風船に勝つ
第十四話 風船に勝つ
放課後。
ハヤトのスマホが震えた。
画面に表示されたのは、短いメッセージだった。
『今日、放課後。来なさい』
差出人はミク。
本文はそれだけだった。
絵文字もない。
余白も冷たい。
スマホの画面なのに、なぜか正座を要求されている気がした。
ハヤトはしばらく画面を見つめてから、ゆっくり顔を上げた。
「……これ、怒られるやつっすね」
隣でパンの袋をたたんでいたレンが、画面をちらりと見た。
「たぶん」
「たぶんじゃなくないっすか」
「うん。怒られると思う」
「言い直して強くなったっす」
ノブオが腕を組んだ。
「飯は食ってから行け」
「処刑前みたいに言わないでほしいっす」
「空腹では反省もできん」
「その理屈、微妙に正しいのが嫌っすね」
ハヤトはスマホをポケットにしまった。
次の土曜日まで、まだ日はある。
今日は勤務日ではない。
シバチーに入る日でもない。
それでも、ミクから呼び出された時点で、もう普通の放課後ではなかった。
理由は分かっている。
風船だ。
正確には、赤い風船が絡まり、身動きが取れなくなり、スタッフ数人に回収されたシバチー。
もっと正確に言えば、それは自分だった。
高瀬ハヤトだった。
顔は見えていない。
中の人のことも書かれていない。
外から見れば、微笑ましい珍事件だったかもしれない。
でも、ハヤトにはそう見えなかった。
あの時、自分はシバチーとして何もできなかった。
子どもを笑わせるどころか、スタッフに助けられた。
それだけではない。
あのベンチの子。
泣いていた子。
柳生アオイ。
名前を知ってしまった分だけ、その記憶は前より少し重くなっていた。
「じゃあ、行ってくるっす」
「うむ」
ノブオが大きく頷いた。
「負けるな」
「何にっすか」
「風船に」
「目標が低すぎるっす」
「だが、負けたのだろう」
「正論で殴らないでほしいっす」
レンが少しだけ笑った。
「でも、たぶん大事だと思う」
ハヤトはレンを見る。
「風船がっすか」
「うん。ハヤトにとっては、たぶん」
相変わらず、はっきりしない言い方だった。
けれど、まったく分からないわけでもなかった。
風船そのものが怖いわけではない。
でも、赤い風船を見ると、あの日のことを思い出す。
絡まったこと。
転んだこと。
泣かせたこと。
何も言えなかったこと。
シバチーとして、何も返せなかったこと。
ハヤトは小さく息を吐いた。
「……行ってくるっす」
シャイニードリームランドに着いた時、空は夕方の色になりかけていた。
平日の放課後。
休日ほどの賑わいはない。
それでも、園内には子どもの声があった。
親子連れがいて、スタッフが笑顔で手を振っている。
ゲートの向こう側には、いつもの時計塔が見えた。
ハヤトは裏口へ向かって歩いた。
今日は勤務日ではない。
シバチーには入らない。
白いパーカーも、赤い帽子も、黒柴の頭もない。
ただの高瀬ハヤトとして、ここに来ている。
そのはずなのに、足取りは少し重かった。
途中、見覚えのないスタッフが、泣いている子どもの前でしゃがみ込んでいた。
ただ手を振るのではなく、目線を合わせて、子どもが泣き止むのを待っている。
別のスタッフは、落ちた風船を拾い、紐を結び直してから、親に渡していた。
どちらも、特別なことをしているようには見えなかった。
でも、ハヤトは少し足を止めた。
簡単そうに見えることほど、たぶん簡単ではない。
最近、それを嫌というほど知っている。
バックヤードに入ると、ミクはもう待っていた。
腕を組んでいる。
表情はいつも通り綺麗だった。
綺麗なのに、圧がある。
夢の国の人というより、労働基準を司る神だった。
「来たわね」
「はい」
「勤務日じゃないのに呼び出して悪いわね」
「いえ、大丈夫です」
「じゃあ、始めるわ」
「はい」
「前説で風船はほどけない」
「それは、そうですね」
ミクは手元のタブレットを操作した。
画面に表示されたのは、例の記事だった。
風船に絡まり、スタッフ数人に引きずられていくシバチー。
写真の中のシバチーは、無表情だった。
当たり前だ。
シバチーの顔は変わらない。
でも、ハヤトには分かった。
あれは焦っている。
