第30話 黒聖灯の芯の中で
黒い糸が、ランタンに絡みついた。
結灯環が悲鳴のように軋む。
下層灯火網から届いていた小さな灯りたちが、一本の線となって黒聖灯へ引きずられていく。
橋灯。
祈り灯。
店灯。
宿灯。
屋台の火皿。
ノクスヴェイルの灯り。
巡灯路の祠灯。
全部が、黒い芯に吸い込まれそうになっていた。
「ルカ!」
セラの声が聞こえる。
手が伸びてくる。
けれど、黒い糸は俺の足元を縛り、体を裁き台の方へ引き寄せた。
ミリアが黒蝋を断とうと工具を振るう。
「切れない……! これ、灯りそのものに絡んでる!」
「ぽうっ!」
ポルカが白い月明かりで糸を押さえる。
だが、黒聖灯の芯は近すぎた。
王都全体を覆う黒い大灯の圧が、広場のすべてを押し潰そうとしている。
グレゴール・バルザックが、裁き台の上で笑った。
「そうだ、ルカ。抵抗するな」
その声は、黒聖灯の鼓動と重なっていた。
「お前の小さな灯は、大聖灯を乱す邪魔な火ではなかった。最初から、黒聖灯を完成させるために必要な最後の芯だったのだ」
「俺の灯りを……?」
「小さな灯りを、小さなまま結ぶ力。厄介だった。だから追放した。辺境で朽ちればそれでよし。もし生き延びて育つなら、回収すればよし」
背筋が凍った。
追放さえ、ただの処分ではなかった。
俺を消すため。
あるいは、使える形に育つまで放置するため。
あの日、大聖灯の黒い染みを報告した時から、グレゴールは俺の灯りを見ていたのだ。
無能と呼びながら。
危険だと知っていた。
「ふざけるな!」
ミリアが叫んだ。
「ルカは道具じゃない!」
「灯火師は灯りを扱う者だ。ならば、より大きな灯りのために使われるのは当然だろう」
「違う!」
セラが黒い糸へ短剣を叩きつける。
火花が散る。
だが、糸は切れない。
「人も灯りも、あなたの所有物じゃない!」
グレゴールは冷たく見下ろした。
「辺境の村長代理ごときが、王都の灯火行政を語るな」
黒聖灯が脈打つ。
俺のランタンが、さらに強く引かれた。
足元が浮く。
黒い芯の中から、冷たい声がいくつも聞こえた。
諦めろ。
大きな灯りに従え。
小さな灯りなど無駄だ。
誰もお前を信じない。
王都は、お前を追放した。
広場の景色が歪む。
人々の顔が黒い影になる。
俺はランタンを握りしめた。
消してはいけない。
この灯りだけは。
でも、力が足りない。
黒聖灯は、あまりにも大きい。
俺一人では、飲み込まれる。
その時。
広場の南側で、声が上がった。
「ルカさん!」
ユーベルだった。
靴直し屋の吊り灯を掲げている。
「うちの店の灯りを持っていけ!」
続いて、マーサ婆さんが祈り灯の小灯を掲げた。
「待つ者の灯りを、持っていきな!」
屋台の女性が火皿を掲げる。
「娘の帰る場所を!」
ティナさんが店灯の反射板を持ち上げる。
「職人の灯りを!」
バスクさんが携帯小灯を配りながら叫ぶ。
「橋下の修理灯もあるぞ!」
一つ。
また一つ。
広場の人々が、小さな灯りを掲げ始めた。
下層の人々だけではない。
貴族街から来たらしい婦人が、胸元の小さな守り灯を恐る恐る出した。
荷運びの男が腰の手灯を掲げた。
屋台の少年が、小さな火皿を両手で持ち上げた。
黒聖灯を見上げていた人々が、自分の手元を見る。
誰かにもらった灯り。
家に置いてきた灯り。
店を開ける灯り。
帰り道を照らす灯り。
祈るための灯り。
待つための灯り。
眠るための灯り。
その小さな光が、黒い広場に点々とともる。
ミリアが叫んだ。
「ルカ! 聞こえる!? あんた一人の灯りじゃない!」
セラが黒い糸を押さえながら続ける。
「背負わないで! 結びなさい!」
ポルカが肩に飛びつこうとして、黒い糸に弾かれた。
それでも、白い尻尾の光を精一杯広げる。
「ぽううっ!」
俺は息を吸った。
そうだ。
俺一人の灯りではない。
黒聖灯が俺を引き込むなら、そこへ持っていく。
ただし、黒に食わせるためではない。
中で、結ぶために。
「皆さんの灯りを、少しだけ借ります」
声が届いたかは分からない。
でも、広場の小さな灯りたちが応えるように揺れた。
俺はランタンを胸に抱えた。
黒い糸が俺を飲み込む。
セラの叫び。
ミリアの声。
ポルカの鳴き声。
広場のざわめき。
すべてが遠ざかる。
そして俺は、黒聖灯の芯の中へ落ちた。
◇
そこは、夜ではなかった。
昼でもなかった。
黒い水の中に沈んでいるような場所だった。
上も下もない。
音も遠い。
ただ、黒い光だけが満ちている。
黒い光。
矛盾した言葉だが、そうとしか言いようがなかった。
明るいのに、何も見えない。
照らしているのに、何も温めない。
その中で、無数の小さな灯りが浮かんでいた。
いや。
灯りの残骸だった。
半分消えた店灯。
ひび割れた祈り火。
黒く濁った手灯。
眠りを忘れた安眠灯。
誰かの家の窓灯。
どれも黒い膜に包まれ、弱々しく揺れている。
黒聖灯に食われた灯りたちだ。
「こんなに……」
王都中の小さな灯りが、ここへ集められている。
消されたのではない。
