勇者はシバチー

第39話 勇者はシバチー


「台本はありません」


演劇研究同好会の部長が告げた。


黒い封筒を持つ手だけが、スポットライトの中に浮かんでいる。


視聴覚室は静まり返っていた。


「台本がないのに、劇をするの?」


アオイが聞いた。


「即興劇ですから」


「台詞は?」


「その場で考えます」


「話の結末は?」


「その場で決まります」


「途中で分からなくなったら?」


「そのまま続けます」


「失敗したら?」


「失敗したまま続けます」


アオイは少し考えた。


「止まれないんだね」


「舞台は止まりません」


部長が答える。


教卓の横にいた中年の女性教師が、お茶の蓋を閉めた。


「危なかったら止めるけどね」


「先生」


「安全の話よ」


部長は一度目を閉じた。


「舞台は、基本的には止まりません」


「今、条件がついた」


クロエが言った。


照明が点いた。


先ほどまで闇の中にいた副部長と部員が、教卓を視聴覚室の端へ運ぶ。


女性教師は、食べかけのおにぎりとお茶を抱えたまま、椅子ごと移動した。


「先生も動いた方が早くないですか?」


クロエが聞いた。


「腰がねぇ」


「じゃあ、そのままで」


視聴覚室の後方に、十数人の生徒が座っていた。


先ほどまで暗闇の中で待機していた観客たちである。


女性教師が観客席を見る。


「みんな、まだいたの?」


「はい」


一番前の男子生徒が答えた。


「今日はルール説明だけよ?」


「はい」


「上演は明日よ?」


「はい」


「帰っていいのよ?」


生徒たちは動かなかった。


部長が静かに言う。


「観客は、幕が下りるまで席を立ちません」


「まだ幕、上がってもないけどねぇ」


「待つことも観劇の一部です」


「この子たち、何時まで待つの?」


部長は答えなかった。


女性教師は観客へ向かって手を振った。


「本当に帰っていいからね」


誰も動かない。


レイカが小声でクロエへ聞いた。


「なんか弱み握られてんの?」


「多分、雰囲気に負けてるだけ」


部長は黒い封筒から、二枚目の紙を取り出した。


「改めて、規則をご説明します」


レンが手帳を開く。


クロエも同時に筆記用具を出した。


部長が一つ目の指を立てる。


「準備時間は十分」


二つ目。


「上演時間も十分以内」


三つ目。


「台本の作成は禁止」


四つ目。


「配役と、物語の大まかな開始地点のみ、事前に決めることができます」


クロエが手を挙げた。


「大まかな開始地点って、どこまでですか?」


「勇者が旅立つ、程度です」


「勇者が、どの道を通るかは?」


「決めてはいけません」


「魔王の城へ着くかどうかは?」


「決めてはいけません」


「姫を救うかどうかは?」


「決めてはいけません」


「題材の目的すら達成しない可能性があるんだ」


「人生と同じです」


「今、いいこと言った感じにしないで」


部長は五つ目の指を立てた。


「出演者は、同好会に所属する全員」


七人が、互いの顔を見る。


ノブオが人数を確認するように指を折った。


「七人か」


「多いですね」


副部長が言った。


「即興劇では、人数が増えるほど意思統一が難しくなる」


部員が続ける。


「七人いれば、一人は必ず物語を壊す」


全員が太郎を見た。


太郎が髪を払った。


「なぜ僕を見る?」


「確認しただけ」


クロエが答えた。


「君たちは、僕が舞台を壊すと考えているようだが」


太郎は胸へ手を当てる。


「舞台とは、僕という光を中心に再構築されるものだ」


副部長が部長へ耳打ちした。


「やはり危険です」


「まだ聞こえてるから」


部長は六つ目の指を立てた。


「使用可能な小道具は、この視聴覚室に存在するものだけ」


レンが室内を見回す。


舞台用の剣。


王冠。


布。


古いマント。


段ボールで作られた岩。


用途の分からない木の棒。


なぜか一脚だけ置かれた学校の机。


「机は何に使うの?」


アオイが聞いた。


「自由です」


部長が答える。


「学校に机があるのは普通じゃない?」


クロエが言った。


「舞台上に一脚だけあると、意味を持ちます」


「どんな?」


「自由です」


「便利な言葉だね」


女性教師が片手を挙げた。


「火は駄目」


部長の表情が少し曇る。


「使いません」


「煙も駄目」


「使いません」


「本物の刃物も駄目」


「使いません」


「窓から飛び降りるのも駄目」


怪異研究同好会の全員が女性教師を見る。