あれは完全に何も分からなくなっている。
あれは、自分だ。
ハヤトは目を逸らしたくなった。
でも、逸らさなかった。
ミクは淡々と言った。
「風船に絡まってスタッフに回収されたシバチーなんて、私は初めて見た」
「……すみません」
「しかも記事になった」
「すみません」
「社長が喜んでたわ」
「え?」
「『宣伝効果あるねぇ』って」
「喜んだんですか」
「だから私が怒ったの」
「あ、そっちに怒ったんですね」
「もちろん、あなたにも怒ってるわ」
「逃げ道なかったです」
ミクはタブレットを閉じた。
「今日は反省会じゃないわ」
ハヤトは少しだけ顔を上げた。
「違うんですか」
「再発防止会議よ」
「会議になるんですか、風船で」
「なるわ。負けたから」
「言い方がきついです」
「仕事だから」
短い一言だった。
けれど、妙に重かった。
仕事。
シバチーに入ること。
子どもに手を振ること。
風船を渡すこと。
転んでも起き上がること。
無言で寄り添うこと。
それを、ミクは仕事だと言った。
ミクはさらに、一枚の紙を机に置いた。
「これが今回の事故報告書」
「事故報告書」
「仮称だけど」
ハヤトは紙を見た。
上の方に、太い文字でこう書かれていた。
赤色浮遊物による黒柴拘束事故。
ハヤトは三秒黙った。
「……これ、俺のことですか」
「正確にはシバチーのことね」
「事件名が重すぎます」
「軽く扱ったから起きたのよ」
「正論が重機みたいに来ますね」
「ちなみに社長案はもっとひどかったわ」
「何だったんですか」
「シバチー、風船に敗北す」
「そっちの方が嫌です」
「だから却下した」
「ありがとうございます」
「感謝するところではないわ」
ミクは紙を指で叩いた。
「失敗するなとは言わない」
その声は、思ったより冷たくなかった。
「でも、失敗したまま次に入るな」
ハヤトは何も言えなかった。
「夢を壊すな、なんて綺麗な言葉で済ませるつもりはないわ。着ぐるみは暑い。視界は狭い。音も聞こえにくい。足元も見えない。子どもは予想外に動く。風船は絡まる。スタッフも万能じゃない」
「……はい」
「それでも、客の前ではシバチーでいなさい」
ハヤトは喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
ミクの言葉は厳しい。
でも、責めるためだけの言葉ではなかった。
現実の話だった。
シバチーは可愛い。
子どもに手を振る。
風船を渡す。
何も言わずに寄り添う。
でも、それをやるためには、裏側でできなければいけないことがある。
ハヤトは、それをまだ分かっていなかったのだと思った。
ミクは壁際に置いてあった赤い風船を手に取った。
細い紐が、ふわふわと揺れている。
ハヤトの肩が、わずかに固まった。
ミクはそれを見逃さなかった。
「怖い?」
「いや……怖いっていうか」
「怖いのね」
「言い切らないでほしいです」
「なら、もう一度持って」
ミクは赤い風船を差し出した。
ハヤトは一瞬、手を止めた。
赤い風船。
あの日、泣いていた子に渡した風船。
何かを渡したくて。
でも、何も言えなくて。
ただ、手を伸ばした。
ハヤトはゆっくりと紐を受け取った。
軽い。
軽すぎる。
なのに、手の中で妙に存在感があった。
ミクはハヤトの手元をじっと見た。
「違う」
「はい」
「固い」
「はい」
「距離が近い」
「はい」
「力が入りすぎ」
「はい」
「返事だけで上手くなったら、今頃ここに呼んでないわ」
「……はい」
ハヤトは言われた通りに持ち直した。
歩く。
止まる。
少しだけしゃがむ。
風船を差し出す。
ただそれだけ。
ただそれだけなのに、風船は思ったより言うことを聞かなかった。
少し動けば遅れて揺れる。
止まっても、すぐには止まらない。
近づけすぎると肩に寄る。
離しすぎると相手に届かない。
ハヤトが紐を持つ手に少し力を入れた瞬間、ミクの声が飛んだ。
「違う!」
「はい!」
「もっと赤子を扱うように!」
「赤ちゃんなんて触ったことないです!」
「なら、もっと女の子を扱うように! 優しく、丁寧に、それでいて激しくよ!」
ハヤトは固まった。
「……女の子も、あんま関わりないです……」
ミクも固まった。
