敵国の王子を二度救う

五平

第1話:国境の揺らぎ

沈黙こそが、至高の美徳とされる夜だった。


人族の至高たる王座が置かれたルミナス城の東翼。その一角に位置する第一王子アルフレートの私室は、微かな蜜蝋の爆ぜる音と、羊皮紙を繰る乾いた音だけが支配していた。

部屋を照らすのは、豪奢な銀の燭台に灯された数本の蝋燭のみ。高い天井から吊るされたタペストリーには、聖王国の祖が剣を掲げ、異形の怪物を討ち果たす姿が厳かに刺繍されているが、夜の帳が下りたこの時間には、その意匠もまた黒い影に沈んで不気味にうごめいているように見えた。


アルフレートは、まだ十歳に満たない細い指先で、机上に広げられた古い軍路図をなぞっていた。

彼の髪は、陽光をそのまま溶かし込んだかのような純金の色をしており、その瞳は夜の湖のごとき深い、静謐な青を湛えている。ルミナス王族としての気高き血統の証明。だが、その小さな肩にのしかかる双眸の奥には、年齢にそぐわない冷徹な翳りが沈んでいた。

彼がなぞっているのは、王国の東端に引かれた、赤く太い国境線だ。その線の先は、黒々としたインクで塗り潰された一帯となっていた。


【常磐の森(エターナル・ウッド)】。


人族の言葉ではそう呼ばれるが、その実、そこは「けだもの」であり「呪われた異端」であるエルフたちの版図であった。ルミナス聖王国とエルフは、アルフレートが生まれる遥か昔、それこそ三代前の王の時代から、果てることのない局地戦を繰り返している。


「――アルフレート殿下。まだ、灯りを消されぬのですか」


背後から音もなく現れたのは、白髪の侍従長官ハインツだった。その声には、親愛よりも先に、王家に仕える者としての厳格な「枠」がはめられている。背筋を狂いなく伸ばし、隙のない礼装に身を包んだ老僕の目は、幼い王子を労っているのではない。王族として正しくあるかを監視しているのだ。この城において、純粋な好意や案じる言葉などは存在せず、すべての甘えは刃の裏返しになり得る。幼い王子はそれを、日々の息苦しさの中で肌から理解していた。


「もうすぐ休むよ、ハインツ。ただ、この東の境界線が……どうしても気になってね。僕たちの領土はここで途切れて、その先はただ黒く塗り潰されている」

「そこは穢れた者たちの巣窟にございます。殿下が目を留められる価値などございません」

「価値がないなら、なぜ三代も戦が続いているの?」


アルフレートが静かに問い返すと、ハインツの瞼が、わずかに下がった。そのわずかな変化だけで、老僕の胸中にある揺るぎない信仰の重さが伝わってきた。


「価値があるからではございません。穢れを残しておけば、いずれ聖王国の内へ滲み込むからです」


ハインツの言葉は、この宮廷における「正義」そのものだった。

大人たちは誰もがそう言う。エルフは冷酷で、慈悲を知らず、人族の肉を喰らう怪物であると。聖王国の教会は彼らを「神に背いた出来損ない」と呼び、軍部は彼らを「排除すべき障害」と呼ぶ。毎日、毎日、家庭教師や神官たちから脳裏に直接注ぎ込まれるその教えは、まるで耳の奥に流し込まれる冷たい鉛のようだった。反論を許さず、思考を麻痺させるための重き言葉。


だが、アルフレートの幼い胸には、その言葉がどうしても、硝子片を飲み込んだかのような不快な違和感となって引っかかっていた。


(本当に、そうなのだろうか……)


思考の連鎖は、一度始まれば止まらない。少年の繊細な感性は、大人たちが語る言葉の端々に潜む「都合の良さ」を敏感に察知していた。

アルフレートは、昼間に見た軍事評議会の様子を思い出していた。大公や将軍たちが、豪華な刺繍の施された絨毯を踏みしめながら、地図を囲んで「どれだけの兵を動かせば、あの森の木々を効率よく切り倒せるか」「エルフの弓兵を炙り出すために、どの街道に火を放つべきか」を熱っぽく語っていた姿を。


彼らの目は、異形への恐怖に怯えているのではなかった。ただ、手つかずの肥沃な土地と、そこに眠る魔石の鉱脈を貪り食おうとする、飢えた獣のそれと同じだった。彼らが口にする「大義」や「神の正義」という言葉は、その内側にあるぎらついた欲望を覆い隠すための、きらびやかなヴェールに過ぎないのではないか。

とりわけ、国王が近年、国境交渉の再開をほのめかしていることは、主戦派にとって看過できぬ兆しだった。そして第一王子アルフレートは、その父王の迷いを、もっとも濃く受け継いでいるように見えた。彼らは、王家の血筋に宿るその「正しさ」をこそ、危険視しているのだ。


