第三幕 それぞれのかたち

持てる重さから

第三章 それぞれの隣


第23話 持てる重さから


 放課後。


 ハヤトは昇降口で靴を履き替えながら、鞄の紐を握った。


 柳生さんとは、少しだけ話せるようになった。


 嫌じゃない。


 慣れていない。


 何を言えばいいか分からない。


 そこまでは言えた。


 でも、それだけだった。


 言えないことは、まだ残っている。


 バイトのこと。


 シバチーのこと。


 あの日、泣かせたと思っていること。


 どれも、鞄よりずっと重い。


「ハヤト」


 背後から声がした。


 振り返ると、ノブオが立っていた。


 でかい。


 昇降口の縮尺が、少しおかしく見える。


「今日、道場行くぞ」


「なんで急に決定なんすか」


「顔が道場に行く顔をしている」


「顔で行き先決めないでほしいっす」


「違うのか?」


「違うかどうかで言うと……」


 ハヤトは少し黙った。


 家に帰っても、たぶん考えるだけだ。


 考えても、どうせ分からない。


「……まあ、行くっす」


「よし」


 ノブオは満足げにうなずいた。


「今日のハヤトには、汗が必要だ」


「なんか嫌な言い方っすね」


「安心しろ。俺もかく」


「だからなんなんすか!?」


   *


 東雲道場は、学校から少し離れた場所にある。


 古い木の看板に、太い字で「東雲道場」と書かれていた。


 ハヤトは子どもの頃から、ここに通っている。


 道場の匂いは、いつ来てもあまり変わらない。


 畳。


 木。


 汗。


 そして、なぜかいつも少しだけ湿布の匂い。


「来たか、坊ども」


 道場の奥から、東雲三郎が顔を出した。


 年齢はかなり上のはずなのに、声だけはやたら通る。


 背は高くない。


 でも、道場に立つと大きく見える。


「師範、こんにちは」


 ハヤトは頭を下げた。


 ノブオも深く頭を下げる。


「よろしくお願いします!」


 三郎が耳を押さえた。


「声がでかい! わしが死んだらどうするんや?」


「え? あんた死ぬんですか?」


「わしをなんだと思っとるんや?」


「師範です!」


「師範でも死ぬわ!」


 ハヤトは靴を脱ぎながら、ぼそっと言った。


「初手から会話が強すぎるっす」


 三郎はハヤトを見た。


「坊」


「はい」


「眉間、硬いぞ」


「眉間っすか」


「拳より先にそこ直せ」


「はい」


 三郎はそれ以上言わなかった。


 ただ、畳を顎で示した。


「やれ」


   *


 基本稽古のあと、ハヤトとノブオは向かい合った。


 ノブオは拳を構える。


 でかい。


 改めて見ると、本当にでかい。


「いくぞ、ハヤト」


「手加減はしてほしいっす」


「分かった。心で手加減する」


「体でしてほしいっす」


 ノブオの突きが来た。


 速くはない。


 だが重い。


 受けた瞬間、腕にずしんと響いた。


「重っ」


「筋肉は嘘をつかん」


「でも空手は筋肉だけじゃないっす」


「知っている。だから今、空手をしている」


「してる人の圧じゃないんすよ」


 ハヤトは半歩ずらして受ける。


 ノブオの拳が横を抜けた。


 そのまま体勢が少し崩れる。


 ハヤトは軽く足を払った。


 ノブオが畳に沈む。


 ずどん。


「……今の音、人体から出ていい音じゃないっす」


 ノブオはすぐに起き上がった。


「やはり、技はすごいな」


「ノブオは力がすごいっす」


「ならば合体すれば最強だ」


「嫌っす、絶対」


「なぜだ」


「なぜ分からないんすか」


 ノブオは真剣に考え込んだ。


「フュージョンすれば……そうだな。ハヤトとノブオで……ハヤオ!」


「アニメ作ってそうな名前なんで却下っす」


「ではノブト」


「急に地味っす」


「ハヤブオ」


「もう何者なんすか」


 三郎が奥から短く言った。


「遊ぶな」


「はい!」


「はいっす!」


 ハヤトとノブオは同時に構え直した。


 何度か打ち合う。


 ノブオの突きを避ける。


 受ける。


 返す。


 いつもの稽古。


 いつもの相手。


 体を動かしているうちに、少しだけ頭が軽くなった。


 考えすぎていたものが、汗と一緒に外へ出ていく気がする。


 でも、最後の一本で足が止まった。


 ほんの一瞬。


 ノブオは見逃さなかった。


 拳を止める。


「ハヤト」


「……なんすか」


「今、別のことを考えたな」


 ハヤトは黙った。


 三郎が立ち上がった。


「坊。どけ」


「はい」


 三郎はノブオの前に立つ。


「来い」


「よろしいのですか!」


「早よ来い。声で倒す気か」


「押忍!」


 ノブオが踏み込んだ。


 次の瞬間。


 ノブオの体が、なぜか宙に浮いた。


「え」


 ハヤトの声が漏れた。


 どすん。


 ノブオは畳に転がった。


 三郎はほとんど動いていない。


「考えすぎるな」


 三郎はそれだけ言った。


 それから、ハヤトを見る。


「迷うなら、まず立て」


「……はい」


「立たん拳は、届かん」


 それ以上は言わない。


 三郎はまた奥へ戻った。


 ノブオは仰向けのまま天井を見ていた。


「勉強になるな」


「ノブオ、今かなり投げられてたっすよ」


「ああ。世界が回った」


「詩的に言ってる場合じゃないっす」


   *


 稽古が終わる頃には、外は夕方になっていた。


