年パスを握る少女
第1話 年パスを握る少女
赤い風船は、まだ部屋の天井近くで揺れていた。
一昨日、シャイニードリームランドでシバチーにもらった風船。
細い紐の先には、小さなタグがついている。
タグには、赤い帽子をかぶった黒柴のマスコットが描かれていた。
シバチー。
白いパーカーを着た、黒柴のマスコット。
何も言わなかった。
何も聞かなかった。
ただ、赤い風船を差し出して、隣にいてくれた。
それだけだった。
それだけなのに、アオイは泣いた。
泣いて、少しだけ笑ってしまった。
風船まみれになって、スタッフたちに引きずられていくシバチーの背中を見ながら。
思い出すと、胸の奥が少し痛くなる。
でも、その痛みは、今までのものとは少し違っていた。
息ができなくなる痛みではない。
胸の真ん中を、ゆっくり押されるような痛み。
閉じたままだった窓が、少しだけ開いたような気がした。
アオイは、机の上に置いた一枚のカードを見た。
シャイニードリームランド年間パスポート。
一昨日、帰る前に取ってしまった。
取ってしまった、という言い方は少しおかしい。
正確には、自分の足で窓口まで行き、自分の意志で申し込み、自分で受け取った。
でも、アオイの中ではやっぱり、
「……取っちゃった」
だった。
勢いだった。
いや。
勢い、ということにしておきたかった。
もう一度、あの場所へ行く理由がほしかっただけなのかもしれない。
アオイはカードを両手で持ち、じっと見つめた。
名前。
顔写真。
有効期限。
赤い帽子のシバチー。
どこからどう見ても、ただの年間パスポートだった。
それでもアオイには、それが何かの許可証のように見えた。
もう一度、あの場所へ行ってもいい許可。
もう一度、あの赤い帽子を探してもいい許可。
もう一度、笑えるかもしれない場所へ戻ってもいい許可。
アオイは年パスを制服のポケットにしまった。
黒いヘッドホンをつける。
いつものように、耳をふさぐ。
でも今日は、少しだけ外の音が遠くなりすぎない気がした。
*
月曜日の朝。
クロエは教室の前で足を止めた。
中から笑い声が聞こえた。
朝の教室に笑い声があること自体は、珍しくない。
レイカがいる。
誰かが昨日のテレビの話をしている。
机を動かす音。
椅子を引く音。
眠そうな声。
いつもの朝のざわめき。
けれど、その笑い声は違った。
クロエは、息をするのを忘れた。
懐かしい声だった。
ずっと聞きたかった声だった。
聞けなくなってから、もう二度と前と同じようには戻らないのかもしれないと思っていた声だった。
アオイの笑い声。
クロエは、気づいた時には教室の扉を開けていた。
教室の中には、レイカとアオイがいた。
レイカはアオイの机の前に立ち、腹を抱えて笑っている。
アオイは席に座ったまま、黒いヘッドホンをつけて、少し照れたように笑っていた。
「あ、クロエおはよー。てかやばくね? アオイ、なんかキャラ変したんだけど! ウケる」
レイカが軽い調子で手を振った。
クロエは、返事をしなかった。
まっすぐアオイを見る。
笑っている。
アオイが、笑っている。
その事実が、クロエの胸を強く叩いた。
「……ちょっと黙ってて、レイカ」
「え、急にガチじゃん」
レイカの声を横に流しながら、クロエはアオイの前に立った。
「アオイ」
「ん?」
「大丈夫?」
声が硬くなった。
自分でも分かるくらい、取り乱していた。
アオイは一瞬きょとんとしたあと、少しだけ肩をすくめた。
「えへへ……うん、なんとか」
えへへ。
その笑い方に、クロエの胸が詰まった。
軽い。
でも、少し危うい。
無理をしているようにも見える。
それでも、前よりちゃんと音がある。
クロエには、それが嬉しくて、怖かった。
「本当に?」
「うん」
「泣いてない?」
「泣いてない」
「あの日は?」
「……それは、カウントしない方向で」
「する方向で」
クロエが眉を寄せると、アオイは少しだけ目を逸らした。
その横で、レイカがアオイの手元を見た。
「ん? アオイ、それ何持ってんの?」
アオイの肩が、ぴくりと動いた。
クロエの視線も、自然とそこへ向かう。
アオイの手の中に、薄いカードがあった。
シャイニードリームランドのロゴ。
赤い帽子の黒柴。
そして、アオイの顔写真。
クロエは数秒、言葉を失った。
「……年パス?」
アオイはカードを両手で持ち、少し恥ずかしそうに笑った。
「取っちゃった」
「取っちゃった、じゃないでしょ」
「買ったの?」
レイカが目を丸くする。
