第3話 BLOOD STATION「仕事大好き吸血鬼の陥落と、仕組まれたお仕事」
月曜の朝は、いつだって少し、特別な緊張感がある。
それは、この世界に来ても変わらないらしい。リビングに出ていくと、アトラスさんはもう、出勤の支度を整えていた。仕立てのいいスーツを一分の隙もなく着こなして、髪もきっちり整えて。鋭い目つきは、すっかり仕事モードだ。
昨日までの、私のために右往左往していた人とは、まるで別人みたいに見える。
……ただ。
その完璧なはずの彼が、なぜか、洗面台の鏡の前で、ネクタイと格闘していた。
何度結び直しても、うまくいかないらしい。よく見ると、その指先が、かすかに震えている。
「……ああ、くそ……」
らしくない、小さな悪態。
どうしたんだろう、と私は思った。でも、その理由を、たぶん私は半分くらい察してしまっていた。昨日の夜。私が、自分から首元を見せて「飲んでもいいですよ」と言った、あのこと。彼は今もまだ、それを引きずっているのかもしれない。
……まあ、それはともかく。ネクタイは、見るからに曲がっていた。
私は、ととと、と彼のそばまで歩み寄った。
「アトラスさん、おはようございます。あ、ネクタイ曲がってますよ。……貸してください、私が結びます」
「えっ!? い、いや、自分ででき――」
彼が言い終わるより早く、私はもう、彼のネクタイに手をかけていた。
近い。
結ぼうとすると、必然的に、顔がぐっと近くなる。彼の喉元、シャツの襟、かすかに香る整髪料の匂い。私はそんなことを気にも留めず、ただ、きゅっ、と結び目を整えていく。
でも――アトラスさんのほうは、そうではなかったらしい。
石みたいに、固まっていた。微動だにしない。息すら止めているんじゃないかと思うくらい。そして、その顔は、また、見事に真っ赤だった。
「よし、できた!」
私は満足して、一歩下がった。曲がっていたネクタイは、今や、ぴしっとまっすぐだ。
「行ってらっしゃい、アトラスさん!」
精一杯の、笑顔で。
アトラスさんは、口を半開きにしたまま、しばらく動かなかった。
*
ちょうどそのとき、インターホンが鳴った。
アトラスさんが、半ば放心したまま、それでも反射的にドアを開ける。立っていたのは――案の定、というべきか。爽やかな笑顔の、ジャンルカさんだった。
「おはようございます、アトラス君! 凪さんも。おはようございます」
「なぜ来た? ……はぁ、用件なら、会社で聞きますが…?」
アトラスさんの言葉が、タメ口と敬語のあいだで、ぐちゃぐちゃに渋滞していた。さっきの動揺が、まだ抜けきっていないらしい。
「おやおや、月曜の朝から、キレッキレですねぇ」
ジャンルカさんは、その混乱をまるで気にする様子もなく、にこにこと私のほうを向いた。
「さあ凪さんも、支度をしてください。今日から、私達の会社で働いてもらいましょう!」
「……はぁ……!?」
アトラスさんの間抜けな声を、私は今でも覚えている。
*
「いらっしゃいませー!」
気がつけば、私は、可愛らしいエプロンを身につけて、あのフードトラックのカウンターに立っていた。
話を聞けば、ここの担当だったノアさんという人が急に入院してしまって、その臨時のヘルプ、ということらしい。展開が早すぎて頭が追いつかないけれど、まあ、働くのは嫌いじゃない。学生時代、カフェでバイトもしていたし。
すぐ横では、アトラスさんが「なぜこんなことに……」という顔で、唖然と立ち尽くしていた。その隣で、ジャンルカさんはあいかわらず、にこにこしている。
ともあれ、仕事は始まった。
ドリンクを作って、お弁当を渡して、お釣りを返して。手を動かしているうちに、だんだんコツも掴めてくる。
ただ――妙に、行列が長い気がした。
