第36話 灯台守の小屋
黒い灯台は、海霧の奥で回り続けていた。
ごぉん。
ごぉん。
その音が鳴るたび、海が低く唸る。
まるで灯台そのものが、帰ろうとする船の心臓を掴んでいるようだった。
潮見坂の灯柱を戻したことで、偽の港灯は一つ消えた。
だが、海の霧はまだ濃い。
遠くには、いくつもの船影が見え隠れしている。
すべてが無事に港へ戻れるとは限らない。
夜半の満潮まで、残された時間は少なかった。
「灯台守の小屋は、この先です」
ノインが点検板を抱えながら言った。
声が少し上ずっている。
怖いのだろう。
無理もない。
王都の下層水路とも、黒森とも違う。
ここは海のそばだ。
視界は霧に奪われ、足元の石は潮で濡れ、遠くでは黒い灯台が船を岩礁へ誘っている。
それでも、ノインは足を止めなかった。
「記録では、灯台守の小屋は北方灯台の外縁灯路に接続しています。そこから下層の帰港灯路へ入れるはずです」
「正面入口は?」
セラが尋ねる。
「おそらく黒燭商会に押さえられています。灯台は円塔構造なので、上から下へ黒くされた場合、正面から入ると黒い光に飲まれる危険が高いです」
「なら、リーネさんの伝言通り、足元の潮灯を辿る」
「はい」
ミリアが潮見坂の灯柱で見つけた文字を思い返すように呟いた。
「黒い光は上を見るな。足元の潮灯を辿れ、か」
彼女は霧の奥にそびえる灯台を睨んだ。
「灯台って、普通は上を見るものなのにね」
「だから罠なんでしょう」
俺は答えた。
黒い灯台は、人の視線を上へ奪う。
大きな光。
遠くから見える光。
帰る場所に見える光。
でも、それが偽物なら。
見上げるほど、迷わされる。
「足元を見る」
セラが短く言った。
「今回も同じね」
王都でもそうだった。
黒聖灯を見上げるのではなく、足元の小さな灯りを見る。
今度は海沿いの潮灯だ。
白帆宿の帰り灯。
潮見坂の灯柱。
そして灯台守リーネが残した足元の道。
そこに、灯台を取り戻す鍵がある。
◇
灯台守の小屋は、岬へ続く崖道の手前に建っていた。
小さな石造りの家だ。
屋根は低く、壁は潮風で白く削れている。
窓には厚い潮硝子がはめられ、扉の上には小さな灯具が吊るされていた。
だが、その灯りは消えている。
小屋の周囲には黒い霧がまとわりつき、扉の前に黒蝋が薄く広がっていた。
それでも、小屋は完全には沈んでいなかった。
扉の下から、細い青白い光が漏れている。
「中に灯りが残っています」
俺が言うと、ポルカが肩の上で耳を立てた。
「ぽう」
同意らしい。
セラが周囲を警戒する。
「見張りはいない。でも、罠はある」
彼女の視線の先、扉の両脇に黒い小さな杭が刺さっていた。
黒燭の短い芯。
誰かが扉を開けようとすると、火がつく仕組みだろう。
「ミリア」
「見えてる」
ミリアは膝をつき、工具で黒い杭の根元を探る。
「雑だけど嫌な仕掛け。扉を開けた瞬間、内側の灯りを食うつもりだね」
「解除できますか」
「する」
ミリアは当然のように答えた。
潮風で髪が揺れ、獣耳がぴんと立っている。
怖がっていないわけではない。
それでも、灯具を前にした彼女の手は迷わなかった。
「ルカ、細い火。ポルカ、黒い煙が出たら押さえて」
「はい」
「ぽう」
俺はランタンの光を細く伸ばし、黒い杭の根元へ落とした。
ミリアが小さな銅線を差し込む。
黒蝋がじわりと動き、赤黒い火を出そうとした瞬間、ポルカの尻尾が白く光った。
黒い煙が押さえ込まれる。
ミリアが工具をひねった。
ぱきん。
一つ目の杭が割れる。
続いて二つ目。
扉の黒い罠が静かに消えた。
「よし」
ミリアが立ち上がる。
「扉、開けられるよ」
セラが前へ出て、ゆっくり扉を押した。
ぎい、と湿った音。
小屋の中から、冷たい潮風と、弱い灯りの匂いが流れてきた。
◇
小屋の中は、荒らされていた。
机は倒れ、棚の引き出しは開け放たれ、古い灯台図が床に散らばっている。
壁には海図。
潮の満ち引きを記した板。
灯台の点検表。
そして、灯具の部品。
生活の場所であり、仕事場でもあったのだろう。
その中央に、小さな青白い灯りがあった。
丸い潮硝子に包まれた、手のひらほどの灯具。
黒い霧に押されながらも、かすかにともっている。
「これが潮灯?」
