第二章 もう一つの六月

目が覚めたとき、奈々はまだ廊下の椅子にいた。

同じ廊下。同じ白い壁。同じ消毒の匂い。

ただ。

看護師が、こちらに向かって歩いてきた。

「お待たせしました」と、その人は言った。「佐々木優子さんのパートナーの方ですか」

頷いた。

「手術の同意書にサインをいただけますか」

一秒、動けなかった。

もう一度、聞こえた声が。

サインを、いただけますか。

「……できますか」声が、かすれていた。「私が、サインできますか」

看護師は少し不思議そうな顔をした。

「はい。ご登録のパートナーの方として、ご署名いただけます」

手が、震えた。

ペンを受け取った。

用紙を見た。

佐々木優子、手術同意書。

そこに、自分の名前を書いた。

田中奈々。

ペンが最後の字を書き終えた瞬間、目から涙が落ちた。

どうして泣いているのか、分からなかった。嬉しいのか、悲しいのか、怖いのか。全部が、一度に来ていた。

ただ、ペンを持つ手が、震え続けていた。

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手術は、三時間かかった。

奈々は廊下の椅子に座って、待った。今度は、待てた。さっきと同じ白い廊下で、さっきと同じ硬い椅子で。でも何かが違った。手術室のランプが赤くついていた。中で誰かが優子を助けようとしていた。その事実が、奈々を椅子に繋ぎ止めた。

スマホを見た。ユキちゃんからメッセージが何件か来ていた。「優子さん、大丈夫ですか」「カフェは閉めました」「何かできることあれば言ってください」。「ありがとう、待ってます」とだけ返した。

ほかに連絡する人を、考えた。

優子の両親には、連絡しなかった。

する必要が、なかった。今の奈々には、その判断ができた。

ランプが消えたのは、夕方だった。

担当医が出てきた。脳の血管に血栓が詰まっていた。カテーテルで取り除いた。成功した。しばらくリハビリが必要だが、後遺症の程度は経過を見ないと分からない。

奈々は頷いた。頷きながら、泣いた。声は出なかった。ただ、涙が落ちた。担当医が「よかったですね」と言った。

よかった。

そうだ。よかった。

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優子が一般病棟に移ったのは、三日後だった。

病室に入ると、優子はベッドに半身を起こして、窓の外を見ていた。点滴の管が腕についていた。顔色が悪かった。でも、そこにいた。そこに、いた。

「来た」と優子は言った。

「来た」と奈々は言った。

どちらも、それだけ言った。

椅子を引いて、ベッドの横に座った。優子の手を取った。点滴の管の反対側の手。細かった。いつもより、少し細い気がした。

「痛い?」

「少し。頭が」

「そうか」

「奈々が来たら、少し楽になった」

何も言えなかった。優子の手を、少し強く握った。

優子は窓の外を見ながら言った。「サイン、してくれたって、聞いた」

「うん」

「ありがとう」

「知ってる」

優子がこちらを向いた。目が合った。

少し間があった。それから、優子は笑った。口の端が上がる笑い方で。

「知ってた」と優子は言った。静かな声だった。「奈々にしか、頼めなかったから」

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退院したのは、二週間後だった。

梅雨が明けていた。七月の空が、アパートの窓から見えた。

優子はソファに横になって、天井を見ていた。リハビリは週に三回、病院に通う必要があった。しばらく、カフェは閉めることにした。常連さんたちにはユキちゃんが連絡を入れてくれた。みんな「待ってます」と言ってくれたと、ユキちゃんが教えてくれた。

