クレスの留め具
三日、歩いた。
稜線(りょうせん)を東へ、東へと辿った。谷を一つ越え、また登り、痩せた斜面を、ひたすら進んだ。フィアの索敵は、日ごとに、戻ってきた。半径百歩が、百五十になり、二百になった。読み方を、組み直しているのだろう。ヴァレリオは、先頭を変わらず歩き、岩の安定した面を、迷わず選んだ。
三日目の、昼過ぎだった。
ヴァレリオの足が、止まった。
何かが、あったわけではない。道が変わったわけでも、行く手に何かが現れたわけでもない。ただ、立ち止まった。少しのあいだ、東を見ていた。
「——ここからは、クレスの守る範囲だ」
低く、言った。
目に見える、境はなかった。標識も、石積みも、何もない。痩せた斜面と、針葉樹と、冷たい風があるだけだった。だが、ヴァレリオには、わかるらしかった。足の裏か、目か、それとも、体のどこか別の場所で。
俺は、ヴァレリオを見た。
外套(がいとう)の、肩を留める金具に、紋が刻まれている。これまで、気に留めたことが、なかった。ただの留め具だと思っていた。だが今、ヴァレリオが「クレスの守る範囲」と言った、その口の下で、その紋が、急に意味を持って見えた。
「クレスとは」
訊いた。
ヴァレリオは、すぐには答えなかった。やがて、口を開いた。
「北方の、武門の一つだ。五つ、家がある。それぞれが、山岳域の集落を、守りを請け負って、分け持っている。クレスは、その一つ。——俺の家だった」
「だった」。
過去形だった。
フィアが、何も言わずに、ヴァレリオの横顔を見ていた。
「今は、出ている」。ヴァレリオが、続けた。「頭を冷やせ、と言われた。それきり、戻っていない」
「何をした」
俺の問いに、ヴァレリオは、少しだけ、間を置いた。声は、変わらなかった。
「命令に、背いた。——守れと言われていない集落が、襲われていた。割り当ては、別の家の範囲だった。だが、近かった。間に合う距離だった。だから、行った。守った」
「それが、咎められたのか」
「割り当てを、乱した。勝手をした。武門は、決めた範囲を、決めた家が守る。それが崩れると、全体が崩れる。——筋は、通ってる。俺のやったことは、規律から見れば、間違いだ」
ヴァレリオが、東を見たまま、言った。
「だが、もう一度、同じことが起きても、俺は、同じことをする。それも、わかってる。——だから、頭は、冷えない」
短い沈黙があった。風だけが、針葉樹を鳴らしていた。
ヴァレリオが、歩き出した。
「行こう。ここを、通り抜けるだけだ。家には、寄らない」
---
クレスの守る範囲を、東へ抜けていく。
半日ほど進むと、景色が、少しずつ、変わってきた。最初は、わからなかった。針葉樹の緑が、わずかに、くすんで見える。それだけだと思った。だが、進むにつれて、その色が、濃くなっていく。緑が、灰を被ったように、艶を失っていく。地面の針の落ち葉も、いつもの乾いた茶ではなく、黒ずんでいた。
フィアの足が、止まった。
「……カイ」
声が、固かった。
「この先の土壌、おかしいの」
フィアが、地面に膝をついた。両手を、土に当てる。目を閉じる。長いこと、動かなかった。やがて、目を開けたとき、その顔から、いつもの落ち着きが、消えていた。
「——以前、エルダの近くの森で、感じたのと、似てる。根が、土が、おかしくなってる気配。でも、これは……もっと、深いの」
フィアが、土を握った。
「あのとき、エルダの森は、根が、途中で止まってた。伸びるのを、やめてた。でも、ここは、違う。根が、止まってるんじゃない。根そのものが、——変わってる。別のものに、なりかけてる」
声が、低くなった。
「それに、古いの。エルダの森より、ずっと。この変わり方は……何十年も前から、ゆっくり、進んでる。今も、進んでる」
俺も、地面を見た。
土の色が、変わっていた。表面ではない。指で、薄い土をかき分けると、その下に、灰色がかった帯が、走っていた。本来の、黒く湿った土のあいだを、縫うように、灰色の筋が、地中へ続いている。色だけではない。手で触れると、その帯の土は、ほかの土と、感触が違った。乾いて、粉のように崩れる。生きた土の、しっとりとした重みが、そこにはなかった。
知っている兆候だった。
石が、変質するときと、同じだ。本来の性質が、別のものに、塗り替えられていく。歪んだ記述が、素材を、ゆっくりと、別のものに変えていく。あの灰色。あの乾いた崩れ方。——以前、いくつも見た。アイテムが、人を蝕む手前の、その色を。
