第5話『九尾の白玖』
白い九尾の狐が、霧の中から姿を現した。
それは獣と呼ぶには、あまりにも大きかった。
朔夜の背丈など比べものにならない。見上げなければ、その顔を見ることすらできないほどの巨躯。雪のように白い毛並みは、霧の中で淡く光を放ち、九つの尾は空気を裂くようにゆっくりと揺れていた。
赤い瞳が、闇を射抜く。
その視線を受けた瞬間、朔夜は息を忘れた。
美しい。
そう思った。
けれど、同時に恐ろしかった。
祈りの形をした災厄。
神域そのものが怒りを持って歩いている。
それほどの存在感が、白い狐にはあった。
「人間が」
低い声が響く。
怒鳴っているわけではない。
それなのに、森全体が震えた。
「なぜ、ここにいる」
朔夜は答えられなかった。
喉が固まっている。
目の前には、先ほどまで自分を喰おうとしていた黒い影がいる。背後には、逃げ道のない霧の森。何が起きているのかも分からないまま、さらに得体の知れない巨大な狐が現れた。
助かった。
そう思うべきなのかもしれない。
だが、朔夜には分かった。
この狐は、自分を助けに来たわけではない。
黒い影が、白い狐へ向かって腕を伸ばした。
墨のような指が、何本にも裂けて空を這う。壊れた言葉の音が、影の奥から滲み出した。
「……あ……り……が……」
その音が響いた瞬間、白い狐の瞳が細くなった。
怒りが、さらに深くなる。
九つの尾のうち一本が、静かに揺れた。
次の瞬間、森が白く染まった。
炎だった。
だが、ただの炎ではない。
熱よりも先に、清められるような鋭さがあった。白い火が霧を裂き、黒い影の腕を飲み込む。影は声にならない音を漏らし、身体を大きく歪ませた。
赤黒い墨が飛び散る。
石畳に落ちる前に、そのすべてが白い炎に焼かれて消えた。
朔夜は地面に膝をついたまま、その光景を見ていた。
圧倒的だった。
黒い影は、朔夜にはどうすることもできない怪物だった。石を投げても沈むだけ。逃げても追いつかれる。触れられただけで、声を奪われるような冷たさが身体に入り込んでくる。
その怪物が、白い狐の前では、ただ燃やされるだけの影だった。
黒い影が、身体を縮める。
逃げようとしたのかもしれない。
霧の奥へ溶け込もうと、輪郭を崩す。
だが、白い狐はそれを許さなかった。
「穢れた影が」
尾が二本、三本と揺れる。
空気に白い火の筋が走った。
鳥居が軋み、黒ずんだ注連縄が揺れる。破れた札が舞い上がり、墨のような霧が押し潰されていく。
白い炎が、黒い影を囲んだ。
逃げ場はなかった。
影の赤いひびが、苦しむように明滅する。
そして、一瞬だった。
白い火が収束し、黒い影の身体を内側から焼き抜いた。
音はほとんどなかった。
ただ、壊れた文字のような赤い光が砕け、霧の中へ散っていく。
あとには、黒い染みすら残らなかった。
森は静かになった。
朔夜は、ようやく息を吸った。
肺が痛い。
肩には、影に触れられた痛みが残っている。黒い冷たさはまだ皮膚の奥に染み込んでいたが、白い炎の光に照らされたせいか、少しずつ薄れていくようだった。
「……助かった、のか」
朔夜はかすれた声で呟いた。
その言葉に、白い狐の耳がぴくりと動いた。
赤い瞳が、朔夜へ向く。
その瞬間、朔夜の身体は凍りついた。
さっき黒い影へ向けられていた視線が、今度は自分へ向けられている。
そこに、安堵はなかった。
優しさもない。
あるのは、激しい怒り。
そして、その奥に沈む、深い悲しみだった。
白い狐は、ゆっくりと朔夜へ歩み寄った。
一歩。
地面が軋む。
二歩。
霧が退く。
三歩。
朔夜の前に、巨大な影が落ちた。
朔夜は後ずさろうとした。だが、身体が動かない。恐怖もある。傷の痛みもある。だがそれ以上に、白い狐の気配そのものが、朔夜の自由を奪っていた。
「誰が、お前を招いた」
白い狐が言った。
「ここは人間の踏み入る場所ではない」
「俺は……分からない。祠に、呼ばれた気がして……」
「呼ばれた?」
白い狐の声が低くなる。
怒りが、森の空気をさらに冷やした。
「人間はいつもそう言う。知らぬ、分からぬ、覚えていない。そう言って、踏み荒らす」
朔夜は何も言えなかった。
白い狐の言葉の意味は分からない。
けれど、その怒りが軽いものではないことだけは分かった。
長い時間をかけて積もった怒り。
消えない傷に触れられた時の怒り。
そして、怒りで覆わなければ崩れてしまうほどの悲しみ。
白い狐の赤い瞳は、朔夜を見ているようで、もっと遠いものを見ているようだった。
「人間」
白い狐が、朔夜のすぐ前で足を止めた。
「名は」
朔夜は息を整えようとした。
「……朔夜」
「朔夜」
白い狐は、その名を確かめるように繰り返した。
そして、わずかに牙を見せた。
「知らぬ名だ」
九つの尾が、静かに広がった。
その光景だけで、朔夜は理解した。
殺される。
白い狐は、自分を逃がすつもりなどない。
巨大な前脚が上がる。
爪は、刀のように鋭かった。
朔夜は動こうとした。