ミリアが近づく。
ポルカが鼻を寄せた。
「ぽう……」
嫌がっていない。
むしろ、少し安心したような声だった。
俺は潮灯の前に膝をついた。
この灯りは、白帆宿の帰り灯や潮見坂の灯柱と同じ系統だ。
ただし、もっと個人的な灯り。
灯台守が足元を確認するための灯り。
嵐の日も、夜霧の日も、灯台の階段を上り下りするための小さな灯り。
「リーネさんの灯りでしょうか」
「たぶん」
ミリアは灯具を覗き込んだ。
「手入れがすごく丁寧。傷はあるけど、どれも使い込んだ傷。大事にされてたんだと思う」
ノインが床の点検表を拾い上げた。
「リーネ・アルマ。北方灯台守。灯台守歴七年。父親のアルマ前灯台守から引き継ぎ……」
彼は言葉を止めた。
点検表の端に、黒い煤で汚れた文字があった。
『上の光が黒くなった。
灯台長代理は黒燭商会を入れた。
正面灯路は汚染。
下層帰港灯路はまだ生きている。
潮灯を残す。
足元を辿って。
上を見るな。
灯室で待つ。
リーネ』
セラの表情が険しくなる。
「灯台長代理?」
女将の話では、リーネが灯台守として父親の跡を継いだはずだ。
だが灯台は大きな施設だ。
王都や沿岸都市から派遣された管理者がいてもおかしくない。
ノインが記録をめくる。
「北方灯台は海務灯局と王都聖灯局の共同管轄です。灯台守は現地職、灯台長代理は王都からの派遣役人。名前は……サルヴァ・グリム」
「その人が黒燭商会を入れた」
ミリアが低く言った。
「また上の人間が勝手に灯りを黒くしてるわけね」
「その可能性が高いです」
俺は潮灯へ手をかざした。
弱っているが、芯は生きている。
リーネは黒い灯台の中で、ここまで道を残した。
灯台守として、最後まで足元の灯りを守ろうとしている。
なら、こちらも応えなければならない。
「この潮灯を起こせば、下層帰港灯路へつながりますか」
ノインが地図を確認する。
「はい。小屋の床下に接続口があるはずです。そこから灯台下層へ」
「ミリア」
「床下、見る」
ミリアはすぐに床板を叩いて場所を探した。
数回音を確かめ、錆びた金具を外す。
床板の下に、青白い灯路紋が現れた。
黒い煤に覆われているが、完全には死んでいない。
「いた」
ミリアが少し笑った。
「この子、生きてる」
俺は潮灯と床下灯路紋の間にランタンを置いた。
外では、黒い灯台の音が続いている。
ごぉん。
ごぉん。
小屋の窓が震える。
壁の海図が揺れる。
黒い霧が窓の隙間から入ろうとし、潮硝子に弾かれている。
時間はない。
「行きます」
俺は潮灯へ光を入れた。
「【小さな灯】」
金色の火が、青白い潮灯に触れる。
すぐに黒い煤が浮かんだ。
黒燭の汚れ。
海霧の不安。
帰れなかった船の記憶。
それらが潮灯の表面へにじみ出る。
ポルカが白い月明かりで押さえる。
ミリアが芯受けを調整する。
ノインが点検灯で床下灯路紋を照らす。
セラが扉の前で黒い霧を警戒する。
潮灯の光が少しずつ強くなる。
青白い。
でも冷たくない。
海の夜に馴染む、静かな灯り。
それが床下の灯路紋へ流れ込んだ。
小屋全体が、かすかに震える。
床の下から、遠くへ向かって光が走った。
灯台へ。
下層帰港灯路へ。
すると、床下から小さな音が聞こえた。
かちり。
古い錠が外れる音。
ミリアが床板をさらに開くと、狭い石階段が現れた。
潮の匂いと、灯油の匂い。
そして黒い蝋の匂い。
「灯台下層への通路」
ノインが息を呑む。
「記録にある副灯路です。本当に残っていた……」
リーネの潮灯は、灯台への入口を守っていたのだ。
◇
階段を降りる前に、小屋の中を調べた。
灯台の構造図。
潮位表。
灯室の鍵。
いくつかの補修部品。
そして、リーネの日誌。
表紙は潮で波打っている。
だが、中は読めた。
ミリアが慎重にページをめくる。
『三日前。
灯台上層の光に黒い筋。灯台長代理サルヴァに報告。
黒燭商会の技師が来ると言われる。嫌な予感。』
『二日前。
黒燭商会の灯術師ヴァルハイン来訪。
上層導灯の“改良”を提案。
黒燭を灯台芯へ近づけようとしたため拒否。
サルヴァは王都聖灯局公認だと主張。』
『昨日。
灯台上層、黒化。
海霧が黒くなり始める。
船が一隻、針路を誤りかけた。
下層帰港灯路はまだ生きている。
