2026年6月9日 23:18
第1話 読みに正解はある。でもつぎの段階に正解はない。への応援コメント
難しかったです!!置いていかれるもんか~!と、2回読みました(/ω\)とてもレベルが高い話あいが行われている、ただの傍観者?となっていました。感想のレベルが低くてすみませんっ↓読みは自由、という言葉は優しいひびきそこに逃げてしまうと、本文に書かれていることを丁寧に読む姿勢まで曖昧になってしまうのだなと感じました。間違いを認めて終わるのではなく、そこからさらに深く潜っていく感じが、まさに対話の面白さですね。「読者は半分の神として参画する」前に、紅戸ベニ先生からこのお言葉を、おそらく応援コメントの返信で教えて貰った気がしています。作者がすべてを説明し尽くすのではなく、読者もまた、本文の空白や余白に向かって自分の読みを差し出していく。ただし、それは何でもありの自由ではなく、本文を踏まえたうえでの自由なのだというところが、とても大事なのですね。↑なんだか自分のしゃべり方(語尾とか)が、AIに引っ張られている気がします(笑)失礼しましたm(__)m
作者からの返信
>晴久さん「レベルが高い話」は、きっとAIが難しい用語を使うせいかもしれません。全部じゃないかもしれないですけど、ちょっと行き過ぎなところがありますよね。読むだけでヘトヘトになるような文章を出してくるAIたち。私の方は、そんなことはないと思います。低レベル会話をこれからも臆面もなく続けます!「読みは自由」、ほんとうにその通りなのですよね。間違うことだって自由に含まれるから。けれど全部自分の選んだこと。自由のもとで行ったことはつまり選んでそれをしたということを保証してしまいます。「みんながそうしろと言ったから」は通用しない。「仕方がなかったんだ」も言えない。引き受けなければいけないものが、最大になるのが自由です。だから美とか読者が半分の神であるとかと同じに、私はよく思います。「自由は厳しい。束縛は楽」と。奴隷解放令直後のアメリカ南部でも、「自由だ」と解放された奴隷たちがもとの場所に戻ってきたことが多かったと聞きます。いきなりは、自由は使いこなせない。そういうことなんだと思います。そして自由のもと、引き受けたものをもしも他人に評価さえたいなんて思ってしまったら――きっと晴久さんがおっしゃったことは、この思いの先にあることなのじゃないかなあと思います。大事な人には、軽んじられたくない。恩ある人には、報いたい。そんなことを私たちは自由と両立させるところに、苦しみがあり、でも「とても楽しい!」もあると思います。なにもない、砂に小石が呑まれていくような感想・応援コメントでは満足できないとしたら、そこから替えの利かないおもしろさが始まるのではないでしょうか?それを取ることも自由。手を伸ばさないことも、自由。半分の神でありながら、作者だけを神とするのだって、それでもいいんだと思います。「神様の半分を引き受けるのなんて、嫌だ!」でもいい。いいけれど、全部、なにを選んだかは文字となってそこにある。残る。読める。そんなふうに、思います。
第1話 読みに正解はある。でもつぎの段階に正解はない。への応援コメント
難しかったです!!
置いていかれるもんか~!と、2回読みました(/ω\)
とてもレベルが高い話あいが行われている、ただの傍観者?となっていました。
感想のレベルが低くてすみませんっ↓
読みは自由、という言葉は優しいひびきそこに逃げてしまうと、本文に書かれていることを丁寧に読む姿勢まで曖昧になってしまうのだなと感じました。
間違いを認めて終わるのではなく、そこからさらに深く潜っていく感じが、まさに対話の面白さですね。
「読者は半分の神として参画する」
前に、紅戸ベニ先生からこのお言葉を、おそらく応援コメントの返信で教えて貰った気がしています。
作者がすべてを説明し尽くすのではなく、読者もまた、本文の空白や余白に向かって自分の読みを差し出していく。
ただし、それは何でもありの自由ではなく、本文を踏まえたうえでの自由なのだというところが、とても大事なのですね。
↑なんだか自分のしゃべり方(語尾とか)が、AIに引っ張られている気がします(笑)
失礼しましたm(__)m
作者からの返信
>晴久さん
「レベルが高い話」は、きっとAIが難しい用語を使うせいかもしれません。全部じゃないかもしれないですけど、ちょっと行き過ぎなところがありますよね。
読むだけでヘトヘトになるような文章を出してくるAIたち。
私の方は、そんなことはないと思います。低レベル会話をこれからも臆面もなく続けます!
「読みは自由」、ほんとうにその通りなのですよね。
間違うことだって自由に含まれるから。
けれど全部自分の選んだこと。自由のもとで行ったことはつまり選んでそれをしたということを保証してしまいます。
「みんながそうしろと言ったから」は通用しない。
「仕方がなかったんだ」も言えない。
引き受けなければいけないものが、最大になるのが自由です。
だから美とか読者が半分の神であるとかと同じに、私はよく思います。
「自由は厳しい。束縛は楽」と。
奴隷解放令直後のアメリカ南部でも、「自由だ」と解放された奴隷たちがもとの場所に戻ってきたことが多かったと聞きます。いきなりは、自由は使いこなせない。そういうことなんだと思います。
そして自由のもと、引き受けたものをもしも他人に評価さえたいなんて思ってしまったら――
きっと晴久さんがおっしゃったことは、この思いの先にあることなのじゃないかなあと思います。
大事な人には、軽んじられたくない。恩ある人には、報いたい。そんなことを私たちは自由と両立させるところに、苦しみがあり、でも「とても楽しい!」もあると思います。なにもない、砂に小石が呑まれていくような感想・応援コメントでは満足できないとしたら、そこから替えの利かないおもしろさが始まるのではないでしょうか?
それを取ることも自由。
手を伸ばさないことも、自由。
半分の神でありながら、作者だけを神とするのだって、それでもいいんだと思います。「神様の半分を引き受けるのなんて、嫌だ!」でもいい。
いいけれど、全部、なにを選んだかは文字となってそこにある。残る。読める。
そんなふうに、思います。