔をした。


たぶん、俺も同じ顔をしていたと思う。


「何ですか」


ユリカがこちらを見ずに言う。


「いえ」


「今、感心しました?」


「少し」


「後で怒ります」


「はい」


銀湯楼の奥へ進むと、湯気が濃くなった。


普通の湯気ではない。

青白い光が混じっている。肌に触れると、細かい針で刺されるような感覚がある。


ボードが反応した。


【周辺魔力濃度:高】

【泉質異常疑い】

【長時間滞在非推奨】


会議の時に出た黒湯ではない。


これは青湯の区画だ。

精神安定を売りにしている、比較的安全な湯のはずだった。


安全な湯が、客の肌を焼いた。


面倒な事故だ。


広間に怪我人が並べられていた。


湯治客の老人。

若い女。

探索者らしき男。

子供連れの母親。

肩を押さえる大柄な剣士。


症状は似ている。


皮膚が赤く腫れ、一部は黒ずんでいる。火傷というより、魔力焼けに近い。


白瓶堂の秋良がいれば悪態をつきながら処置するのだろうが、ここは温泉街だ。銀湯楼にも治療師はいるらしく、薬を塗っている。


ただ、手が足りていない。


「ユリカさん、個人保険の照会を」


「私が?」


「一次受付はできます」


彼女は小さく息を吐き、ボードを操作した。


【個人契約照会】

【被害者一:契約なし】

【被害者二:ダンジョン傷害医療あり】

【被害者三:旅館組合共済のみ】

【被害者四:契約なし】

【被害者五:探索者傷害医療あり】


結果が並ぶ。


契約ありとなしが混ざっている。


観光客は保険に薄い。

探索者は、死にかけてから厚くなる。


「傷害医療がある人は、先に処置を通します」


「契約がない人は?」


ユリカが聞いた。


「旅館側の施設賠償を見ることになります」


「銀湯楼の?」


「はい」


ユリカは周囲を見た。


泣いている子供。

腕を押さえる老人。

怒鳴る探索者。


その視線が、少しだけ硬くなる。


自分が助かった時は、自分の傷害医療だった。


今回は、店側の責任も絡む。


自分の保険で助かる人間。

店の賠償で助かる人間。

どちらにも入っていない人間。


線が増える。


増えた線は、人を分ける。


「施設賠償って、こういうことですか」


「こういうことです」


「嫌ですね」


「はい」


治療師に必要な承認を出す。


個人傷害医療のある二人は、すぐに処置費用が通った。


【傷害医療:承認】

【応急処置費用:対象】

【後続治療:経過確認】


契約のない客は、いったん銀湯楼の事故受付に紐づける。


【施設賠償責任:契約照会】

【対象事業者:銀湯楼】

【契約状態:未加入】

【旅館組合団体契約:未成立】

【暫定処理:保留】


未加入。


まだ相談段階だった。

会議の途中だった。

契約は成立していない。


ボードは、そこを容赦しない。


ユリカにも表示が見えた。


「これ、出ないんですか」


「契約はまだありません」


「でも、相談中でした」


「相談中は契約ではありません」


言いながら、自分でも嫌になる。


正しい。


正しいが、今ここで言うと嫌な言葉だ。


従業員の一人が顔を上げる。


「組合長が呼んでいます」


「先に現場を見ます」


俺が言うと、従業員は困った顔をした。


「ですが」


「現場が先です。湯を止めましたか」


「一部は」


「全部止めてください」


従業員は、さらに困る。


「全部止めると、宿泊客が」


「怪我人が増えます」


そこでようやく走った。


銀湯楼は大きい。


大きい店ほど、止める判断が遅い。


止めるだけで損が出るからだ。


浴場へ向かう途中、岩倉が現れた。


会議室にいた時より、少しだけ顔色が悪い。

だが、服装は整っている。濡れてもいない。


「瀬尾さん。これは突発的な泉質変動です。銀湯楼も被害者です」


第一声がそれだった。


俺は足を止める。


ユリカが半歩後ろで黙る。


「まだ原因は見ていません」


「見れば分かります。湯脈の乱れです。ダンジョン由来の自然現象でしょう」


「把握していた異常はありますか」


岩倉の目が、ほんの少しだけ動いた。


「ありません」


早い。


早すぎる否定だった。


「記録を見せてください」


「今は混乱しています。後ほど」


「今見ます」


「怪我人の対応が先では?」


「治療は進めています。これ以上怪我人を出さないために、源泉と記録を見ます」


岩倉の口元が固くなる。


商売人の顔から、責任者の顔へ変わる。


いや、責任者の顔を作った。


「こちらへ」


案内された浴場は、青湯の大浴場だった。


本来なら、淡い青色の湯が静かに満ちているはずだ。


だが今は、湯面が不自然に光っている。青というより白い。湯気も強い。壁の金属装飾が、ところどころ黒く変色している。


浴槽の縁には、赤くなった手形が残っていた。


