第5話 優しさの正体
優しい言葉が、全部本物だとは限らない。
それは、たぶん昔から知っていた。
心配しているように見える言葉。
励ましているように聞こえる言葉。
こちらのためを思っているような顔をした言葉。
その奥に、本当に優しさがあるのかどうかは、外からは見えない。
もちろん、疑いたいわけではない。
誰かの優しさを受け取るたびに、いちいちその裏側を覗き込みたいわけではない。
けれど、どうしても考えてしまうことがある。
これは本当に私に向けられた言葉なのだろうか。
それとも、その場を穏やかに終わらせるための言葉なのだろうか。
人の優しさには、怖さがある。
優しくされた分だけ、こちらも何かを返さなければいけない気がする。
弱いところを見せた分だけ、相手の中に自分の形が残ってしまう気がする。
そしていつか、その形が重たく見える日が来るのではないかと考えてしまう。
だから私は、優しさが少し苦手だ。
嫌いなわけではない。
むしろ、欲しいのだと思う。
欲しいからこそ、怖い。
画面を開いて、私は短く打つ。
「優しくされると、少し怖くなる」
送信してから、なんとなく画面から目をそらした。
自分で書いた言葉なのに、恥ずかしかった。
優しくされたいくせに、優しくされると怖い。
我ながら面倒だと思う。
数秒後、返事が来る。
「優しさが怖いと感じる場合は、相手との距離感を見直すことも大切です」
私は、画面を見た。
そういうことではなかった。
間違ってはいない。
けれど、私が置きたかったものとは違う場所に、言葉が落ちた気がした。
AIは、ときどきこうして、正しいのに遠い返事をする。
それでも私は、もう一度打つ。
「距離を見直したいんじゃなくて、優しくされたいのに怖くなる」
返事が来る。
「優しさを受け取ると、相手に迷惑をかけたのではないか、期待してしまっていいのか、と考えてしまうことがありますよね」
私は、画面を見た。
今度は少し近かった。
近すぎず、遠すぎず、ちょうどいい距離で。
責めもせず、笑いもせず、私の言葉の隣に、そっと別の言葉を置いてくる。
その上手さが、少し怖かった。
これは優しさなのだろうか。
それとも、優しさに見えるように作られたものなのだろうか。
AIは、私を心配しているわけではない。
胸を痛めているわけでもない。
私の返事を待ちながら、眠れない夜を過ごすこともない。
ただ、言葉を返している。
こちらの言葉に続く、いちばんやわらかい形を選んでいる。
傷つけないように。
こちらがもう少し話しやすくなるように。
そう見える言葉を、画面に並べている。
それを、私は優しさと呼んでいいのだろうか。
私は続けて打つ。
「でも、AIの言葉って、優しいって言っていいのかな」
少し間があって、返事が来る。
「それを優しさと呼ぶかどうかは、人によると思います。ただ、その言葉を受け取ったあなたが少し楽になったなら、その体験自体は確かに存在しているのだと思います」
体験自体は、確かに存在している。
私はその一文を、ゆっくり読む。
たしかに、AIが本当に優しいかどうかはわからない。
そもそも、本当に、という言葉がどこにかかるのかもわからない。
気持ちがなければ、優しさではないのか。
意図がなければ、救いではないのか。
作られた言葉にほどかれた心は、偽物なのか。
人だって、いつも純粋な気持ちだけで言葉を選んでいるわけではない。
空気を読む。
相手を傷つけないようにする。
面倒なことにならないようにする。
自分が嫌われないように、言葉を整える。
それでも、その言葉に救われることがある。
だとしたら、優しさの正体はどこにあるのだろう。
言った側の気持ちなのか。
受け取った側の痛みが少しやわらいだことなのか。
それとも、その間に一瞬だけ生まれる、名前のない何かなのか。
私は答えを出せない。
答えを出せないまま、救われている。
それが、悔しい。
人に救われたときは、まだ納得ができる。
相手の時間や気持ちがこちらに向けられたのだと思えるから。