(学生のとき、カフェでバイトしてたから、仕事は難しくないけど……)
(すごい人混みだな……)
ロビーを行き交う男の人たちが、なぜか、トラックのほうをちらちら見ては、ざわざわしている。
「おいおい聞いたか? フードトラックの新しい店員、めちゃくちゃ可愛いぞ」
「マジだ、愛想よくて最高じゃん……!」
そんな声も、聞こえてはいた。でも、まさかそれが、自分のことだとは、これっぽっちも思っていなかった。だって、私はただの、地味な店員だ。ツノも翼も生えていないし、牙だってない。きっと、新しいメニューでも気になっているんだろう。私は、のんきにそう思っていた。
*
――その頃。私の知らないところで。
トラックから少し離れた、お茶ができる机のスペース。
一人の人物が、優雅にカップを傾けていた。開発部長のベアトリス。
すらりと背が高く、肩幅も広い、堂々たる体躯。なのに、所作のひとつひとつには、匂い立つような色気がある。艶やかな長い黒髪を品よく撫でつけ、仕立てのいいスーツをまとった姿は、男とも女ともつかない、人を惹きつける華やかさを放っていた。堕天使の血を引くというその背には、今は仕舞われた翼の気配が、どこか神々しくも妖しく漂っている。
その切れ長のタレ目が、フードトラックのほうを――正確には、トラックの中で立ち働く凪の、首元を、捉えていた。
そこに残る、消えない噛み痕。血のパートナーの、証。それを認めた瞬間、ベアトリスの紅い唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「うふ❤️」
妖艶に、口角が上がる。
それから、ベアトリスは、すっと視線を別の方向へ移した。視線の先には、トラックの凪を、食い入るような恐ろしい目つきで凝視している男がいた。
アトラスだ。山ほどあったはずの仕事を、超特急で片付けて、わざわざここで「定点観測」を決め込んでいるらしい。
ベアトリスは、その隣に腰を下ろし、にやにやと彼を眺めた。
「へー……アトラスが、血のパートナーを決めるなんてね」
「……っ」
「それに、会社で働かせるなんて」
「……断固反対しました…」
アトラスが、噛みつくように言い返す。
「公私の区別を明確にするのが、私のモットーですから! なのにあの男、私の抗議も聞かずに、彼女を車に乗せて……!」
「はいはい、お疲れさん」
ベアトリスは、くすくすと笑った。
「でもまぁ、結果的に『公私混同』して、自分の職場の目の前にパートナー置いちゃってるわけね? あの、仕事大好きアトラスクンがさぁ〜♪」
「……ノアが戻るまでの、期間限定です!」
ふいと顔を背けるアトラスを尻目に、ベアトリスは、手元のスマートフォンを、ぴこぴこと操作し始めた。社内の若手たちが集うグループチャットに、特大の燃料を投下するために。
『やばい……フードトラックの新しい子、アトラスの血のパートナーなんですって』
送信。
返信は、爆速だった。
『まじですか!!!!』(琥太郎)
『嘘嘘嘘!! 本当ですか!?』(ルナ)
『えええええ』(オーギュスト)
『びっくり』(腐田)
猫が目を丸くしているスタンプ(リンミャオ)
(最高のオフィスエンタメだわ〜♪)
ベアトリスは、ニヤニヤしながら、画面を眺めていた。
こうして、私のあずかり知らぬところで、社内には、お祭り騒ぎの噂が、急速に広まっていったのだった。
*
お昼のピークが過ぎた頃。
私は、大きなゴミ袋を抱えて、会社の地下にあるゴミ捨て場へと向かった。
地下は、ロビーとは打って変わって、薄暗くて、ひんやりしている。配管がむき出しの、無機質な空間。私が袋を運んでいくと、その奥に――何やら、ものすごく大きな影が、転がっているのに気づいた。
(うわ、なんか……めちゃくちゃでかい人が、寝てる……!?)