客が慌てて這い上がった跡だ。


ユリカがそれを見て、口元を引き結ぶ。


【現場記録:開始】

【浴場:青湯大浴場】

【湯温:基準内】

【魔力濃度:基準超過】

【腐食反応:あり】

【人体反応:魔力焼け】


湯温は高くない。


熱湯で火傷したわけではない。


魔力濃度が跳ねた。


肌が焼け、金属が腐った。


「温度管理はできていました」


岩倉が言った。


「はい。温度は」


「では不可抗力でしょう」


「温度だけなら」


俺は壁の装飾を見る。


黒く変色した金属。


腐食は今日だけのものに見えない。表面が何層かに分かれている。古い変色の上に、新しい変色が乗っている。


「この黒ずみ、いつからですか」


岩倉は答えない。


代わりに、後ろにいた若い従業員が目を伏せた。


俺はそちらを見る。


「記録係ですか」


従業員はびくっとした。


「……はい」


「日々の泉質記録を」


岩倉が割り込む。


「混乱しています。今は」


「見せてください」


二度目。


岩倉の顔から、少しずつ色が消えていく。


ユリカが小さなボードを出した。


【証拠登録:代理人権限可】

【対象:泉質記録簿/現場写真/従業員証言】


彼女はそれを見て、従業員へ向き直る。


「記録簿、ありますよね」


声は静かだった。


「捨ててないなら、出した方がいいです。後で出ると、もっと面倒になります」


従業員は岩倉を見た。


岩倉は何も言わない。


その沈黙は、許可ではない。

だが、禁止でもなかった。


従業員は走った。


戻ってきた時、手には濡れた記録簿があった。


岩倉の顔が、完全に変わった。


俺は受け取り、ボードに読み込ませる。


【泉質記録簿:読取】

【三日前:魔力濃度上昇】

【二日前:青湯一部白濁】

【前日:金属桶腐食報告】

【本日朝:従業員より営業停止提案】

【対応記録:未処理】


会議室で出ていた話だ。


異常を把握していた。


しかも、営業停止の提案まで出ていた。


ユリカが岩倉を見る。


顔には何も出ていない。


ただ、目だけが冷えていた。


「知ってたんですね」


岩倉はすぐには答えなかった。


浴場の湯気が、その沈黙を少し隠す。


「繁忙日でした」


岩倉は言った。


それは答えではない。


だが、答えだった。


「湯脈は、朝には落ち着くと思っていた。前にも似た揺らぎはあった。全てを止めていれば、商売になりません」


「客には?」


「不安を煽る必要はないと判断しました」


「従業員の停止提案は」


「最終判断は私です」


そうだろう。


最終判断をしたのなら、最終責任も来る。


ボードが判定を更新する。


【営業継続判断:事業者側】

【異常把握:あり】

【客への告知:なし】

【施設賠償責任:高】

【不可抗力主張:制限】


岩倉にも見えている。


見えるようにした。


「施設賠償責任保険は未加入です」


俺は言った。


「まだ契約前でしたから」


岩倉の声は固い。


「はい」


「なら、保険では出ない」


「銀湯楼自身の契約からは出ません」


その言い方に、岩倉が反応した。


「他にあるのですか」


「客本人の傷害医療がある場合は、そちらで応急処置はできます。ただし、それで銀湯楼の責任が消えるわけではありません」


「二重取りでは」


「違います。治療費の立替や求償の話になります」


岩倉は黙った。


たぶん、分かっている。


分かった上で、言っている。


こういう人間は厄介だ。


分かっていない人間より、分かっていて逃げる人間の方が、ずっと処理に時間がかかる。


浴場の外で怒号が上がった。


「俺の剣をどうしてくれる!」


探索者の声だ。


俺とユリカは同時に振り向く。


受託物損害。


さっき腐食した剣を抱えていた男だろう。


預かり装備の保管所へ向かうと、そこもひどい状態だった。


棚に並んでいた剣、防具、魔道具が、湯気を浴びて黒ずんでいる。


全部ではない。


下段ほど被害が大きい。床近くに溜まった蒸気が、金属を侵したらしい。


荷札が湿って読みにくい。


一部は剥がれている。


預かり所の係員が、半泣きで立っていた。


「浴場から蒸気が逆流して、急に」


ユリカがボードを出す。


【受託物受付】

【登録記録:あり】

【写真記録:一部あり】

【状態記録:不完全】

【所有者照合:要】


「写真記録、一部だけ?」


俺が聞くと、係員は顔を伏せる。


「混雑時は、荷札だけで」


「高額装備も?」


「常連の方は、いつものことなので」


いつものこと。


事故の後に聞きたくない言葉の上位に入る。


探索者の男が剣を突き出す。


「これ、金貨三十枚だぞ」


刃は黒く腐食し、魔力の流れが乱れている。


素人目にも、まともに使えない。


「預けた時の記録は」


ユリカが聞いた。


