第19話 残り十二日

 金曜の朝、森下修一は玄関の紙袋の前で少し止まった。


 紙袋の口は、昨日折り直したままだった。


 中には保存容器が入っている。明日、母に返すものだった。


「予定実行前日の物品確認を確認」


 死神が言った。


「また確認が多いです」


「明日は土曜です」


「知っています」


「対象者は、明日、母親宅を訪問する予定です」


「はい」


 森下は靴を履いた。


 革靴は、もうほとんど足に馴染んでいた。


 スマートフォンを見ると、母からメッセージが届いていた。


『明日、気をつけて来てね。お昼、十二時くらいで大丈夫?』


 森下は返信画面を開いた。


『十二時に行く。何か買っていく』


 送ってから、少し考えた。


 何を買っていくかは、まだ決めていない。


「持参物の予定追加を確認」


「まだ決まってません」


「未確定の予定です」


「そうですね」


「未確定でも、予定ですか」


「たぶん、そうです」


 会社に着くと、A-39408の説明資料が机の上に置かれていた。


 紙の束には、昨日の赤鉛筆と付箋が残っている。


 田辺航は、すでに自分の席で画面を開いていた。


「森下さん、修正反映しました」


「見る」


 資料は昨日より短くなっていた。


 確定事項。

 調査中。

 客先へ伝えること。


 大手メーカーの修正版も、前提条件欄に差し込まれている。


 森下は紙と画面を見比べた。


「ここ、いい」


 田辺が少し背筋を伸ばした。


「ありがとうございます」


「でも、三ページ目の写真番号が本文とずれてる」


「あ、直します」


 村瀬邦彦が隣から赤鉛筆を出した。


「だから紙で見ろって言ったろ」


「はい」


「でも、昨日よりは見えるようになってる」


 田辺は少し驚いて、村瀬を見た。


「ありがとうございます」


「礼は直してから言え」


 佐伯真尋は十時過ぎに来た。


「設計履歴の表現だけ直して。『客先承認済み』は強すぎる。『客先確認記録あり』にして」


「承認じゃないのか」


「議事録上は確認。承認とは別。言葉を盛ると、あとで刺さる」


「分かった」


 田辺がメモを取った。


 死神が隣で言った。


「言葉の過不足を確認」


「資料では大事です」


「多すぎても、少なすぎても問題ですか」


「そうです」


「人間の発話は難解です」


「仕事の資料は特に」


 森下がそう言うと、佐伯がこちらを見た。


「何、一人で納得してるの」


「いや、資料は難しいなと」


「今さら?」


 佐伯は呆れたように笑って、設計部へ戻った。


 昼前、長谷川課長が資料を確認した。


「この形で出そう。客先には田辺君から送って、森下君をCCに入れて」


 田辺の手が止まった。


「自分から、ですか」


「一次案作ったのは田辺君だろ。もちろん森下君が確認済みって分かるようにして」


 森下は田辺を見た。


「送れるか」


「……送ります」


 送信前のメールを二人で確認した。


『添付の通り、現時点での確認事項を整理しました。確定事項、調査中事項、今後の確認予定を分けて記載しております。月曜午前のオンライン説明時に、詳細をご説明いたします。』