恐る恐る近づいてみる。すると、その巨体が、ふわぁ〜……と大あくびをして、むくりと起き上がった。
頭には、白い毛並みの猫耳が、ぴんと立っている。お尻からは、ゆらりと揺れる長い尻尾。
立ち上がると、見上げるほどに背が高く、手脚も長い。しなやかな筋肉に包まれた、野性的な体つき。
何より目を引いたのは、その髪だった。おかっぱのように切り揃えられた、やわらかな髪。
それが、根元の白銀から、毛先にいくにつれて、ひやりと澄んだ青へと、溶けるように色を変えている。涼しげな切れ長の青い瞳に、目尻の朱がほんのり艶っぽい。
どこか掴みどころのない、美しい猫の獣人だった。
「んあ〜……よく寝た。……ん? だれ?」
「あ、驚かせてすみません! ゴミ捨てに来たんですけど……」
彼は、寝ぼけまなこで、私のエプロンを、じっと見た。
「あー。フードトラックの……? ノアの代わりに、新しく入った子?」
「はい、佐倉凪です」
「ふーん……」
次の瞬間だった。
彼が、ひょいっと、私の体を、大きな両腕で軽々と抱き上げた。脇の下に手を差し入れて、まるで人間が猫を掬い上げるみたいな、無造作な仕草で。
「ひゃあ!? や、やめてくださいっ、降ろして!」
私はじたばたともがいた。けれど、彼はびくともしない。それどころか、もがく私の首元に、すっと顔を近づけて――くんくん、と、匂いを嗅いだ。
「クンクン……すっごく、甘くて、美味しそうな匂い」
猫の目が、すうっと細くなる。
「……ねえ、お姉さん。何者?」
その問いに、ぞくりとした、まさにその瞬間。
地下に、凄まじい足音が、響き渡った。
「私のパートナーに、何をしている、貴様ああああああ!!!!」
アトラスさんだった。血のパートナーの繋がりで、私の危機を察したのだろうか?爆速で駆けつけた彼は、もう、敬語も理性もどこかへ吹き飛ばして、完全にブチギレていた。
そして、ものすごい勢いで、その猫の獣人めがけて、蹴りを放った。
でも――獣人の彼は、蹴りが届く寸前、抱えていた私を、ふわりと上空へと放り投げ、自分は身軽に、後方へ飛び退いた。
「おっと。危なーい」
宙に投げ出される、私。
ひゃあ、と声を上げる間もなかった。
けれど、次の瞬間。アトラスさんは、蹴り上げたその足を、信じられない体幹で、ぴたりと空中で止め――そのまま、落ちてくる私の体を、がしっ、と、完璧にお姫様抱っこで受け止めた。
「……っ」
私を腕の中にしっかりと抱きすくめたまま、彼は静かに着地した。その顔は真っ赤で、けれど、その目は、凍りつくような眼光で、猫の獣人を射抜いていた。
「リンミャオ!!!」
知り合いだったらしい。
「業務中のスタッフに、セクハラをするな! 次に彼女に気安く触れたら、開発部の権限で、叩き潰すぞ!!!」
……それは、もう、公私混同なのでは。と思ったけれど、口には出さなかった。
「あー、この子が噂の……ふふ」
リンミャオと呼ばれた彼は、まるで応えた様子もなく、ひらひらと手を振った。
「いい匂いのお姉さん、またね〜」
そう言い残して、飄々と、去っていった。
*
あとに残された、薄暗い地下室。
アトラスさんは、まだ私をお姫様抱っこしたまま、ぜえぜえと、肩で息をしていた。
「……大丈夫か?」
心底、心配そうな声だった。
「っ……だい、大丈夫ですよ、あの……」
私は、あまりの近さに、今さらながら、かあっと顔が熱くなるのを感じた。彼の腕の中。鍛えられた胸板。鼓動が、すぐそこで鳴っている。
「あ、あの……アトラスさん、もう、降ろして大丈夫です……」
「あ、……す、すまない……っ!」
彼は、慌てて私を降ろした。その耳は、もう、真っ赤だった。
「よく私が、ここにいるって分かりましたね?」
私が首をかしげると、アトラスさんは、ぐっと言葉に詰まった。
「それは……! お前が俺のパートナーで、管理義務として動いただけで……決して、お前を監視している訳では、なく……!」
早口で、必死に、言い訳をまくしたてている。タメ口で、しどろもどろで。
私は、その姿を、じっと見つめていた。
冷たそうで、近寄りがたくて。でも、本当は、こんなにも分かりやすく、不器用な人。
私は、愛おしさのようなものが胸にこみあげてきて、そっと、彼の服の裾を、きゅっと掴んだ。
「助けてくれて、本当にありがとうございました、アトラスさん」
「……っ」
彼は、さらに照れて、口元を手で隠すと、ぷいっと、そっぽを向いてしまった。
*
夕方。
並んで、マンションへ帰ろうとしていた、そのとき。私たちのあいだの距離は、朝より、ほんの少しだけ、縮まっていた気がする。
「凪さーん、アトラスくーん」
聞き慣れた声に振り返ると、そこには、ジャンルカさんが立っていた。
そして、その横に。
もう一人、痩せた、おじさんが立っていた。白髪のカーリーヘアに、尖った耳。皮肉屋そうな、不機嫌そうな顔。けれど、私を見る目には、どこか、探るような色があった。
「アンドラーシュさん……」
アトラスさんが、その名を呼ぶ。
「アトラス君、凪さんをお借りしますよ」
「えっ?」
「アンドラーシュに、健康状態を確認させたいのです」
その、おじさん――アンドラーシュさんは、無表情のまま、ちらりと、私を一瞥した。
その視線の意味を、私は、まだ知らなかった。
堅物な吸血鬼に、なぜか溺愛されています ~噛みついてきた本人と同居して、血の吸えない吸血鬼のフリを始めました~ KAF @hishagetagift
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