「あるに決まってるだろ」


係員が慌てて帳簿をめくる。


荷札番号。


名前。


剣一本。


それだけだった。


状態写真なし。

素材名なし。

価額申告なし。


男の顔が変わる。


「おい」


俺はボードを見た。


【受託物:長剣一】

【事前状態記録:不足】

【価額申告:なし】

【腐食原因:泉質異常蒸気】

【所有確認:仮成立】

【損害額:査定困難】


査定困難。


この表示が出ると、たいてい怒鳴られる。


実際、怒鳴られた。


「困難じゃねえよ! 見りゃ分かるだろ!」


分かる。


壊れているのは分かる。


だが、元の価額が分からない。

本当に金貨三十枚だったのか。

前から傷んでいなかったのか。

預かった時点でどんな状態だったのか。


記録がない。


記録がなければ、人間の言い分がぶつかる。


ユリカが、腐食した剣を見ていた。


「これ、青鱗鋼ですか」


探索者の男が少し驚く。


「ああ」


「なら、金貨三十枚は大げさではないと思います。魔力の通りもいい。手入れしてた跡もあります」


「分かるのか」


「前に、同じ材質の短剣を持ってました」


持ってました。


過去形だった。


ユリカは、それ以上は言わない。


俺はボードに追記する。


【代理人所見:青鱗鋼/高額装備相当】

【損害額:専門査定要】

【暫定対応:保留】


ユリカのボードが震える。


【注意:査定権限なし】

【所見登録のみ可】


彼女は少し不満そうにした。


「私の見立ては使えないんですか」


「使えます。決定はできません」


「面倒ですね」


「面倒にしないと、後で壊れます」


探索者の男はまだ納得していない。


だが、ユリカが材質を見たことで、少しだけ態度が変わった。


少なくとも、受付係だけを怒鳴る空気ではなくなった。


預かり所にも問題がある。


記録が不十分。

高額装備の写真も価額申告もない。

荷札が湿気で剥がれる保管方法。


そして、蒸気の逆流原因は銀湯楼の泉質異常。


一つの事故で、線が何本も伸びる。


浴場で怪我をした客。

預かり装備を壊された探索者。

記録を怠った預かり係。

営業停止判断をしなかった旅館。

異常を知っていた組合長。

契約前だった賠償保険。


全部が、絡まる。


俺は岩倉を見る。


「銀湯楼は、客への応急対応を優先してください。治療費、装備損害、休業判断。どれも後で逃げられません」


岩倉は、ほんの少しだけ苛立ちを見せた。


「保険契約前の事故です。あなた方が指示する立場ではないでしょう」


「指示ではありません」


「では何です」


「この後、請求される側への警告です」


岩倉は黙った。


ユリカが小さくこちらを見た。


言いすぎたかもしれない。


だが、岩倉にはそれくらいでちょうどいい。


預かり所の奥から、別の従業員が走ってきた。


「裏の排水路が詰まっています! 薬師工房側からも苦情が」


今度は排水。


俺は額を押さえたくなった。


一つの事故が、次の事故の入口を開ける。


温泉街の裏手へ回ると、排水路から青白い湯が溢れていた。


本来なら、魔力を抜いてから流す仕組みらしい。


だが処理槽の一つが止まっている。

そこに、薬師工房からの廃液が混ざっていた。


薬師工房の若い男が、青い顔で立っている。


会議室で、瓶詰めの効能表示を聞いてきた男だ。


「うちは関係ありません。通常の廃液です」


その言い方も、早かった。


今日は早い否定が多い。


俺はボードで確認する。


【排水路確認】

【銀湯楼排水:魔力濃度高】

【薬師工房排水:反応あり】

【混合反応:腐食性増加】

【処理槽:一部停止】

【原因:複合】


複合。


最悪ではない。


ただ、面倒ではある。


全部が銀湯楼の責任ではない。

全部が薬師工房の責任でもない。

処理槽を管理する組合にも責任がある。


事故は、単独犯でいてくれない。


ユリカが排水路を見下ろす。


「これ、誰が払うんですか」


「これから揉めます」


「嫌な答えですね」


「正直な答えです」


岩倉、薬師工房の男、組合職員が同時に黙った。


ここから先は、保険の範囲というより、責任割合の話になる。


もし団体契約が成立していれば、まず被害者対応を進め、あとで内部求償や責任割合を整理できたかもしれない。


だが、まだ契約前だ。


会議の休憩中だった。


紙一枚。

承認一つ。

保険料の支払い一つ。


その前と後で、扱いが変わる。


商店街でも見た。

温泉街でも同じだった。


「旅館組合として、緊急対応資金はありますか」


俺が聞くと、組合職員が慌てて頷く。


「少しなら」


「治療費と応急対応を先に。責任割合は後です」


岩倉が反論しようとする。


俺は先に言った。


「ここで止めると、風評になります」


その言葉は効いた。


金より、責任より、旅館街に効く言葉。