仕事のペースを落として、優子の側にいた。

料理を作った。優子が食べた。洗い物をした。優子が見ていた。

「何見てるの」

「奈々の後ろ姿」

「趣味悪い」

「好きなんだよ」

知ってる、と言いそうになって、やめた。優子の台詞だ。

「知ってた」と言ったら、優子が少し笑った。

こういう笑い方をする人だった。大きく笑うわけじゃない。口の端が少し上がって、目が細くなる。それだけで分かった。優子が笑っている、と。

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八月になった。

友人の加奈子から久しぶりに連絡が来た。「会えない?ちょっと話したいことあって」

三人でよく行っていた定食屋で、加奈子と向かい合って座った。加奈子は少し緊張した顔をしていた。

「結婚、するかもしれない」

「え、誰と」

「田中くん。会社の」

「知らない人だ」

「うん。奈々に話したことなかったと思う」加奈子はお茶を飲んだ。「ちょっと、相談があって」

「なに?」

「名前のこと」

仕事で今の名前を使ってきた。営業職で、名刺を何百枚も配ってきた。取引先に浸透している名前を変えるのは正直きつい。彼は「変えなくていいよ」と言ってくれているが、来年から、同じ名字にしなくていい選択肢ができるって話で。

「選べる?」

「うん。まだ確定じゃないけど、それが通ったら、私はそっちにしたいなって」

少し考えた。そうか、そういう話があるのか、とぼんやり思った。

「よかったじゃん」

「よかったよね」加奈子は笑った。「なんか、ずっとそれで悩んでたから。変えるのが当然みたいな空気、あるじゃない。でも変えたくなかったんだよね」

頷いた。変えたくなかった名前。変えなくていい世界。

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九月に、台風が来た。

大型だという話だったが、上陸は想定より早かった。ニュースでは、珍しく対応が速かった、と言っていた。山間部の集落への支援が、上陸から数時間で始まった。奈々はぼんやりとそのニュースを見ながら、そうか、速いんだな、と思った。

前に聞いた話を、思い出した気がした。

どこかで聞いた。集落に助けが来るのに、三日かかった話。誰から聞いたんだろう。思い出せなかった。

気のせいかもしれない。

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十月のある夜、優子がリハビリから帰ってきた。

顔色が、少し良くなっていた。病院の先生に「かなり回復が早い」と言われた、と教えてくれた。

「よかった」

「うん。あとしばらくかかるけど」

優子はソファに座って、少し黙った。奈々はキッチンで湯を沸かしながら、背中でその沈黙を聞いていた。

「奈々」

「うん」

「カフェ、また開けようと思う」

湯呑みを取り出しながら、言った。「いつから?」

「来月くらいから、少しずつ」

「ユキちゃんに連絡した?」

「まだ。奈々に先に言いたかったから」

振り返った。優子がこちらを見ていた。

「ありがとう」と奈々は言った。

「何が」

「先に言ってくれたこと」

優子は少し笑った。あの笑い方で。口の端が上がって、目が細くなる笑い方で。

「奈々がいないと始まんないから」と優子は言った。「始めない仕事は終わらないって、誰かが言ってたし」

誰かが言ってた、か。奈々は笑った。

「誰だろうね、それ」

「忘れた」

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夜、優子が眠った後で。

奈々は一人で電気を落とした部屋に座っていた。

スマホの画面を、なんとなく眺めた。

六月から始まったことを、思い返していた。病院の廊下。白い壁。蛍光灯の光。看護師がこちらに歩いてきて、サインを、と言った。

あのとき、何かが変わった気がした。

変わった、というより。

戻った、という感じ。

どこかから、戻ってきた。

何かを夢で見ていた気がした。同じ廊下で、同じ看護師に、「ご家族以外は——」と言われる夢。優子に、会えない夢。

夢だったのか。

スマホを置いた。

寝室のドアの向こうで、優子が眠っている。

それで、いい。

ただ、少しだけ。

胸の奥に、何か引っかかっていた。

夢の廊下が、妙にリアルだった。消毒の匂いまで、覚えていた。

なぜあんな夢を見たんだろう。

サインができない夢なんて。

あんなこと、この世界では——

そこで、止まった。

この世界では。

その言葉が、頭の中で静かに光った。

なぜ、そんな言い方をしたんだろう。

この世界では、という言い方を。

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