「前にいたのよ」


「何があったんですか?」


クロエが聞いた。


「若さって怖いわねぇ」


部長が話を戻した。


「最後に、勝敗について」


後方の観客席へ手を向ける。


「明日の放課後に集まった一般生徒の投票によって、勝者を決定します」


レイカが、現在座っている生徒たちを見る。


「この人たちも来るの?」


「希望者は」


部長が答える。


観客全員が同時にうなずいた。


レイカが少し後ろへ下がった。


「怖っ」


「別に何もしてないから」


クロエが言った。


部長は黒い封筒から、大きな紙を取り出した。


中央に、太い文字が書かれている。


『滅亡寸前の王国で、姫を救い出す勇者の物語』


「こちらが、今回の題材です」


太郎の目が輝いた。


「僕の物語ではないか!」


「まだ何も始まってないから」


クロエが言った。


部長は続ける。


「王国が滅亡する理由、姫が囚われた経緯、魔王の目的は自由に設定してください」


アオイが手を挙げた。


「姫は、魔王に捕まってるの?」


「一般的には」


「魔王は、姫を捕まえて何をするの?」


「それも自由です」


「姫が自分から魔王の城に行った可能性は?」


部長が少し黙った。


「あります」


「じゃあ、救出される必要がない可能性もあるよね?」


「あります」


「勇者が来ると迷惑かもしれない」


「あります」


「この題材、大丈夫?」


部長の顔から、わずかに自信が消えた。


女性教師がお茶を飲みながら言う。


「お姫様が捕まって、勇者が助けに来る。それくらいでいいんじゃない?」


アオイは教師を見る。


「どうして捕まったんですか?」


「魔王が悪い人だから」


「悪い人は、どうして姫を捕まえるんですか?」


「王国を困らせるために」


「姫を捕まえると、王国が困るんですか?」


「そりゃ、困るんじゃない?」


「どのくらい?」


女性教師は、お茶を机へ置いた。


「即興劇って、難しいわねぇ」


部長が静かに教師を見る。


「先生。思考を止めないでください」


「私、審査員じゃないから」


副部長が三枚の紙を持って、部長の隣へ立った。


「劇中で、必ず使用しなければならない台詞があります」


一枚目を掲げる。


『この中に裏切り者がいる』


二枚目。


『もう時間がない』


三枚目。


『全部、計画通りです』


アオイが三枚目を見る。


「誰の計画?」


部長が答える。


「自由です」


「計画がない場合は?」


「作ってください」


「即興劇なのに?」


「劇中で作ってください」


「言ったあとに考えてもいい?」


「演技として成立すれば」


「成立しなかったら?」


「失敗したまま続けます」


アオイは小さくうなずいた。


「やっぱり止まれないんだね」


「舞台は止まりません」


「危なかったら止めるけどね」


女性教師がもう一度言った。


部長が目を閉じる。


「舞台は、基本的には止まりません」


クロエは手帳へ、二重線を引いた。


「そこが正式ルールね」


「配役は、今日のうちに決めていただいて構いません」


部長が言った。


「役に人数制限はありません。ただし、全員が物語に関わる役でなければなりません」


レイカが手を挙げる。


「木」


「不可です」


「岩」


「不可です」


「風」


「不可です」


「自然に厳しくない?」


「物語に関わってください」


レイカはスマートフォンを見た。


「じゃあ、魔王でいいや」


「決めるの早いね」


クロエが言った。


「悪いやつでしょ?」


「多分」


「じゃあ、適当に王国滅ぼすわ」


「適当に滅ぼさないで」


ノブオが腕を組んだ。


「残りは、勇者、姫、騎士、参謀、語り手」


レンが数える。


「六人分」


「俺たちは七人だ」


ノブオが言った。


「もう一役必要になる」


レイカがノブオを見る。


「城」


「城?」


「デカいから」


ノブオは少し考えた。


「なるほど」


「納得しないで!」


クロエが止める。


女性教師がノブオを上から下まで見る。


「でも、舞台セットを一つ減らせるわねぇ」


「先生まで採用しないでください」


「城門も兼任できそう」


「増えた」


ノブオは両腕を広げた。


「この形か?」


「もうやらなくていいから!」


太郎が一歩前へ出た。


「勇者については、議論するまでもないだろう」


大きく両腕を広げる。


「美しき姫を救い、滅びゆく王国に光を取り戻す者」


スポットライトの真下へ移動する。


「すなわち――」