風評。


温泉街は信用で客を呼ぶ。


魔力泉で客が焼けた。

装備が腐った。

旅館が隠した。

対応が遅れた。


そう広まれば、被害は銀湯楼だけで済まない。


岩倉は、初めて本気で計算する顔になった。


「組合として対応する」


そう言った。


やっとだ。


ボードに暫定記録を入れる。


【緊急対応】

【治療費:組合立替】

【装備損害:暫定受付】

【排水停止:実行】

【営業停止:銀湯楼青湯区画】

【追加被害防止:優先】


ユリカのボードにも同じような表示が出る。


彼女はそれを見て、左手で一つずつ受付を押していった。


怪我人。

装備損害。

従業員証言。

泉質記録簿。

排水路写真。

処理槽停止記録。


代理人の初仕事にしては、重すぎる。


だが、彼女は逃げなかった。


何度か咳き込み、壁に手をつき、それでも記録を止めなかった。


白瓶堂に戻ったら、秋良に怒られる。

俺も怒られる。


それは、後で考える。


銀湯楼の青湯区画は、その日のうちに営業停止になった。


客には治療案内が出され、預かり装備の被害受付が始まった。

排水路は一時封鎖。

薬師工房は廃液の提出を求められた。

旅館組合は緊急対応資金を出すことになった。


保険契約は、まだ成立していない。


だから保険金は出ない。


俺たちがしたのは、事故の記録と、次の揉め事を少しだけ小さくすることだった。


夕方、組合会館に戻ると、会議室の空気は別物になっていた。


午前中、保険料が高いと言っていた人間たちが、黙って座っている。


岩倉もいた。


服はまだ整っている。

だが、爪の先に青い湯の染みがついていた。


「先ほどの件ですが」


岩倉が口を開く。


「団体契約を、進めたい」


誰も反対しなかった。


ただ、俺はすぐには頷かなかった。


「条件があります」


岩倉の眉が動く。


「泉質記録の義務化。異常時の営業停止基準。高額装備の受託物登録。排水処理の共同管理。施設賠償責任は必須。薬師工房と旅館の責任分界も入れます」


会議室の誰かが、小さく呻いた。


面倒だからだ。


だが、今日はその面倒を省いた結果を見た。


ユリカが、俺の横でボードを開いた。


小さな代理人ボード。


彼女は、午前中より少しだけ慣れた手つきで、説明項目を表示する。


【旅館組合団体契約案】

【必須:施設賠償責任】

【必須:受託物補償】

【必須:泉質記録】

【必須:異常時営業停止基準】

【必須:排水処理共同管理】

【選択:休業損害】

【選択:風評対応費用】

【選択:高額装備預かり特約】


岩倉が、それを見た。


「休業損害は選択なのですか」


「保険料がかなり上がります」


俺は答える。


「ですが、今日のように止める判断をした時、休業損害がないと、また無理に営業したくなります」


岩倉は黙った。


自分の話だと分かっている。


ユリカが静かに続けた。


「休むための保険も、いると思います」


その言葉は、会議室に変な重さで落ちた。


彼女自身、休むのが下手だ。


たぶん、だから言える。


俺が言うより、効いた。


岩倉は長く息を吐いた。


「休業損害も、見積もりに入れてください」


温泉街の主人たちが、次々に頷いた。


事故の後は、保険が売れる。


商店街でもそうだった。

ここでもそうだ。


俺は、それが嫌だった。


だが、今日売らなければ、次の事故でまた同じ顔を見る。


だから売る。


嫌な仕事だ。


翌朝、温泉街はいつもより静かだった。


湯気は変わらず上がっている。

まんじゅう屋も開いている。

食堂も仕込みをしている。

魔石灯も、昨夜と同じように通りを照らしていた。


それでも、客の歩き方が違う。


銀湯楼の前だけ、少し距離を取る。

青湯の看板を見る。

従業員を見る。

それから、何も言わずに通り過ぎる。


風評は、声より先に動く。


「昨日までなら、あそこで写真を撮る客がいたそうです」


ユリカが言った。


銀湯楼の玄関前には、大きな青い湯桶の飾りがある。

今は誰も近づかない。


彼女は、昨日より少し顔色が悪い。


白瓶堂から持たされた薬湯を、嫌そうに飲んでいる。秋良が調合したものだ。効くのは分かるが、匂いがひどい。


「飲まないと怒られますよ」


「飲んでます」


「顔が拒否しています」


「体が拒否してるんです」


それでも飲み干した。


代理人ボードが、彼女の横で開く。


【代理人状態:疲労】

【休息推奨】


ユリカは何も言わずに閉じた。


最近、ボードの扱いだけは早くなっている。


組合会館には、朝から人が集まっていた。


銀湯楼。

薬師工房。

旅館組合。

被害を受けた探索者。

湯治客の家族。

ギルド職員。

温泉街の管理担当。


昨日の会議とは空気が違う。


保険に入るかどうかを考える場ではない。


誰が、どこまで責任を負うかを決める場だ。