だが、身体は言うことを聞かなかった。
逃げても無駄だと、本能が知っていた。
「待ってくれ」
声が震える。
「俺は、本当に何も知らない。ここがどこなのかも、あの影が何なのかも、あんたが何者なのかも……」
「知らぬなら、なおさら死ね」
白い狐の声に、迷いはなかった。
「知らずに踏み入った罪が、消えるわけではない」
爪が迫る。
朔夜は地面に倒れ込むようにして、身を引いた。
だが、白い狐の動きはそれよりも速かった。
巨大な前脚が朔夜の胸を押さえつける。
「ぐっ……!」
重い。
息が詰まる。
石畳に背中が押しつけられ、骨が軋んだ。
白い狐の顔が近づく。
赤い瞳が、朔夜を見下ろしている。
その瞳の奥にある悲しみが、朔夜の胸を刺した。
なぜだ。
なぜ、この狐はこんなにも怒っている。
なぜ、こんなにも苦しそうなのか。
問いは浮かぶ。
だが、声にならない。
白い狐の爪が、朔夜の喉元へ近づいた。
冷たい刃のような気配が、皮膚に触れる。
少しでも動けば裂かれる。
朔夜は抵抗できなかった。
ただ、目の前の赤い瞳を見ることしかできない。
「……これ以上」
白い狐が低く呟いた。
その声は、怒りよりも痛みに近かった。
「これ以上、人間に踏み荒らされてたまるものか」
爪が、朔夜の喉へ沈みかけた。
その瞬間だった。
白い狐の動きが止まった。
赤い瞳が、わずかに見開かれる。
鼻先が、朔夜へ近づいた。
白い狐は息を吸った。
一度。
もう一度。
そして、九つの尾が一斉に揺れた。
「……なぜだ」
声が変わった。
怒りは消えていない。
だが、その奥に別の感情が混じった。
動揺。
信じられないものを見つけてしまったような、鋭い震え。
「お前……なぜ、その匂いを持っている」
朔夜は答えられない。
「匂い……?」
白い狐の爪は、まだ喉元にある。
ほんの少し動けば命が終わる距離。
けれど、白い狐はもう爪を進めなかった。
代わりに、朔夜の顔を覗き込む。
赤い瞳が、怒りと疑念に揺れていた。
「縁珠」
その名が、森に落ちた。
朔夜の胸が、強く痛んだ。
「っ……」
呼吸が止まる。
知らない名のはずだった。
聞いたことなどないはずだった。
それなのに、その響きは胸の奥深くに沈んでいた何かを、容赦なく揺らした。
白い光。
鈴の音。
誰かが自分の名を呼ぶ声。
手を伸ばしてくれた、誰かの気配。
朔夜は額に手を当てようとしたが、身体は押さえつけられて動かない。
「お前、縁珠を知っているのか」
白い狐が問う。
その声には、怒りだけではない。
祈るような響きが、一瞬だけ混じっていた。
だが、朔夜には答えられなかった。
「知らない……」
正直に言うしかなかった。
「その名を聞いたのは、初めてだ」
白い狐の瞳が、冷たく細まる。
「嘘をつくな」
「嘘じゃない」
「なら、なぜ痛がる」
朔夜は息を呑んだ。
胸がまだ痛い。
縁珠。
その名を聞くだけで、心臓の奥に爪を立てられるような痛みが走る。
けれど、何も思い出せない。
顔も、声も、姿も。
ただ、失ってはいけないものを失った感覚だけがある。
「分からない」
朔夜はかすれた声で言った。
「本当に、分からないんだ」
白い狐はしばらく朔夜を見下ろしていた。
爪は喉元から離れない。
殺意も消えていない。
だが、殺せない。
朔夜にも、それが分かった。
白い狐の中で、怒りと別の何かが激しくぶつかっている。
やがて、白い狐はゆっくりと爪を引いた。
朔夜の胸を押さえていた前脚も離れる。
朔夜は咳き込みながら身体を起こした。
空気が肺に入る。
それだけで、痛いほどありがたかった。
白い狐は背を向けた。
「立て」
朔夜は顔を上げる。
「どこへ……」
「黙って来い」
「俺を、どうするつもりだ」
白い狐は振り返らなかった。
九つの尾が、霧の中で白く揺れる。
「殺す理由はある」
その声は冷たかった。
「だが、今は殺せぬ理由ができた」
朔夜は言葉を失う。
白い狐は、森の奥へ歩き出した。
「逃げようと思うな。お前が一歩でも逆へ進めば、その時は迷わず喉を裂く」
朔夜は喉元に手を当てた。
まだ、爪の冷たさが残っている。
恐怖は消えない。
だが、それ以上に、胸の奥であの名が鳴り続けていた。
縁珠。
知らないはずの名。
なのに、忘れてはいけない気がする名。
朔夜は震える足で立ち上がった。
白い狐の背中を追う。
霧の森の奥へ。
狐の領地の、さらに深い場所へ。
白い九尾の狐は一度も振り返らなかった。
けれど、その尾の揺れには、怒りだけではない重さがあった。
悲しみを隠すように。
誰にも見せたくない傷を、白い炎で覆い隠すように。
朔夜は、その背中を見ながら歩いた。
自分が何を忘れているのか。
なぜ、縁珠という名に胸が痛むのか。
そして、この白い狐がなぜ、これほどまでに人間を憎んでいるのか。
何ひとつ分からないまま、朔夜は狐の領地の奥へ連れていかれた。
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