「買った……っていうか」
「うん」
「取得した、みたいな」
「買ったんじゃん」
「……うん。買った」
レイカが笑いすぎて机を叩いた。
「で? なんでいきなり年パス?」
アオイは少し黙った。
それから、ぽつぽつと話し始めた。
一昨日、シャイニードリームランドに行ったこと。
時計塔の下にいたこと。
シバチーが赤い風船をくれたこと。
何も言わずに隣にいてくれたこと。
泣いたこと。
少しだけ笑ってしまったこと。
そして、帰る前に、気づいたら年パスの窓口にいたこと。
話し終えるまで、クロエは黙って聞いていた。
レイカも、途中から笑うのをやめていた。
朝の教室のざわめきが、少し遠くなる。
アオイは年パスを胸元に寄せた。
「もう一回、会いたくなった」
小さな声だった。
「シバチーに」
クロエは何も言えなかった。
一昨日一日で、全部が治ったわけではない。
失ったものが戻ったわけでもない。
アオイのヘッドホンは、今も耳をふさいでいる。
それでも。
アオイは、自分の足で、もう一度あの場所へ行こうとしている。
そのことが、怖かった。
そして、泣きそうになるくらい嬉しかった。
しばらく沈黙が落ちた。
そのあと、レイカが真顔で言った。
「……ストーカーじゃん」
「違うよ」
アオイは少し慌てたように言った。
「追いかけたいとか、そういうのじゃなくて……その、ちゃんと知りたいだけ」
「それをストーカーって言うんじゃない?」
「言わない。たぶん」
「自信なくなってるじゃん」
「でも、失礼なことはしたくないし」
「そこ気にするんだ」
「シバチーには、敬意が必要だから」
「ストーカーもだいたいそう言うんだよ」
クロエは額に手を当てた。
レイカはまた笑い出した。
「いやー、これは重いわ。アオイ、推しできるとこうなるタイプだったんだ」
「推し……なのかな」
「そこ迷うんだ」
アオイは少し考えた。
答えは、まだ見つからなかった。
好き、とは違う。
かわいい、だけでもない。
助けてくれた、という言葉でも足りない。
だから、アオイは年パスを握りしめて言った。
「……研究、かな」
「やっぱストーカーじゃん」
「研究です」
レイカは声を上げて笑った。
クロエは、その笑い声と、アオイの少し照れた横顔を見ていた。
アオイの声が、少しだけ教室に戻ってきている。
それは、嬉しいことのはずだった。
間違いなく、嬉しいことだった。
なのに胸の奥に、うまく名前をつけられない感情が残った。
嬉しい。
怖い。
よかった。
でも、どうして。
クロエはその感情を飲み込んだ。
「……無理はしないこと」
アオイは年パスを胸元に寄せたまま、こくりとうなずいた。
「しない」
「泣いたら連絡」
「泣かないよ」
「あの日、泣いたでしょ」
「……あれは、シバチーが悪い」
「シバチー悪くないと思うけど」
「風船を渡してくる方が悪い」
「言いがかりすごいね」
レイカが笑った。
アオイも、少しだけ笑った。
その笑い声を聞いて、クロエはもう一度だけ胸の奥が痛くなるのを感じた。
けれど、それを顔には出さなかった。
*
その日の放課後。
アオイは一人でバス停に向かった。
駅前を通り、海沿いの道へ出る。
シャイニードリームランド行きのバスは、本数が多くない。
ベンチに座って待っている間、アオイは年パスを何度も確認した。
名前。
顔写真。
有効期限。
どう見ても、ただの年間パスポートだった。
けれどアオイには、やっぱりそれが何かの許可証のように見えた。
もう一度、あの場所へ行ってもいい許可。
もう一度、あの赤い帽子を探してもいい許可。
もう一度、笑えるかもしれない場所へ戻ってもいい許可。
バスが来る。
アオイは乗り込んだ。
窓の外で、町が少しずつ流れていく。
住宅街。
小さなスーパー。
海沿いの道。
遠くに見える観覧車。
シャイニードリームランドが近づくにつれて、アオイの手に力が入った。
怖くないわけではなかった。
また泣くかもしれない。
何も感じないかもしれない。
あの日だけが特別だったのかもしれない。
それでも、行きたいと思った。
それだけで、少し前に進んでいる気がした。
バスを降りると、ゲートの向こうに時計塔が見えた。
あの日と同じ場所。
でも、空は雨ではなかった。
薄い雲の間から、弱い日差しが広場に落ちている。
タイルは乾いていた。
アオイはゲート前で立ち止まった。
深呼吸を一つ。
それから、年パスを取り出す。
スタッフが笑顔で言った。
「年間パスポートですね。いってらっしゃいませ」
いってらっしゃい。