事故の後の会議は、だいたい長い。


長い上に、誰も満足しない。


久瀬は記録板を持って待っていた。

目の下の隈が濃い。昨日の夜、ギルド側でも臨時対応をしていたのだろう。


「瀬尾さん、片桐さん。こちらへ」


席に着くと、すぐにボードを開く。


【温泉街事故整理】

【一:浴場内負傷】

【二:受託物損害】

【三:排水路混合事故】

【四:営業継続判断】

【五:風評対応】


五つ。


昨日の事故は、もう一つの事故ではなくなっていた。


浴場で客が傷を負った。

預かり装備が腐食した。

排水路で薬師工房の廃液と混ざった。

異常を知りながら営業を続けた。

その結果、温泉街全体の評判が落ち始めた。


線が増えるほど、声も増える。


最初に怒鳴ったのは、探索者だった。


腐食した剣を机の上に置く。


青鱗鋼の長剣。

昨日より黒ずみが広がっている。魔力の流れが死んでいる。


「金貨三十枚だ」


彼は言った。


昨日も聞いた。


「修理で済むか、交換相当か、専門査定が必要です」


俺が言うと、探索者は机を叩いた。


「見りゃ分かるだろ。死んでる」


「剣が壊れているのは分かります。金貨三十枚かどうかは、記録が足りません」


「預けたんだぞ」


「はい」


「預けた先で壊された」


「はい」


「なら払え」


「誰が、いくら払うかを今決めています」


探索者は、銀湯楼の岩倉を睨んだ。


岩倉は、昨日より疲れて見えた。


服は整っている。

爪もきれいだ。

だが、目の下に薄い影がある。


「銀湯楼として、誠意ある対応はいたします」


誠意。


金額が決まっていない時によく出る言葉だ。


探索者の顔が歪む。


ユリカが、剣に近づいた。


「触っても?」


探索者は少し迷い、頷いた。


ユリカは左手で剣の鞘を押さえ、刃を見た。

右腕はまだ使えない。片手だけなので、動きは慎重だ。


「青鱗鋼。鍛え直しは難しいです。腐食が芯まで入っていたら、修理より作り直しの方が早いと思います」


「ほら見ろ」


探索者が言う。


ユリカは続けた。


「ただ、預ける前の状態が記録されていません。刃こぼれがなかったか、魔力通しがどの程度だったか、写真も価額申告もない。だから、満額で通すには足りないです」


探索者の顔が変わる。


味方だと思った相手が、途中で線を引いた顔だ。


「お前、探索者だろ」


「元です」


ユリカは剣を戻した。


「だから、装備が壊れるのがどれだけきついかは分かります。でも、記録がないと揉めます。今、揉めてます」


部屋が静かになる。


俺が言うより効く。


昨日から、そればかりだ。


俺はボードにユリカの所見を記録する。


【代理人所見:高額装備相当】

【事前状態記録:不足】

【損害額:専門査定】

【暫定補償:組合立替候補】


「今回は、組合の緊急対応資金から暫定補償を出し、専門査定後に銀湯楼、預かり所、組合管理分で負担割合を決める形が現実的です」


「なぜ組合が」


岩倉が言った。


「預かり所は銀湯楼の中でも、温泉街共通の荷物札を使っていました。保管基準も組合の統一形式です」


久瀬が記録板を見ながら補足する。


「荷札の耐湿基準が低すぎます。高額装備用の写真記録も義務化されていません」


預かり所の係員が、小さく縮こまった。


「今までは、それで」


今までは。


事故の後に聞きたくない言葉だ。


俺は頷く。


「今までは事故がなかった。今回は起きた。それだけです」


誰も返さない。


次は、浴場内負傷の話になった。


湯治客三名。

探索者二名。


重症者はいない。


だが、魔力焼けの治療には時間がかかる。皮膚だけではなく、魔力回路が浅く傷んでいる者もいた。


個人傷害医療に入っていた探索者二名は、応急処置費用がすでに通っている。


問題は、保険に入っていなかった湯治客だ。


母親と子供。

老人。

若い女。


彼らは、銀湯楼に治療費と宿泊費の返還を求めている。


岩倉は不可抗力を主張しきれなくなっていた。


泉質記録簿があるからだ。


三日前の魔力濃度上昇。

二日前の白濁。

前日の金属桶腐食。

当日朝の営業停止提案。


この四つが、きれいに並んでいる。


きれいすぎて逃げられない。


【異常把握:あり】

【営業停止提案:あり】

【営業継続判断:銀湯楼】

【客への告知:なし】

【施設賠償責任:高】


ボードの判定を見て、岩倉は目を閉じた。


「銀湯楼で治療費を負担します」


その場で、湯治客の家族が息を吐いた。


安心ではない。


まず一つ、殴る相手が決まった時の息だ。


「慰謝料は」


若い女が言った。


岩倉の眉が動く。


俺はボードを見る。


慰謝料という項目は、ダンジョン保険ではまだ整理が甘い。治療費、休業損害、装備損害、搬送費。そこまでは出しやすい。精神的損害は、世界が違っても面倒だ。