そんな疑問を口にすれば、たちまち「王族としての自覚が足りぬ」と叱責され、最悪の場合は教会から異端の疑いをかけられる。だから、アルフレートはただ黙って、羊皮紙の上の黒い森を見つめるしかなかった。胸の奥で、まだ名前のない、けれど決して消えない「違和感」という名の火種が小さく爆ぜるのを感じながら。


「明日は、いよいよ国境付近の視察でございます。殿下も陛下に同行される身。早くお休みになり、英気を養うべきかと」

「分かっている。ありがとう、ハインツ」


燭台の火が消され、部屋が完全な闇に包まれても、アルフレートの脳裏からはあの黒い森の輪郭が消えなかった。彼にとって、明日の視察は単なる儀礼ではなかった。自分の目で、大人たちが隠そうとする「世界の本当の姿」を確かめるための、最初で最後の機会かもしれないのだから。


---


翌日、アルフレートを乗せた大型の馬車は、厳重な聖騎士たちの護衛を伴ってルミナス城を出発した。

鉄の蹄が石畳を叩く規則正しい音が、どこか処刑場へと向かう行進のように重苦しく響く。目指すは【ヴェルデン国境地帯】。長年の紛争により、草木は徹底的に踏み荒らされ、泥と硝煙、そして流された血の匂いが未だに土の底から染み付いていると噂される前線拠点である。


馬車の窓から見える景色が、のどかな穀倉地帯から荒涼とした岩肌、そして切り裂かれた断崖へと変わるにつれ、同行する大人たちの空気もまた、目に見えて殺気立っていった。

今回の国境視察を裏で主導しているのは、国王ではなく、主戦派の巨頭であるギルベルト・ヴァルハイト大公だった。彼は肥満した身体を、何頭もの獣を殺して作らせたであろう豪華な黒狐の毛皮で包み、馬車の向かい側の席で、不気味な笑みを浮かべて絶えず銀の煙管をくゆらせていた。天幕のように広い彼の背中の向こう、窓の外には、すでに目指す地が見え始めていた。


「アルフレート殿下、ご覧くだされ。あれが我が聖王国の敵、忌むべき緑の壁にございます」


ヴァルハイト大公が脂肪の乗った太い指で指し示した先――地平線の向こうに、天空を突き刺すかのような巨木が連なる、圧倒的な森がそびえ立っていた。


常磐の森。


太陽の光さえも頑なに拒絶するような深い、濃密な緑の防壁。それは確かに、人族の視点から見れば、立ち入る者を二度と帰さない不気味な魔境に見えるかもしれない。しかし、馬車の揺れに身を任せながらそれを見つめるアルフレートの目には、その森が何かを必死に堪え、侵略者たちの暴挙を静かに見下ろしている高潔な巨人のようにも見えた。人族がどれほど喚こうとも、森はただそこにある。その圧倒的な存在感が、王子の胸の違和感をさらに肥大化させていく。


夕刻、一行は国境の最前線にある人族の軍営へと到着した。

無数の天幕がすり鉢状の荒野に立ち並び、鉄錆と、兵士たちの乾いた汗、そして家畜の糞尿の匂いが混ざり合って鼻腔を刺す。夜が更けると、前線の緊張感から逃れるためか、兵士たちの粗野な笑い声や、安酒を酌み交わす濁った音が響き渡った。だが、本陣である国王と大公の天幕の周辺だけは、まるで空間そのものが凍りついたかのように、奇妙なほど静まり返っていた。


アルフレートは、あてがわれた小さな天幕の中で、固い寝台に横たわりながら外の音に耳を澄ませていた。

冷たい夜風が天幕の厚い布を揺らすたび、バサバサという音が妙に不吉な羽ばたきのように聞こえる。昼間、ヴァルハイト大公が自分に向けた、あの値踏みするようなねっとりとした視線が頭から離れない。胸の騒ぎがどうしても収まらず、身体の芯が冷え切っていく。彼は寝台から起き上がると、少しだけ外の空気を吸って頭を冷やそうと、見張りの兵の目を盗んで天幕の隙間から這い出た。


それが、彼の運命の歯車を狂わせる、決定的な一歩となった。


本陣の裏手、篝火の届かない暗がりにひっそりと佇む大公の私的な天幕。その薄い布越しに、低く掠れた話し声が漏れ聞こえてきた。周囲の見張りは、奇妙なほど周到に遠ざけられていた。その声の主は、間違いなくヴァルハイト大公のものだった。


「……予定通り、今夜だ。森の獣どもの『夜襲』に見せかけ、あの金髪の小僧を処理しろ」


アルフレートは息を呑んだ。一瞬、それが自分のことだとは理解できなかった。


「しかし、大公。第一王子を殺めるなど、もし本国に露見すれば、我らの一族は根絶やしに……」

「馬鹿者が。だからこそ、国境のこの場所を選んだのだ。平和ボケしてエルフとの融和などを夢想し始めた国王に、奴らの残虐さを思い知らせるには、最愛の息子の無惨な死体が一番の薬よ。エルフの矢の一本でも死体に突き刺しておけば、教会も黙ってはおらん。森を焼き払えば、地の底に眠るものも、古き権益も、すべて聖王国の秩序の内に収まる。誰がその秩序を司るべきかなど、言うまでもあるまい」


