あの日のシバチー
第十九話 あの日のシバチー
広場の向こうに、黒いヘッドホンが見えた。
青い髪。
白いシバチーパーカー。
柳生アオイ。
ハヤトは、シバチーの中で固まった。
来た。
あの子が。
一週間前、泣かせてしまった子。
赤い風船を渡した子。
そして、風船ごと自分が回収されたところまで見られた子。
子どもが袖を引く。
「シバチー?」
ハヤトは慌てて手を振った。
大丈夫。
大丈夫じゃない。
でも、シバチーは大丈夫じゃない顔をしない。
顔は変わらない。
そこだけは助かった。
アオイは動かない。
じっとこちらを見ている。
隣にはクロエ。
その横にレイカ。
クロエの目が怖い。
レイカは何か言いたそうにしている。
ハヤトは風船の束を見た。
赤い風船。
練習した。
割った。
飛ばした。
絡まった。
でも、今朝は渡せた。
今ならできる。
たぶん。
たぶんは怖い。
ハヤトは一本、赤い風船を取った。
そのまま近づこうとして、止まる。
近すぎるかもしれない。
急に来たら、怖いかもしれない。
一週間前も、泣いていた。
また泣かせたらどうする。
ハヤトは一歩だけ進んだ。
止まる。
アオイを見る。
嫌がってはいない。
たぶん。
ハヤトは小さく手を振った。
ぎこちない。
自分でも分かる。
アオイが、手を振り返した。
胸の奥が、変なふうに鳴った。
行ける。
でも慎重に。
ハヤトは歩き出した。
一歩。
止まる。
もう一歩。
止まる。
風船が揺れる。
手汗がすごい。
シバチーの手袋越しでも分かる。
目の前で止まる。
アオイは、少しだけ上を見ていた。
たぶん、シバチーの顔を見ている。
泣いてはいない。
でも、泣きそうにも見える。
ハヤトは風船を差し出した。
すぐには離さない。
落とさないように。
飛ばさないように。
アオイが手を伸ばす。
指が、少し震えていた。
ハヤトは動きを止めた。
急がない。
焦らない。
風船は逃がさない。
今度は、ちゃんと渡す。
アオイの指が紐に触れた。
ハヤトはゆっくり手を離した。
成功。
風船は飛ばない。
絡まらない。
アオイの手の中にある。
「……ありがとう」
小さな声だった。
ハヤトは胸の前で両手を握った。
やった。
声は出せない。
でも、たぶん動きに出た。
「また、くれたね」
ハヤトは首を傾げた。
それしかできなかった。
また。
その言葉が、シバチーの中に残った。
アオイは赤い風船を見ていた。
それから、こちらを見る。
「私、ちゃんと来たよ」
ハヤトは止まった。
「月曜日も、火曜日も、水曜日も、木曜日も、金曜日も」
え。
全部来たんすか。
言えない。
シバチーは喋れない。
でも、内側では普通に声が出た。
「ずっと、探してたの」
ハヤトは動けなかった。
探していた。
誰を。
シバチーを。
あの日の。
自分を。
「追いかけてるとかじゃなくて……ちゃんと知りたくて」
アオイは少し照れたように目を伏せた。
ハヤトは、どう返せばいいのか分からない。
手を振るのか。
頷くのか。
胸に手を当てるのか。
水曜日に見たシバチーなら、きっと上手くやる。
自分には無理だ。
でも、逃げるのはもっと違う。
アオイが続けた。
「私を、あの日、泣かせたシバチーのこと」
ハヤトの中で、何かが落ちた。
やっぱり。
泣かせた。
覚えている。
忘れていない。
ハヤトは、風船を持っていない方の手を少し下げた。
謝りたかった。
でも、シバチーは喋れない。
頭を下げたら、何か違う。
何もできない。
その一瞬で、アオイが言った。
「でも、泣いたのに……少しだけ笑えたから」
ハヤトは顔を上げた。
「だから、もう一回、会いたかった」
動けなかった。
今度は、悪い意味じゃない。
ハヤトは、自分の胸に手を当てた。
それから、赤い風船を指さす。
アオイを指さす。
最後に、両手を小さく広げた。
何を伝えたかったのか、自分でもはっきり分からない。
来てくれて、ありがとう。
泣かせてごめん。
笑ってくれて、よかった。
たぶん、その全部だった。
アオイが少し笑った。
「……うん」
届いた。
たぶん。
ハヤトはそう思った。
その時。
「シバチー、そろそろ移動お願いしまーす」
スタッフの声が飛んだ。
ハヤトはびくっとした。
現実が来た。
アオイを見る。
スタッフを見る。
またアオイを見る。
行かなきゃいけない。
でも、今行くのか。
いや、仕事だ。
シバチーはみんなのものだ。
ハヤトは大きく手を振った。
アオイも手を振り返した。
よし。
綺麗に終わった。
歩き出す。
足元の風船の紐を踏んだ。
ぽすん、とよろけた。
「あ」
アオイの声が聞こえた。
終わってない。
ハヤトは体勢を立て直す。
その瞬間、別の風船の束が帽子に絡まった。
スタッフが慌てる。
「シバチー、絡まってる!」
知ってます。
言えない。
ハヤトは両手をばたばたさせた。
風船が増える。
なぜ増える。
さっきまで勝っていた。