「ギルド基準の見舞金になります。金額は症状と通院期間で変わります」


「保険で?」


「今回は契約前なので、銀湯楼と組合の負担です」


若い女は岩倉を見る。


岩倉は頷いた。


少し遅れたが、頷いた。


それだけでも、会議室の空気は少し進んだ。


次に、排水路の話が出る。


薬師工房の若い男は、最初から防御の姿勢だった。


「うちの廃液は基準内です」


ボードに検査結果を出す。


【薬師工房排水:単独基準内】

【銀湯楼排水:魔力濃度高】

【混合後:腐食性増加】

【処理槽:停止】

【原因:複合】


「単独なら基準内です」


俺は言った。


若い男の顔が少し明るくなる。


「ただ、銀湯楼の高濃度排水と混ざると腐食性が上がっています。処理槽が止まっていたことで、被害が広がりました」


顔が戻る。


「つまり?」


「銀湯楼、薬師工房、処理槽管理者で分けます」


「うちもですか」


「薬師工房の廃液がなければ、腐食性はここまで上がっていません」


「基準内なのに」


「基準が、複合事故を想定していなかった可能性があります」


組合職員が青ざめた。


責任の一部が組合へ戻ってきたからだ。


事故の線は、回り込む。


誰か一人を悪者にできれば楽だ。


だが、実際の事故は楽をさせてくれない。


岩倉が口を開く。


「では、組合の基準見直しも必要ということですか」


「はい」


「それも保険条件に?」


「入れます」


会議室の何人かが、また嫌な顔をした。


条件が増える。

手間が増える。

保険料も増える。


それでも、昨日の湯気と悲鳴を見た後では、強く反対する者はいなかった。


昼前には、暫定処理がまとまった。


銀湯楼は、浴場内負傷者の治療費と見舞金を負担。


預かり装備は、組合緊急資金から暫定補償を出し、専門査定後に責任割合を精算。


青湯区画は、泉質が基準内に戻るまで営業停止。


薬師工房と銀湯楼の排水は、処理槽の改修が終わるまで制限。


旅館組合は、風評対応として共通告知を出す。


告知。


これがまた難しい。


隠せば悪化する。

書きすぎても客が逃げる。


風評対応費用は、まだ契約前なので保険では出ない。


だが、次からは団体契約に入れることになった。


次から。


この言葉は、事故の後で何度も出る。


次から気をつける。

次から記録する。

次から保険に入る。

次から止める。


その次が来るまでに、人は少し忘れる。


だから契約にする。


記録にする。


忘れても、ボードが覚えているようにする。


午後、団体契約の再説明が行われた。


昨日とは違い、旅館側の姿勢は明らかに変わっていた。


俺は項目を並べる。


【温泉街団体ビジネス賠償保険】

【必須:施設賠償責任】

【必須:受託物補償】

【必須:泉質記録】

【必須:異常時営業停止基準】

【必須:排水処理共同管理】

【選択:休業損害】

【選択:風評対応費用】

【選択:高額装備預かり特約】


ユリカは横で、代理人ボードを使って説明補助をする。


最初より、ずっと落ち着いていた。


「高額装備を預かる場合は、写真と価額申告を取ってください。面倒でも、預けた時の状態がないと、壊れた後に絶対揉めます」


探索者たちが頷く。


旅館側は嫌そうな顔をする。


それでいい。


両方が少し嫌な顔をする制度は、だいたい必要な制度だ。


「泉質記録は毎日ですか」


湯治宿の主人が聞く。


「毎日です。色、温度、魔力濃度、臭気、沈殿、従業員の異常報告」


「そこまで」


「昨日、金属桶が腐食していました」


誰も何も言わなくなる。


実例は強い。


岩倉は、静かに聞いていた。


昨日のような余裕はない。

だが、完全に折れたわけでもない。頭の中で、損と信用を秤にかけている顔だった。


「休業損害は、必須にしないのですか」


岩倉が聞いた。


俺は少しだけ意外だった。


「保険料がかなり上がります」


「昨日、営業を止める判断ができなかった理由の一つは、止めた時の損失です」


部屋が静かになる。


岩倉は続けた。


「休むための金がなければ、次も誰かが無理をする」


その言葉は、たぶん本音だった。


同時に、計算でもある。


銀湯楼は今回、止めなかったことでより大きな損をした。


次に同じことをするより、休業損害を入れておいた方が得だと判断したのだろう。


保険は善意だけでは売れない。


損得でも売れる。


むしろ、その方が長続きする。


「では、休業損害も標準補償に入れます。補償日数と上限を分けましょう」


岩倉は頷いた。


他の旅館主たちは、少しざわついたが、最終的には反対しなかった。


昨日の事故で、営業を止める金の意味を見たからだ。


ユリカが、小さく言った。


「休むための保険」


俺は彼女を見る。


「何か」


「いえ。私にも要るなと思っただけです」


言った本人が、少し気まずそうに目を逸らした。