「勇者はシバチーがいい」


アオイが言った。


太郎の動きが止まった。


「……今、何と?」


「勇者はシバチー」


アオイは題材の紙を見ながら、静かにうなずく。


「シバチーなら、絶対に姫を助けに来てくれるから」


太郎は、ゆっくりアオイの前へ回り込んだ。


「待ちたまえ」


「うん」


「君の目の前には今、誰よりも勇者に相応しい男が立っている」


「うん」


「では、なぜ犬なのだ」


「シバチーだから」


太郎は黙った。


説明されたようで、何も説明されていなかった。


「アオイ」


クロエが額へ手を当てる。


「学校の即興劇に、シャイニードリームランドの公式マスコットは呼べないから」


「シバチーは、怪異研究同好会の外部検証協力員だよ?」


「怪異の検証に協力してもらう立場ね」


「部員ではあるよ?」


「外部」


「幽霊部員でもあるよ?」


「外部で、幽霊で、部員なの?」


部長が初めて困った表情を見せた。


アオイは部長を見る。


「出演できますか?」


「学校へ正式に届け出ている構成員のみです」


「シバチーも届け出たよ?」


「外部検証協力員としてです」


「勇者役は検証に含まれない?」


「何を検証するのですか?」


「姫を救えるかどうか」


部長が黙った。


副部長が小声で言う。


「規則の穴を突いています」


「穴ではありません」


「穴になりかけています」


女性教師がおにぎりを食べながら言った。


「学校の名簿に、人間として名前が載ってる子だけにしなさい」


「シバチーも人間だよ?」


ハヤトが大きく咳き込んだ。


「柳生さん!」


アオイがハヤトを見る。


「どうしたの?」


「今の話は、そこで止めた方がいいっす」


「中には人が――」


「止めてほしいっす!」


クロエがアオイの口を手で塞いだ。


「ここでシバチーの構造について説明しないで」


「どうして?」


「マスコットには、開けてはいけない扉があるの」


部長は数秒間、ハヤトを見た。


ハヤトは何もない壁を見ていた。


女性教師が小さくうなずく。


「何か事情があるのねぇ」


「ありません」


クロエが即答した。


アオイはクロエの手から抜け出した。


「社長に頼んだら、シバチーを貸してくれないかな」


「着ぐるみを借りる言い方やめて」


「中の人も一緒に」


ハヤトの肩が、もう一度揺れた。


レイカがスマートフォンを見ながら言う。


「借りてくるの、普通に無理じゃない?」


「どうして?」


「学校の劇に、公式キャラ呼ぶんでしょ?」


「うん」


「出演料とかいるんじゃない?」


「社長なら、宣伝になるって言いそう」


クロエが言った。


「でも許可が出ても、平日の放課後にシバチーを学校まで運んで、出演させて、パークに戻すことになる」


レンが静かに計算する。


「移動時間を考えると、通常業務には戻れない」


ノブオが腕を組む。


「一日分の戦力を失うな」


「戦力って言わないで」


アオイは少し考えた。


「じゃあ、シバチーは無理なんだね」


声に、少しだけ残念そうな響きが混じった。


太郎が胸へ手を当てる。


「そうだろうとも」


髪を払う。


「運命は、ようやく正しい勇者を――」


「高瀬くん」


アオイが言った。


太郎の声が止まった。


ハヤトが自分を指さす。


「俺っすか?」


「勇者、できる?」


「俺が?」


「うん」


「なんで俺なんすか?」


アオイは少し考えた。


「シバチーの代わり」


「そのまま言ったっすね」


レイカが笑った。


アオイは続ける。


「それと、高瀬くんなら助けに来てくれそうだから」


ハヤトは黙った。


太郎も黙った。


ノブオとレンが、二人を交互に見る。


クロエだけが、深く息を吐いた。


「役だからね」


ハヤトは困ったように頭を掻いた。


「俺、演技とかできないっすよ」


「姫を助ければいいだけだよ?」


「それが演技になるんすか?」


「たぶん」


レンが答えた。


ハヤトはレンを見る。


「レンが言うんすか」


「動きは空手で何とかなる」


「演劇を何だと思ってるんすか?」


太郎が勢いよく髪を払った。


「異議あり!」


「裁判は始まってないから」


クロエが言った。


「なぜ、この僕を差し置いて彼が勇者なのだ!」


レイカがスマートフォンから顔を上げる。


「シバチーの代役だからじゃん」


「僕の方が、あの犬より勇者に相応しい!」


アオイが太郎を見る。


「シバチーは犬じゃないよ?」


「黒柴ではないか!」