ほんの少しだけ、空気が止まる。
「……ごめん」
「謝られると、余計きついです」
「今のは私が悪かったわ」
「認められると、もっときついです」
ミクは咳払いした。
「忘れなさい」
「忘れたいです」
「じゃあ、風船に戻るわよ」
「戻れるんですか、この空気から」
「戻るの。仕事だから」
ハヤトは赤い風船を見た。
風船は何も知らない顔で、ふわふわ浮いていた。
その顔のなさが、今は少しだけ腹立たしかった。
ハヤトは小さく呟いた。
「……俺、ただ着てただけなんですね」
ミクはすぐには答えなかった。
少しだけ間があった。
「そうね」
「そこは否定してくれないんですね」
「否定したら、あなたの次がなくなる」
ハヤトは何も言えなくなった。
優しく嘘をつかれる方が、楽だったかもしれない。
でも、それでは次に進めない。
できていないものを、できていることにはできない。
ミクは続けた。
「できていないことを、できているみたいに扱われる方が楽よ。でも、それで客の前に出れば、困るのはあなたじゃない。シバチーを見る子どもたち」
ハヤトは風船の紐を握った。
自分が恥をかく。
自分が怒られる。
自分が失敗する。
そういう話だと思っていた。
でも、違う。
シバチーが失敗すれば、シバチーを見に来た子が困る。
シバチーに会いたかった子が、がっかりする。
シバチーに救われるかもしれなかった誰かを、笑顔で帰せないかもしれない。
あの日のアオイの顔が浮かんだ。
泣いていた。
でも、少し笑った。
あの時、自分はちゃんとできていたのだろうか。
できていなかったのだろうか。
分からない。
分からないから、怖い。
ハヤトは赤い風船を見た。
「俺、ちゃんとやりたいです」
ミクは黙っていた。
「笑わせるとか、まだ全然分かんないですけど」
「ええ」
「でも、泣いて帰るのは、嫌です」
言ってから、ハヤトは少しだけ目を伏せた。
泣いていた子。
柳生アオイ。
自分が泣かせたかもしれない子。
でも、少し笑った子。
次に会えるかは分からない。
来るかどうかも分からない。
それでも、もしまた会ったら。
その時は。
「ちゃんと、笑顔で帰したいです」
ミクはしばらくハヤトを見ていた。
そして、短く言った。
「なら、練習しなさい」
「はい」
「それしかないわ」
「はい」
励ましではなかった。
慰めでもなかった。
でも、ハヤトにはそれで十分だった。
ミクは赤い風船を指さした。
「次の土曜日。今日できたことが、そのままできるとは思わないこと。中に入れば、もっと難しい。視界も狭い。暑い。相手も動く」
「はい」
「でも、今日やらなかったら、もっとできない」
「……はい」
ハヤトは風船を持ち直した。
赤い丸が、少しだけ揺れる。
前より怖くない。
でも、軽くもない。
土曜日は、まだ来ていない。
シバチーには、まだ入っていない。
けれど、次の土曜日に向けて、もう始まっていた。
ハヤトは赤い風船の紐を握り直した。
「……次は、勝ちます」
ミクが眉を上げる。
「風船に?」
「今の俺には、かなり強敵です」
「低い目標ね」
「でも、逃げたら一生負ける気がします」
ミクは少しだけ黙った。
それから、赤い風船を見た。
「なら、まずは一勝ね」
「はい」
ハヤトは頷いた。
夢を守るための最初の相手が、風船。
かなり情けない。
でも、負けたままよりは、ずっといい。
ミクは机の上の事故報告書を片づけながら言った。
「ちなみに、再発した場合は事故名が更新されるわ」
「更新?」
「赤色浮遊物による黒柴再拘束事故」
「再が付くだけでだいぶ嫌ですね」
「二回目だから」
「絶対避けます」
「そうしなさい。三回目からは社長が勝手にグッズ化しようとするわ」
「何をですか」
「風船に絡まったシバチーのアクリルスタンド」
「最悪の記念品ですね」
「売れるでしょうね」
「売れないでほしいです」
ハヤトは赤い風船を見た。
シバチーには、まだ入っていない。
土曜日は、まだ遠い。
でも、赤い風船はもう、手の中にあった。
そして、負けた場合はアクリルスタンドになる。
それだけは、絶対に嫌だった。
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