完全に勝っていた。
レイカが腹を抱えている。
「最後それ!?」
クロエも笑っている。
アオイも笑った。
泣きそうだった顔で。
ちゃんと笑った。
ハヤトは、絡まったまま手を振った。
スタッフにゆっくり連れていかれる。
アオイは赤い風船を持って、手を振り返している。
「またね」
ハヤトは振り返った。
言えない。
でも、手は振れる。
だから、最後まで振った。
*
休憩に入った瞬間、ハヤトはバックヤードの壁にもたれた。
シバチーの頭を外す。
暑い。
息が出る。
顔が熱い。
ミクが腕を組んで立っていた。
「絡まったわね」
「……はい」
「風船には勝ったんじゃなかったの」
「一回勝ったんです」
「最終的に負けたわね」
「判定厳しくないっすか」
「事実よ」
ハヤトはタオルで顔を拭いた。
「でも」
ミクが少しだけ目を細める。
「あの子は笑っていたわ」
ハヤトは動きを止めた。
「あれは、笑わせたんですかね」
「知らないわ」
「知らないんすか」
「私は見たことしか言えないもの」
ミクは淡々と言った。
「あなたが絡まった。あの子が笑った。それだけ」
「それだけっすか」
「それだけで十分な日もあるわ」
ハヤトは何も言えなかった。
ミクは踵を返す。
「午後もあるわよ」
「はい」
「次は絡まらないで」
「努力します」
「努力じゃなくて結果で」
「はい……」
ミクは去った。
ハヤトは赤い風船の束を見た。
勝った。
負けた。
でも、笑っていた。
そこだけは、はっきり覚えている。
*
勤務が終わる頃には、足が重かった。
着替えて、バックヤードを出る。
空は夕方になっていた。
駅へ向かう道を歩く。
体は疲れている。
でも、頭はずっと広場に残っていた。
柳生さん。
赤い風船。
私、ちゃんと来たよ。
もう一回、会いたかった。
ハヤトは首を振った。
考えるな。
考えても分からない。
自分はシバチーとして会っただけだ。
高瀬ハヤトとしては、ほとんど何もしていない。
そう思っていた。
「ねぇ」
声がした。
ハヤトは足を止めた。
振り返る。
柳生アオイがいた。
黒いヘッドホン。
白いパーカー。
手には、赤い風船。
隣にはクロエ。
その後ろにレイカ。
クロエの目がやっぱり怖い。
レイカは完全に面白がっている。
ハヤトは固まった。
「え、俺っすか?」
アオイが小さくうなずく。
「うん」
「えっと……何か、用っすか?」
アオイは風船の紐を握った。
「名前、聞いてもいい?」
「名前、っすか?」
「うん」
「俺の?」
「うん。ちゃんと、知りたくて」
ハヤトは視線を泳がせた。
なぜ。
なんで俺なんすか。
その言葉が喉まで来た。
でも、飲み込む。
聞かれているのは、名前だけだ。
普通に答えればいい。
それだけ。
なぜこんなに難しい。
ハヤトは少し背筋を伸ばした。
「……高瀬ハヤトっす」
「高瀬、ハヤト」
アオイが名前を繰り返した。
変な感じがした。
自分の名前なのに、初めて聞いたみたいだった。
「そっちは……柳生さん、っすよね」
アオイは少し驚いた。
「知ってるの?」
「え、まあ。同じ学校っすし」
「クラス、違うよ」
「まあ、違うっすけど」
余計なことを言った。
ハヤトは頬をかいた。
アオイは少し笑った。
「そっか」
「はい」
沈黙。
嫌ではない。
でも、心臓には悪い。
アオイが風船を見上げた。
それから、こちらを見る。
「私、アオイ」
「え?」
「柳生アオイ」
「知ってるっす」
「でも、ちゃんと言いたくて」
ハヤトは困った。
どう返すのが正しいのか分からない。
でも、無視するのは違う。
「……柳生さん」
「うん」
アオイが笑った。
ハヤトは固まった。
シバチーの中ではない。
顔は隠れていない。
風船もない。
スタッフもいない。
ただの高瀬ハヤトとして、柳生アオイの前に立っている。
それが一番難しかった。
「また、学校で」
アオイが言った。
ハヤトは一拍遅れて頷く。
「はい。また、学校で」
アオイが小さく手を振る。
ハヤトも手を上げた。
ぎこちない。
自分でも分かる。
アオイはその手を見て、少しだけ笑った。
なぜ笑ったのかは分からない。
でも、嫌な笑いではなかった。
アオイたちは歩いていった。
赤い風船が、夕方の空に揺れている。
ハヤトはしばらく動けなかった。
名前を聞かれただけ。
ただそれだけ。
でも、胸の中がうるさい。
ハヤトは自分の手を見た。
さっきまで、シバチーとして振っていた手。
今は、ただの自分の手。
同じように振ったつもりはない。
でも、アオイは見ていた。
何を。
どこまで。
分からない。
ハヤトは深く息を吐いた。
「なんで俺なんすか……」
夕方の道に、小さく声が落ちた。
答える人はいなかった。
赤い風船だけが、遠くでふわりと揺れていた。
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