低い、濁った笑い声が、夜の冷気の中に溶けていく。


アルフレートは、自分の全身の血が、一滴残らず凍りつくのを感じた。

心臓が、耳元で重い鐘を打ち鳴らすかのように激しく、痛いほどに脈打つ。頭の中が真っ白になり、呼吸の仕方を忘れたかのように喉が張り付いた。


(僕を……殺す? 大人たちが、エルフと戦争をするために……?)


これまで教えられてきた「神への忠誠」も、「王国の正義」も、すべては少年の命すら道具にするための、酷薄な嘘だったのだ。自分を守ってくれるはずの聖騎士たちの鎧の白さは、内側のドブ川のような汚れを隠すための書き割りに過ぎなかった。

恐怖が、幼い身体の自由を奪いかける。ここにいてはいけない。戻っても、進んでも、あの大人たちの手のひらの上だ。見つかれば、その瞬間に「エルフに殺された可哀想な王子」としての死が確定する。


「――誰だ! そこにいるのは!」


天幕の陰で、足元の小石が微かに擦れた音。それを、大公の側に控えていた私兵の鋭い五感が捉えた。

天幕の布が跳ね上がる。アルフレートは振り返ることもできず、ただ本能のままに、闇の中へと走り出していた。


「王子だ! 小僧が聞いたぞ! 追え! ここで仕留めろ!」


背後から「逃がすな!」「獣の仕業にせよ!」という容赦のない怒号が響き渡る。草を踏みしめる重い足音と、抜き放たれた鋼の擦れ合う不快な音が、確実に、執拗に距離を詰めてくる。暗闇の中、背後から向けられる剥き出しの殺意が、熱い刃のように王子の背中を貫いていた。


少年の短い足では、訓練された大人の追っ手から逃げ切ることなど、絶対にできない。息が苦しい。肺が破裂しそうだ。

アルフレートが死に物狂いで向かったのは、人族の誰もが「決して近づくな」と呪いを恐れる、あの黒々とした禁忌の領域――常磐の森の入り口だった。


視界を遮る鋭い茨の藪が、王子の高価な衣を切り裂き、幼い皮膚に赤い筋を刻んでいく。泥に足を取られ、何度も転びかけながらも、アルフレートは走り続けた。

冷たい風が涙を凍らせ、背後の追っ手の気配がすぐそこまで迫る。だが、ある一線を越えた瞬間、周囲を包む空気が、劇的に一変した。


軍営の耳障りな騒音や怒号が、まるで分厚い壁で遮られたかのように完全に消え去り、耳が痛くなるほどの、圧倒的な「静寂」が彼を包み込んだ。同時に、むせるほどに濃密な、古い木々と湿った苔の香りが肺を満たす。


境界線を、越えてしまった。


人族が畏怖し、忌み嫌う「常磐の森」の深奥へと、幼き王子は一人、完全に迷い込んでいた。


---


もう、一歩も動けなかった。

アルフレートは傷だらけの身体を引きずるようにして、巨大な古木の根元にある空洞へと身を潜め、小さな身体を極限まで縮めてガタガタと震えていた。


上空を見上げても、幾重にも重なる巨大な葉が月光を完全に遮断し、一筋の光さえ届かない。ここは、光の神の信仰が届かない、完全な暗黒の世界だった。どこか遥か遠くの深淵で、聞いたこともない原生の魔獣が吠える地鳴りのような音が響き、足元の湿った黒土からは、夜の冷気が容赦なく少年の体温を奪っていく。衣服の傷から流れる血が、冷たく皮膚を伝う。


宮廷という、偽りに満ちてはいたが、温かかった世界から、一瞬にして放り出された生と死の境界線。

信じるべきものをすべて失い、あまりの恐怖と孤独に、アルフレートの瞳からついに堪えきれない涙が溢れ、地面を濡らした。


――パキリ。


その時、静寂が支配する漆黒の森の奥で、明確な乾いた音が響いた。

魔獣の不規則な足音ではない。もっと静かで、重みを消した、しかし明確な意志を持った人間のそれと同じ足取り。


(追っ手だ……見つかったんだ……)


アルフレートは両手で口を覆い、呼吸さえも止めた。

だが、その足音は少年の隠れる巨木を目指し、一切の迷いなく、着実に、一歩一歩近づいてくる。暗闇の向こうから、冷徹な殺気が皮膚をチクチクと刺すように伝わってきた。


それはまるで、この暗黒の森の中で、少年の名と居場所を最初から知っているかのような、確実で容赦のない足取りだった。

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