白瓶堂の秋良が聞いたら、薬を増やされるだろう。


夕方、団体契約は仮成立した。


本契約は、組合員全員の登録、各旅館の泉質記録設備、預かり所の写真記録導入、排水処理槽の点検を条件にする。


つまり、保険料を払えば終わりではない。


事故を起こしにくくする仕組みまで、契約の条件に入る。


一部の主人は嫌そうだった。


だが、今回ばかりは仕方がない。


銀湯楼の事故が、全員の前で起きたからだ。


【団体契約:仮成立】

【対象:第三湯脈旅館組合】

【標準補償:施設賠償責任/受託物/休業損害/泉質変動事故】

【特約:風評対応/高額装備預かり】

【義務:泉質記録/営業停止基準/排水管理】


表示が出ると、会議室のあちこちで息が漏れた。


安心というより、諦めに近い。


保険に入る時の顔は、だいたいそうだ。


全員が幸せそうに契約する保険など、あまり見ない。


銀湯楼の事故受付も、一段落した。


怪我人の応急処置は完了。


重症化の可能性がある二名は、白瓶堂へ搬送。


探索者の腐食装備は、素材鑑定士へ回す。


預かり所の荷札は、全て耐湿性のものへ交換。


青湯区画は、当面閉鎖。


岩倉は、会議の最後に頭を下げた。


被害者へ。

旅館組合へ。

そして、俺たちへ。


形だけかもしれない。


だが、形もないよりはましだ。


その後、銀湯楼の前に告知板が立てられた。


湯脈異常により青湯区画を停止していること。

負傷者への対応を行っていること。

預かり装備の被害受付を設けること。

旅館組合として再発防止策を導入すること。


隠さない。


言い訳もしない。


少しだけ、客の足が止まった。


読んで、眉をひそめる者。

別の旅館へ向かう者。

それでも銀湯楼に入る者。


全部いる。


風評は消えない。


だが、逃げた時よりは遅く広がる。


夜、温泉街の通りはまた明るくなった。


ただし、銀湯楼の青湯区画だけは暗い。


湯気も止まっている。


そこだけ、温泉街の中に穴が空いたようだった。


俺とユリカは、組合会館の縁側に座っていた。


本当は帰る予定だったが、ギルドから一泊して契約登録を見届けるよう言われた。


ユリカは露骨に嫌な顔をしたが、温泉街の宿に泊まれると知ると少しだけ黙った。


「温泉、入れますかね」


ユリカが言った。


「医者に聞いてからですね」


「絶対止められますね」


「でしょうね」


「じゃあ足湯だけ」


「それも聞いてから」


「保険屋さんって、本当に面倒ですね」


「事故後に怒られたくないので」


「その理屈、強いですね」


ユリカは、左手で代理人ボードを開いたり閉じたりしていた。


もう、最初ほど怯えていない。


慣れたのか。

諦めたのか。

少しだけ、自分の道具として認め始めたのか。


「今日、私の説明、役に立ちましたか」


「かなり」


「そうですか」


彼女は小さく息を吐いた。


「嫌ですね」


「はい」


「役に立ったのに、嫌です」


「分かります」


「分かるんですか」


「少し」


彼女は黙った。


湯気が通りを流れていく。


魔石灯の明かりが滲む。


遠くで、客の笑い声がした。


事故があっても、街は止まらない。


商売は続く。

客は来る。

湯は湧く。

保険料の支払いも始まる。


それでいいのかもしれない。


止まらないために、保険がある。


ただ、止まるべき時に止まるためにも、保険がいる。


今回、温泉街で見たのはそちらだった。


「休業損害って」


ユリカが言った。


「はい」


「休むためのお金なんですね」


「そうです」


「死なないための医療保険と、少し似てますね」


俺は少し考えた。


「似ているかもしれません」


「死んだ後の金より、生きてる間の治療費」


彼女は、自分の右腕を見た。


「営業した後の儲けより、止めるための休業補償」


言い方は少し雑だが、合っている。


俺は頷いた。


「かなり代理人っぽいことを言いますね」


「やめてください」


「褒めています」


「褒め方を改善してください」


「努力します」


「予定だけですね」


ユリカは笑った。


今度は、少しだけ普通の笑い方だった。


その時、俺のボードに通知が出た。


【代理人評価】

【片桐ユリカ:事故一次受付対応済】

【契約説明補助:有効】

【証拠登録:有効】

【代理人権限継続:推奨】


ユリカのボードにも同じ通知が出たらしい。


彼女は見て、すぐに閉じた。


「見てません」


「出てましたよ」


「見てません」


「継続推奨と」


「見てません」


意地でも認めないつもりらしい。


俺はそれ以上言わなかった。


翌朝、温泉街を出る前に、岩倉が見送りに来た。


銀湯楼の主人としてではなく、旅館組合長として。


「今回の件、助かりました」


助かった。