潮灯と潮見坂へ伝言を残す。
最上層の灯室に向かう。
導灯の本芯が完全に黒くなる前に止める。
もし私が戻らなければ、足元の潮灯を辿って。』
最後の行は、急いで書かれていた。
『灯台は、上から見るものじゃない。
帰る人の足元から支えるもの。』
誰もすぐには口を開かなかった。
灯台守リーネ。
会ったことはない。
だが、この日誌だけで分かる。
彼女は灯りを見ていた。
黒い大きな光に従うのではなく、下層の帰港灯路を守ろうとしていた。
ミリアが日誌をそっと閉じた。
「絶対助ける」
「はい」
俺も頷いた。
セラは灯室の鍵を手に取る。
「この鍵が使えるなら、最上層に入れるかもしれない」
「ただし、黒い灯台の中心です」
ノインが言う。
「上に行くほど黒燭の影響は強くなります」
「だから下から灯りを戻しながら行く」
ミリアが言った。
「白帆宿、潮見坂、潮灯。ここまでつながった。次は灯台下層」
ポルカが力強く鳴く。
「ぽう!」
俺はリーネの潮灯に小さな火を足した。
この小屋も、戻る場所にしなければならない。
もし灯台で何かが起きた時、ここへ戻れるように。
もし船乗りや灯台守が逃げてきた時、迎えられるように。
白帆宿ほど大きな場所ではない。
だが、灯台へ向かう人にとっては大切な足場だ。
「この潮灯を残します」
俺は言った。
「帰り道として」
セラが頷く。
「小屋は後続の避難場所にもなるわね」
ノインが点検板に記録する。
「灯台守小屋、潮灯復旧。下層帰港灯路への副灯路確認。黒霧防御、弱いが有効」
「弱いけど有効、か」
ミリアが笑う。
「うちららしいね」
「はい」
弱い灯りでも、役目がある。
小さいからこそ、残せる道がある。
◇
石階段は、灯台へ向かって地下を伸びていた。
狭く、湿っていて、天井は低い。
壁には青白い潮灯が等間隔に並んでいる。
ほとんどは消えかけていたが、潮灯を起こしたことで、かすかに反応していた。
俺たちは一つずつ火を入れながら進んだ。
「【小さな灯】」
ぽっ。
一つ目。
「【小さな灯】」
二つ目。
青白い光が、足元を照らしていく。
上からは黒い灯台の音。
下では潮灯の静かな光。
まるで、黒い大きな鼓動に対して、小さな灯りの脈が抵抗しているようだった。
ミリアが壁の灯具を見ながら感心する。
「海沿いの小灯、ほんとしぶとい。黒くされても芯が粘る」
「リーネさんが手入れしていたんでしょう」
「うん。いい仕事してる」
職人の口から出るその言葉は、何よりの評価だ。
しばらく進むと、通路の先に鉄扉が現れた。
扉には灯台の紋章。
波と灯り。
そして、その上から黒蝋がべったり塗られている。
扉の向こうから、低い機械音が聞こえた。
灯台内部の回転装置だろう。
ノインが息を呑む。
「ここを抜ければ、灯台下層です」
セラが扉の前に立つ。
「罠は?」
ポルカが鼻を近づけ、すぐに毛を逆立てた。
「ぽうっ!」
「ありますね」
俺も感じた。
黒蝋の奥に、何かがいる。
火ではない。
影でもない。
黒い灯台の番人のようなもの。
ミリアが工具を構えた。
「開ける?」
「開けます」
俺はランタンを掲げる。
その時、扉の向こうから声が聞こえた。
低く、湿った声。
「足元の灯りを辿ってきたか」
ヴァルハインではない。
もっと荒く、海風に削られたような声。
「灯台守の小娘も、余計な道を残したものだ」
ノインが顔を強張らせる。
「サルヴァ……灯台長代理?」
扉の向こうの声が笑った。
「王都の犬まで来ているのか。ちょうどいい。新しい灯台の完成を見届けろ」
黒蝋が扉の表面を這い、内側から赤黒く光る。
「北方灯台は、今夜から黒潮灯台となる。海に帰る船はすべて、我らの黒い港へ導かれる」
セラが短剣を抜いた。
ミリアが灯路針を構える。
ポルカが肩の上で低く唸る。
俺はランタンを握りしめた。
下層帰港灯路は、まだ生きている。
リーネが残した道も、潮灯も、ここまでつながっている。
「開けます」
俺が言うと、青白い潮灯たちが静かに揺れた。
鉄扉の向こうで、黒い灯台がまた鳴った。
ごぉん。
いよいよ、灯台の中へ入る時が来た。
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