 ハヤトとノブオは道場の縁側に座った。


 足がだるい。


 腕も重い。


 でも、頭の重さは少しだけましだった。


 ノブオがスポーツドリンクを差し出す。


「飲め」


「ありがとっす」


「今日はプロテイン入りではない」


「そこ確認してくれるの助かるっす」


「ただ、次は入れる」


「予告しないでほしいっす」


 ハヤトはキャップを開けた。


 冷たい。


 喉を通る感覚が、妙にはっきりしていた。


「ハヤト」


「なんすか」


「言えんことがあるのだな」


 ハヤトは手を止めた。


 ノブオは前を見ている。


 こちらを見ていない。


 それが少し助かった。


「……まあ」


「柳生のことか」


「直球っすね」


「違うのか?」


 ハヤトは答えなかった。


 ノブオは、それだけで分かったようにうなずいた。


「そうか」


「聞かないんすか」


「言えんのだろう」


「……まあ」


「なら、聞かん」


 あっさりしていた。


 そのあっさりが、逆に胸に残った。


「ノブオって、そういうとこあるっすよね」


「どういうところだ」


「普通に優しいとこっす」


 ノブオは少しだけ目を丸くした。


 それから、胸を張る。


「漢だからな」


「台無しにするの早いっす」


「照れ隠しだ」


「自分で言うんすね」


 少し笑った。


 笑えたことに、ハヤト自身が少し驚いた。


 ノブオは膝に肘を置く。


「昔、お前は聞かなかった」


「え?」


「俺がなぜ泣いていたか。なぜ何も言い返せなかったか」


 ハヤトは黙った。


 昔のことは覚えている。


 小さかったノブオ。


 今とは全然違う。


 体も声も小さくて、いつも何かを飲み込むように下を向いていた。


 何人かに囲まれていた。


 ハヤトは、それを見て腹が立った。


 理由は、今でもうまく説明できない。


 ただ、嫌だった。


 だから前に出た。


 それだけだった。


「あれは、ただムカついただけっす」


「それで十分だった」


 ノブオは静かに言った。


「俺には、十分だった」


 ハヤトはスポーツドリンクのボトルを見た。


 指先に、冷たさが残っている。


「今の俺は、そんな大したもんじゃないっすよ」


「昔も大したもんじゃなかったぞ」


「急に刺すじゃないっすか」


「違う。昔も今も、お前はお前だ」


 ノブオは続けた。


「昔のお前は、考えるより先に前に出た。今のお前は、考えて止まっている」


「悪くなってるじゃないっすか」


「違う」


 ノブオは首を振った。


「重くなっただけだ」


「重く?」


「ああ。持つものが増えたのだろう」


 ハヤトは何も言えなかった。


 持つもの。


 言えないこと。


 守らなければいけないこと。


 壊したくないもの。


 確かに、増えた。


「全部を一度に持ち上げようとするから潰れる」


 ノブオは自分の手を見た。


「まず、持てる重さから持て」


 ハヤトは横を見る。


「それ、筋トレ理論っすよね」


「筋トレは人生だ」


「出た」


「だが、間違っているか?」


 ハヤトは少し考えた。


 間違ってはいない。


 悔しいけど。


「……間違っては、ないっす」


「ならいい」


 ノブオは立ち上がった。


 夕方の光が、その背中に当たる。


 昔は小さかった。


 それを知っているから、今の背中が余計に大きく見える。


「言えんことは言わんでいい」


 ノブオは背中を向けたまま言った。


「でも、持ってるなら一人で潰れるな」


 ハヤトは、すぐには返事ができなかった。


 全部は言えない。


 まだ言えない。


 でも、少しだけなら持てるかもしれない。


 持てない分は、誰かの隣に置いてもいいのかもしれない。


「……ノブオ」


「なんだ」


「ありがとっす」


 ノブオは振り返らなかった。


 ただ、片手を上げた。


「漢だからな」


「やっぱり台無しっす」


「照れ隠しだ」


「二回目は分かってて言ってるっすよね」


   *


 道場を出ると、空は暗くなり始めていた。


 三郎が入口に立っていた。


「帰るんか」


「はい。ありがとうございました」


 ハヤトが頭を下げる。


 ノブオも深く頭を下げた。


「ありがとうございました!」


「声がでかい言うとるやろ。今度こそ死ぬぞ」


「まだ死なないでください!」


「命令すな」


 ハヤトは思わず笑った。


 三郎はハヤトを見た。


「坊」


「はい」


「荷物は、持つ前に重さを見ろ」


「……はい」


「それだけや」


 三郎は背を向けた。


 話は終わりだった。


 帰り道。


 ノブオが隣を歩く。


 でかい足音が、やけに安心する。


「ハヤト」


「なんすか」


「明日は背中の日だ」


「今日、心の話してましたよね?」


「背中で語るためには、背中を鍛えねばならん」


「結局そこに戻るんすね」


「当然だ」


 ハヤトは少し笑った。


 解決はしていない。


 言えないことは、まだ言えない。


 柳生さんにどう向き合えばいいのかも、まだ分からない。


 でも、全部を一人で持たなくてもいいらしい。


 持てる重さから。


 ハヤトは自分の手を見た。


 シバチーの手袋はない。


 ただの手だった。


 けれど今日は、少しだけ軽かった。

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