「シバチーはシバチーだよ?」


「分類の話をしている!」


「シバチーはシバチーだよ?」


太郎が言葉を失った。


クロエが太郎の肩へ手を置く。


「そこは勝てないから諦めて」


ハヤトは、まだ題材の紙を見ていた。


「本当に、俺でいいんすか?」


アオイがうなずく。


「高瀬くんがいい」


ハヤトは少しだけ視線を逸らした。


自分から、勇者を演じたいわけではない。


舞台の中央へ立ちたいとも思わない。


だが、アオイに頼まれた。


断る理由も、見つからなかった。


「……分かったっす」


題材の紙を受け取る。


「やるからには、ちゃんと柳生さんを助けるっす」


「うん」


アオイは少し笑った。


「待ってるね」


太郎が二人の間へ割って入った。


「待ちたまえ」


「今度は何?」


クロエが聞く。


「まだ、我が君が姫を演じるとは決まっていない」


全員が太郎を見る。


太郎は、ゆっくり胸へ手を当てた。


「僕が姫という可能性も――」


「ない」


クロエが即座に切った。


「最後まで聞きたまえ!」


「聞いても結果は同じだから」


「ならば僕は、姫を守る王国最強の騎士を演じよう」


「切り替え早いね」


「勇者が来る前に姫を救えば、実質的な主役は僕だ」


「救ったら話が始まらないから」


「では、救えるのに、あえて救わず待つ」


「最低の騎士になった」


レンが配役を書き出した。


「勇者がハヤト。姫がアオイ。魔王がレイカ」


レイカが手を挙げる。


「税金高くして王国滅ぼすわ」


「まだ設定を決めないで」


クロエが止める。


「太郎が騎士。ノブオが城門」


「城ではなく城門になったのか」


ノブオが聞く。


「移動できるから」


「城門は移動しないよ」


クロエが言った。


「俺は動かない方がいいのか?」


「演劇としては動いて」


「城門としては?」


「もう城門の役を真剣に考えなくていいから!」


レンは続きを書く。


「俺が語り手兼音響」


クロエが紙を見る。


「私は?」


「参謀」


「嫌な予感しかしない」


「全体を修正できる役が必要」


「舞台の上で全員を直す役って、それ参謀じゃなくて介護じゃない?」


残りの役は決まった。


勇者、ハヤト。


姫、アオイ。


魔王、レイカ。


王国最強の騎士、太郎。


城門兼兵士、ノブオ。


語り手兼音響、レン。


王国の参謀、クロエ。


部長は配役表を確認した。


「異論はありません」


クロエが部長を見る。


「ノブオの城門も?」


「自由です」


「急に自由を広く使い始めたね」


部長は黒い封筒を閉じた。


「明日の放課後」


視聴覚室の照明が、一つずつ消えていく。


「この舞台で、お待ちしております」


女性教師が慌てて、おにぎりを鞄へ入れる。


「また暗くするの?」


最後に、部長の上のスポットライトだけが残った。


「観客の心を掴んだ側が、勝者です」


照明が消えた。


完全な暗闇の中。


レイカの声が響く。


「電気つけて。靴踏んだ」


「俺のっす」


ハヤトが答えた。


「ごめん」


すぐに蛍光灯が点いた。


女性教師が、壁のスイッチに手を置いている。


「足元、気をつけてねぇ」


「暗くしたの先生たちですけど」


クロエが言った。


観客席の生徒たちは、まだ座っていた。


女性教師が声をかける。


「今日はもう終わりよ?」


一人の生徒が恐る恐る聞いた。


「帰っても?」


「いいのよ」


「本当に?」


「部長、この子たちに何をしたの?」


「何も」


部長が答えた。


生徒たちは、ようやく立ち上がった。


怪異研究同好会も帰り支度を始める。


廊下へ出たところで、太郎がハヤトの隣へ並んだ。


「ハヤト」


「なんすか?」


「勘違いしないことだ」


「何がっすか?」


「君は、シバチーの代用品として勇者に選ばれただけだ」


ハヤトは少し考えた。


「知ってるっす」


太郎の足が止まる。


「傷つかないのかい?」


「柳生さんが頼んできたんで、別にいいっす」


「君には、男としての誇りがないのか!」


「勇者役で張り合うほどはないっす」


ハヤトは、そのまま廊下を歩いていく。


太郎だけが、視聴覚室の前に取り残された。


「なぜ彼は、僕の土俵へ上がってこないのだ……!」


クロエが振り返る。


「最初から太郎しか戦ってないから」


翌日の放課後。


第二戦。


演劇研究同好会との即興劇が、開演する。

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