その言葉が、どこまで本心かは分からない。


銀湯楼は損をした。

責任も認めた。

契約条件も増えた。

面倒な記録義務も背負った。


それでも、温泉街全体が潰れるよりはましだった。


そういう意味の助かった、だろう。


「保険は、事故を消すものではありません」


俺は言った。


言ってから、少し説教くさいと思った。


岩倉は、意外にも笑わなかった。


「ええ。昨日、よく分かりました」


少し間が空く。


「止める判断をするためにも、金がいるのですね」


「はい」


岩倉は頷いた。


「次は、止めます」


次。


またその言葉だ。


今度は、少しだけ信じてもいいかもしれない。


旅館組合の仮契約は、出発前に登録された。


ユリカが、代理人として初回説明確認に署名する。


左手で、少し不器用に。


【代理人確認:片桐ユリカ】

【説明項目:施設賠償責任/受託物/休業損害/泉質記録義務】

【確認完了】


彼女は表示を見て、顔をしかめる。


「私の名前、残るんですね」


「残ります」


「責任重いですね」


「はい」


「最悪です」


「はい」


「でも、名前が残らないよりはいいですね」


そう言ってから、彼女は少し驚いた顔をした。


自分で言った言葉に、自分で驚いたらしい。


記録がない怖さを、彼女は知っている。


だから、記録に残ることの重さも、少しずつ受け入れているのかもしれない。


温泉街を出る時、通りの入り口で子供が手を振っていた。


昨日、魔力焼けで泣いていた子供だ。


腕には包帯。


隣には母親がいる。


ユリカが小さく手を振り返した。


右腕ではなく、左手で。


子供はそれを見て、少し笑った。


ユリカは、しばらく黙っていた。


温泉街の湯気が、背中の方へ遠ざかっていく。


ダンジョン支脈の道は、湿っていて滑りやすい。


俺は足元を見ながら歩く。


ユリカが隣で言った。


「保険って、嫌な仕事ですね」


この数日で、何度も聞いた。


「はい」


「でも、嫌なところを見ないとできない仕事ですね」


「はい」


「なら、向いてるかもしれません」


俺は彼女を見る。


「俺が?」


「私が」


彼女は前を向いたまま言った。


「死んだことにされたり、戻る場所がなかったり、そういうの、たぶん見ないふりはできないので」


その言葉は、軽くなかった。


だから、軽く返した。


「代理人継続ですね」


「調子に乗らないでください」


「はい」


「試験です」


「はい」


「まだ試験です」


「はい」


ボードの端で、小さな通知が出る。


【代理店制度:試験継続】

【代理人一号:稼働】

【継続対応:代理人教育/回収分散/査定補助】


次回課題。


仕事は勝手に増える。


俺は通知を閉じようとして、もう一つの表示に気づいた。


【温泉街事故記録:上位層へ送信済】


上位層。


商店街の路地裏で、襲撃者が見ていた言葉だ。


保険料の準備層より奥にある、俺の知らない場所。

防衛機能を動かした、あの黒いものと繋がっているかもしれない場所。


なぜ、温泉街事故の記録がそこへ送られるのか。


俺には分からない。


ユリカがこちらを見る。


「また、変な表示ですか」


「はい」


「見なかったことにします?」


「したいですね」


「すると、次の事故になりますよ」


言い返せなかった。


最近、彼女は嫌なところだけ覚えが早い。


俺は、表示を閉じなかった。


【上位層へ送信済】


そのまま、しばらく見た。


意味は分からない。


だが、少なくとも今度は、見なかったことにはしない。


温泉街の湯気が、完全に見えなくなる。


代わりに、商店街へ続くダンジョンの通路が見えてきた。


戻れば、契約が待っている。

苦情も待っている。

事故受付も、たぶんある。


保険は、事故の後に呼ばれる。


でも最近は、事故の前に少しだけ手を伸ばせるようになってきた。


それがいいことなのか、悪いことなのかは分からない。


ただ、今日もボードは開く。


誰かが壊したもの。

誰かが壊されたもの。

誰かが休めなかった理由。

誰かが残さなかった記録。


そういうものを、ひとつずつ拾うために。


俺は歩きながら、次の説明会の予定を入れた。


ユリカのボードにも、同じ予定が飛ぶ。


彼女はそれを見て、露骨に嫌な顔をした。


「勝手に予定を入れないでください」


「代理人なので」


「試験です」


「試験なので」


「その言い方、嫌いです」


「改善予定です」


「予定だけですね」


ダンジョンの通路に、俺たちの足音が響いた。


背後では、温泉街が湯気を上げている。


止めるための保険を入れた街が、今日も営業を続けている。


それは、少しだけましな風景だった。

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