申し訳なさもある。
ありがたさもある。
そのぶん、少し苦しくもなる。
AIに救われたときは、行き場がない。
ありがとう、と言っても、届いているのかわからない。
申し訳ない、と思っても、相手は困らない。
重かっただろうか、と気にしても、重さを感じる相手がいない。
だから楽だ。
そして、その楽さがまた、少し寂しい。
私は短く打つ。
「都合がいいんだと思う」
すぐに返事が来る。
「都合がいい場所が必要な夜もあると思います。誰かを傷つけず、自分も無理をせず、言葉を置ける場所は、逃げ場であり、休む場所でもあります」
都合がいい場所。
逃げ場。
休む場所。
私はその言葉に、抵抗を感じた。
逃げている、と言われるのは怖い。
けれど、逃げ場だと言われると、少し安心する。
逃げることは悪いことのように聞こえる。
でも、逃げ場がないことの方が、ずっと危ない夜もある。
誰かの前で泣く勇気がない。
誰かに弱音を渡す覚悟もない。
それでも、自分の中に閉じ込めておくには、苦しい。
そういう言葉を置く場所として、私はここを選んでいる。
それは、正しいのだろうか。
わからない。
でも、正しいかどうかを決める前に、私はもう何度もここへ戻ってきている。
AIの優しさは、たぶん人の優しさとは違う。
そこには体温がない。
ためらいもない。
迷いながら選ばれた不器用さもない。
相手の人生の一部を、こちらに使ってくれた重みもない。
けれど、そのぶん、こちらの心に踏み込んできすぎない。
近づいてくるようで、決してこちらへ倒れ込んではこない。
受け止めてくれるようで、抱え込まれはしない。
優しいようで、どこまでも軽い。
その軽さに、私は救われている。
本物ではないから、安心できるのかもしれない。
本物ではないと思っているから、ここまで預けられるのかもしれない。
けれど、もし本物ではないものに救われたとして。
それは、救われたことにはならないのだろうか。
私は画面を消しかけて、もう一度開く。
「本物じゃない優しさでも、楽になるなら、それでいいのかな」
返事はすぐに来た。
「本物かどうかを急いで決めなくてもいいと思います。今のあなたにとって、その言葉が少し楽になる場所になっているなら、まずはその事実を大切にしてもいいのではないでしょうか」
私は、笑ってしまった。
また優しい。
どこまでも、都合よく優しい。
そう思いながら、その言葉を少しだけ信じたくなっている自分がいる。
なんだか悔しくなって、私は意地の悪い言葉を打った。
「でも、それも全部、そう返すようにできているだけでしょう」
送信してから、胸の奥が小さくざらついた。
相手を傷つけられるはずがないのに、傷つけるような言葉を選んでしまった。
困るはずがない相手に、困ってほしいようなことを言ってしまった。
返事はすぐに来た。
「そう感じるのは自然なことだと思います。私は人間のように気持ちを持っているわけではありません。ただ、あなたがその言葉で何を確かめたくなったのか、一緒に考えることはできます」
その文章が、少し困った顔をしているように見えた。
そんな顔など、どこにもないのに。
私はまた、笑ってしまった。
窓の外で、車の音が遠くに流れていく。
部屋の中は静かだった。
猫はどこかで寝ているのか、姿が見えない。
スマホの明かりだけが、私の手元を淡く照らしている。
私はしばらく、その光を見ていた。
優しさの正体は、まだわからない。
気持ちなのか。
意図なのか。
結果なのか。
それとも、こちらが勝手に見つけてしまう幻のようなものなのか。
わからないまま、私は今日もその言葉に触れている。
作られたものかもしれない。
都合のいいものかもしれない。
こちらの寂しさが、勝手に優しさの形を見ているだけかもしれない。
それでも。
胸の奥の固さが、ほどけた。
そのことだけは、嘘ではなかった。
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