 森下は一文だけ直した。


「『現時点で』を冒頭だけじゃなく、資料名にも入れよう。確定版に見えないように」


「はい」


 添付ファイル名は、

【A-39408_現時点確認資料_2026xxxx】

になった。


 田辺が送信ボタンを押した。


 少しだけ長い沈黙があった。


「送れました」


「送れたな」


 村瀬が紙コップを持って言った。


「メールは送った後が本番だ」


「怖いこと言わないでください」


「怖くない。戻ってきたら直せばいい」


 昼休み、森下は食堂で味噌汁を飲んだ。


 今日の具は豆腐だった。


 ねぎは入っていなかった。


「豆腐を確認」


 死神が言った。


「今日は豆腐ですね」


「ねぎはありません」


「明日はあるかもしれません」


「あります。たぶん」


「たぶん」


「母が、ねぎはあったと思うと言っていたので」


 森下は豆腐を箸で崩さないようにすくった。


 会社の味噌汁は、今日も少し薄かった。


 午後、客先から受領の返信が来た。


『資料受領しました。月曜午前の説明、よろしくお願いいたします』


 それだけだった。


 森下は文面を見て、田辺に転送した。


「受領されました」


 田辺は少しほっとした顔をした。


「土曜、行けますね」


「行く」


 森下は、今度はすぐに答えた。


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 退勤前、予定表を開いた。


 明日の欄に、【実家 容器返却 12:00】とある。


 その下に、森下は一行足した。


【手土産を買う】


 保存ボタンを押す。


 死神が画面を見ていた。


「予定が増加しました」


「そうですね」


「実行予定ですか」


「はい」


 会社を出たのは十九時前だった。


 駅前の和菓子屋は、まだ開いていた。


 森下は少し迷って、小さな羊羹の詰め合わせを買った。


 母が好きだったかどうかは、はっきり覚えていない。


 昔、仏壇の横に似た箱が置いてあった気がした。

 それが母のものだったのか、父のものだったのかは思い出せなかった。


 ただ、重すぎず、保存容器の紙袋とは別に持てる大きさだった。


「選定理由を確認」


「大きすぎないので」


「それだけですか」


「たぶん、母が食べられるので」


「たぶん、が多いです」


「明日のことなので」


 死神は少し黙った。


「明日、ですか」


「はい」


「予定日前の、明日です」


「そうですね」


「……記録します」


 森下は、和菓子屋の紙袋を持ち直した。


 部屋に帰る。


 玄関の紙袋は、朝と同じ場所にあった。


 森下はその隣に、和菓子屋の小さな紙袋を置いた。


「ただいま」


「おかえりなさい」


 昨日より早かったかどうかは、分からなかった。


 けれど、返事はあった。


 森下は紙袋を二つ見た。


 明日、持っていくものが増えた。


---


死神の業務報告日誌


対象者:森下修一

死亡予定日:十二日後

死因予定:過労に起因する事故死


対象者は金曜朝、母親宅訪問予定関連物品を確認。

母親より翌日の訪問時刻確認あり。

対象者は「十二時に行く。何か買っていく」と返信。

手土産持参予定を追加。


業務において、A-39408説明資料の最終確認を実施。

後輩社員が修正反映を行い、年上部下が写真番号、設計部同期が表現の過不足を指摘。

直属上司は、後輩社員から客先へ資料送付する形を了承。

対象者は送信内容を確認し、一部表現および資料名を修正。

後輩社員が客先へ送信。

客先より資料受領および月曜説明了承の返信あり。


対象者は退勤前、翌日の予定に「手土産を買う」を追加。

退勤後、駅前の和菓子店で羊羹の詰め合わせを購入。

帰宅後、母親宅へ持参する保存容器の紙袋の隣に配置。


所見:

対象者は翌日の私用予定を消去せず、業務を金曜中に区切った。

後輩社員による対外送信を確認。

対象者単独での業務保持は一部減少。

翌日に向けた物品準備が二件に増加。


対象者は「行く」と即時に発話。

また、翌日を「明日」として認識し、手土産を購入。

死亡予定日前の予定実行が近接している。


帰宅時、対象者は「ただいま」と発話。

記録者は応答を実施。

応答時間に関する対象者の発話はなし。

玄関には保存容器の紙袋および手土産の紙袋が配置された。


翌日予定について、記録を継続する。


---


森下修一の日記


 金曜。


 母から、明日は十二時で大丈夫かと連絡が来た。

 十二時に行く、何か買っていく、と返した。


 A-39408の資料を客先へ送った。

 田辺が送った。

 俺は確認して、一文と資料名だけ直した。


 佐伯に、承認と確認は違うと言われた。

 村瀬さんには、写真番号のずれを見つけてもらった。


 客先から受領の返信が来た。

 月曜説明で進むことになった。


 土曜、行けますね、と田辺に言われた。

 行く、と答えた。


 帰りに羊羹を買った。

 母が好きだったか、はっきり覚えていない。

 仏壇の横に、似た箱があった気がする。

 母のものだったのか、父のものだったのかは思い出せない。


 でも、持っていくものが増えた。


 帰って、ただいまと言った。

 死神が、おかえりなさいと言った。


 玄関に紙袋が二つ並んだ。

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