その言葉に、アオイは少しだけ目を伏せた。
帰ってきてから遊ぶね。
昔、自分が言った言葉が、ふと胸をかすめる。
でも今日は、帰ってくる場所ではない。
来る場所だ。
アオイはゲートをくぐった。
広場には、平日のゆるい空気が流れていた。
ベビーカーを押す母親。
走り回る小さな子ども。
ベンチでパンフレットを広げる家族。
スタッフの明るい声。
そして、広場の中央に、シバチーがいた。
アオイの足が止まった。
赤い帽子。
白いパーカー。
黒柴の無表情。
シバチーは子どもたちに囲まれていた。
小さく手を振り、少しだけ首をかしげる。
アオイは、息を止めるように見つめた。
いた。
本当にいた。
あの日と同じ姿で。
胸が少しだけ熱くなる。
けれど、次の瞬間。
「……あれ?」
アオイは小さくつぶやいた。
何かが違う。
見た目は同じ。
赤い帽子も、白いパーカーも、無表情の顔も同じ。
でも、違う。
ステップが軽い。
子どもに手を振る時の動きが、少しだけ強い。
首をかしげる角度にも、妙な勢いがある。
広場の空気を、力技で明るくしているような動き。
アオイは瞬きをした。
シバチーは、くるりと一回転した。
子どもたちが歓声を上げる。
その動きは楽しい。
とても楽しい。
でも。
あの日、時計塔の下で隣にいてくれたシバチーとは、どこか違う。
アオイは無意識にスマホを取り出した。
メモアプリを開く。
指が止まる。
何を書けばいいのか分からない。
しばらく考えてから、アオイは打ち込んだ。
『シバチー観察記録』
すぐに消した。
少し考える。
もう一度、打ち込む。
『シバチー研究記録』
これなら、少しだけ落ち着く気がした。
追跡ではない。
研究である。
恋でもない。
たぶん。
アオイは、広場のシバチーを見つめながら、ゆっくりと文字を打った。
『Monday
ステップが軽い。
帽子の角度が強い。
動きに勢いあり。
広場の空気を物理で明るくしている。
あの日とは違う気がする』
そこまで書いて、アオイは顔を上げた。
シバチーが、子どもに向かって親指を立てている。
子どもが笑う。
近くの親も笑う。
広場の空気が、少し明るくなる。
アオイは小さく息を吐いた。
「……違うんだ」
残念ではなかった。
むしろ、胸の奥がざわついた。
違うなら、知りたい。
なぜ違うのか。
いつ違うのか。
どの日なら、あの日のシバチーに会えるのか。
アオイは年パスを握り直した。
これがただの気のせいなら、それでいい。
でも、もし違うのなら。
もし、曜日によって何かが違うのなら。
調べてみたい。
ちゃんと。
アオイはスマホを閉じた。
その時、広場のシバチーが、赤い帽子を少しだけ斜めにした。
近くにいた常連らしき子どもが「あっ」と声を上げる。
スタッフが、なぜか少し身構えた。
次の瞬間、シバチーが踊り出した。
キレが異常だった。
アオイは固まった。
子どもたちは笑っている。
親たちも手を叩いている。
スタッフはやっぱり少し身構えている。
シバチーは無表情のまま、やたら鋭いステップを踏んでいた。
かわいい。
かわいいのに、圧がある。
アオイは、ゆっくりとスマホを開いた。
『追記
帽子を斜めにすると、何かが始まる。
常連が反応する。
スタッフが構える。
少し危ない気がする。
でも、かわいい』
書き終えたあと、アオイは少しだけ口元を緩めた。
あの日のシバチーではない。
でも、これもシバチーだ。
そして。
シバチーは、一人ではないのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、アオイの胸が小さく鳴った。
知りたい。
もっと。
アオイは顔を上げた。
夕方の光が、広場に差し込んでいる。
赤い帽子が、その中で揺れている。
アオイは小さくつぶやいた。
「……ついせきじゃないよ」
誰も聞いていない。
それでも、アオイは続けた。
「研究、だから」
その日から、アオイの長期観察が始まった。
年パスを握った少女は、もう一度この場所へ通い始める。
失ったものが戻るわけではない。
閉じた心がすぐに開くわけでもない。
それでも、赤い帽子を探す理由ができた。
明日を待つ理由が、ほんの少しだけできた。
シャイニードリームランドの広場で、シバチーが踊っている。
アオイはスマホに、最後の一行を打ち込んだ。
『Next:Tuesday確認』
そして、少しだけ笑った。
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