ここは、土が、それになっていた。
ヴァレリオが、灰色の土を、見下ろしていた。
「この辺りは、昔から、『入ってはいけない土地』と、言われてた」
淡々と、言った。
「俺が、子どもの頃から、そうだ。立ち入るな、と。理由は、はっきりとは、聞かされなかった。——東の、遺跡の近くにいる連中が、ここを、管理しているらしい。手を入れて、抑え込もうとしている、と。だが、解決は、できていないと、聞いた」
「原因は」
俺が訊くと、ヴァレリオは、少し首を振った。
「詳しくは、知らん。ただ——ずっと東の、極東から来た、何かが、原因だと。そう聞いたことがある。それ以上は、わからん。俺は、そういうことに、疎い」
極東。
その言葉が、頭の隅に、残った。
呪われた土地。それを管理する、一族。東の、古い遺跡。——いくつかの断片が、頭の中で、近づこうとしていた。文献に、わずかに記された、北方の大きな写本所の跡。それを、よそ者を嫌う一族が、守っている。もし、それらが、一つのものを指しているのなら。
まだ、確かめようが、なかった。だが、行く先は、その断片の、真ん中にあった。
---
灰色の土の帯は、夕方には、途切れた。土の色が、戻ってきた。黒く、湿った、生きた土に。フィアが、何度か地面に手をついて、確かめた。「ここは、もう、大丈夫なの」。そう言ってから、ようやく、足を止めた。変質した土地を、抜けた先だった。
焚(た)き火を、囲んだ。
ヴァレリオが、外套の留め具を、外していた。手のひらに乗せて、火明かりに、かざしている。何を考えているのかは、わからない。ただ、じっと、それを見ていた。
俺は、その留め具を、見た。
金具の表面に、紋が刻まれている。線が、深い。彫りが、乱れていない。金属の質も、良かった。安物ではない。鍛冶の腕がある人間が、丁寧に作ったものだ。長く使い込まれて、角が、わずかに丸くなっている。だが、紋は、まだはっきりと、読めた。
「その留め具は」
訊いた。
「誰が、くれた」
ヴァレリオが、火から目を上げた。少し、驚いたようだった。俺が、そういうことを訊くとは、思っていなかったのだろう。
「……兄だ」
短く、答えた。
「家を出るとき、黙って、渡してきた。何も、言わなかった。手に、押しつけて、それきりだ。——あいつは、昔から、口数が、少ない」
俺は、何も言わなかった。
黙って、渡す。言葉にしない。だが、何も、なかったわけではないのだろう。むしろ、言葉にできないほどの重みが、あったのかもしれない。——言葉にしない人間が、いる。俺の知っている男も、そうだった。何も言わずに、背を向けた。
「……明日から、一族の範囲に、入るのね」
フィアが、火を、少し離れたところから見ながら、言った。
「ああ」。ヴァレリオが、留め具を、また外套に留めた。「斥候(せっこう)に、会うかもしれない。山の連中は、自分たちの範囲を、よく見張ってる。よそ者には、敏感だ」
「名乗って、通るのか」
「わからん」。ヴァレリオが、肩をすくめた。「クレスの名が、どこまで通るかは。だが——出さないよりは、ましだ。少なくとも、いきなり矢を射かけられることは、ないだろう。たぶん」
たぶん、と言った。ヴァレリオは、確かなことしか言わない男だった。その彼が、「たぶん」と言った。
火が、燃えていた。
俺は、手帳を開いた。今日見た、変質した土地のことを、書いた。灰色の帯。乾いて、崩れる土。根そのものが、変わりかけている、その兆候。——以前、エルダの近くで見たものと、似ている。だが、規模が違う。深さが違う。そして、ずっと、古い。何十年も、ゆっくりと、進んできたもの。
ページの隅に、一つ、言葉を書き留めた。
極東。
ヴァレリオが言った、その言葉だけが、ほかと繋がらずに、宙に浮いていた。呪われた土地の、原因。ずっと東の、果てから来た、何か。——それが、何なのか。今の俺には、それ以上、辿る手がかりが、なかった。文献にも、記憶にも、引っかかるものが、ない。
ただ、書いておいた。いつか、繋がるかもしれない。繋がらないかもしれない。どちらでも、書いておく。それが、俺のやり方だった。
手帳を、閉じた。
明日から、一族の範囲に入る。会ったことのない、よそ者を嫌う連中の、土地に。
火が、爆(は)ぜた。フィアは、もう横になっていた。ヴァレリオが、留め具に、一度だけ、手を触れて——それから、闇のほうへ、目を向けた。
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