食われ、閉じ込められ、黒聖灯の芯を支える材料にされている。
胸の奥が痛んだ。
その時、黒い水面のような空間に、グレゴールの声が響いた。
『見るがいい。これが灯りの正しい姿だ』
彼の姿は見えない。
だが、声だけが四方から降ってくる。
『個々の灯りは弱い。迷う。揺らぐ。消える。ならば一つの大きな芯へ統合した方がよい』
「統合ではありません」
俺はランタンを掲げた。
「これは閉じ込めているだけです」
『民は安定を求める。不安な時代に必要なのは、疑わず従える大きな灯りだ』
「違います」
『違わぬ。お前も知っているはずだ。小さな灯りは評価されない。誰も見ない。誰も感謝しない。お前はその小さな灯りを守り続け、何を得た?』
黒い空間に、過去の声が響く。
無能。
灯りをつけるだけ。
大聖灯に触れられない雑用係。
追放だ。
王都から出ていけ。
あの日の広場。
冷たい視線。
オルドの嘲笑。
グレゴールの断罪。
胸が締めつけられる。
たしかに、苦しかった。
誰にも見てもらえないと思っていた。
俺の仕事には意味がないのだと思った。
小さな灯りを守っても、何も変わらないと思いかけた。
でも。
黒い水の奥で、一つの灯りが揺れた。
南下層橋灯三号。
その光に、荷運びの男の足音が重なる。
洗濯場へ向かう女の影。
橋を渡る子どもの手。
次に、祈り灯七番が揺れた。
マーサ婆さんの花。
エイダンさんの声。
待つ者の灯り。
さらに、あかり宿の食堂灯が遠くでともる。
ロッテさんのスープ。
ニナの安眠灯。
リオのランプ。
ミリアの工房芯灯。
セラが守った北門灯。
ガルム爺の月送りの灯。
全部、意味があった。
誰かが覚えていた。
誰かの夜を少しだけ軽くしていた。
「俺が得たものは、あります」
『何だ』
「帰る場所です」
黒い空間が、わずかに震えた。
俺はランタンを掲げる。
「小さな灯りは、評価されるためにともるわけではありません。誰かの足元を照らすためにともるんです」
黒い膜に包まれた灯りたちが、わずかに反応した。
「見上げられなくてもいい。称えられなくてもいい。大きな灯りになれなくてもいい」
俺のランタンの金色が、少しずつ広がる。
「その人が帰れるなら、それでいい」
最初に、橋灯の黒い膜が割れた。
ぱきん。
小さな音。
次に、祈り灯。
店灯。
手灯。
宿灯。
閉じ込められた灯りたちが、一つずつ目を覚ます。
大きな炎にはならない。
それぞれが、それぞれの形でともる。
黒い水の中に、小さな金色の点が増えていく。
グレゴールの声が鋭くなる。
『やめろ』
俺は止めない。
ランタンの光を細く伸ばす。
灯り同士を結ぶ。
小さな灯りを、小さなまま。
「【小さな灯】」
黒聖灯の芯の内部に、灯火網が生まれた。
黒い空間が軋む。
閉じ込められていた灯りたちが、互いに支え合い始める。
黒い膜が剥がれ落ち、奥に隠れていた金色の大きな光が見えた。
大聖灯本来の芯だ。
まだ生きている。
黒い芯に押し込められ、ほとんど息をしていない。
それでも、消えていない。
俺はその光へ近づいた。
「あなたも、帰りたいんですね」
返事はなかった。
だが、金色の芯がかすかに揺れた。
大聖灯もまた、黒聖灯に閉じ込められた灯りだった。
王都を見下ろす偉大な光ではなく、かつて小さな灯りを受け取っていた灯り。
祈り火を、店灯を、橋灯を、宿灯を受け取って、王都へ返していた灯り。
それを、グレゴールと黒燭商会が黒い芯で塗り潰した。
「戻しましょう」
俺は金色の芯へランタンを近づけた。
その瞬間、黒い水の奥から別の声がした。
『戻す必要などない』
グレゴールではない。
ヴァルハインでもない。
もっと古く、もっと深い声。
黒い空間の底から、巨大な影が浮かび上がる。
それは人の形をしていなかった。
黒い蝋燭を束ねたような塊。
無数の火口。
その一つ一つが、誰かの灯りを食った跡のように赤黒く燃えている。
『人は夜を恐れる。恐れるなら、我らに従う。黒い灯りを救いと呼ぶ』
「あなたが、黒燭の本体ですか」
『名など不要。夜に灯りを求める心がある限り、我らは生まれる』
黒い塊が笑ったように揺れた。
『小さな灯の子。お前は危うい。人に、自分の灯りで立てると思わせる』
「それの何が悪いんですか」
『人は弱い。自分で灯りを守るより、大きな火に従う方が楽だ』
「楽でも、奪われるなら救いではありません」
黒い塊が赤黒い火を伸ばす。
閉じ込められていた灯りたちを、もう一度飲み込もうとする。
俺はランタンを掲げた。
だが、ここは黒聖灯の芯の中。
相手の領域だ。
黒い火が、金色の灯火網を押し潰そうとする。
その時、外から声が届いた。
「ルカ!」
セラの声。
「聞こえる!? 広場の灯り、持っていかれそうになってる!」
次にミリア。
「こっちは受け皿を開けた! 中から押せるなら今!」
ポルカの声。
「ぽうううっ!」
広場の小さな灯りたちが、外側から押してくれている。
俺は一人ではない。
内側から、閉じ込められた灯り。
外側から、広場の人々の灯り。
その二つを結べば。
「皆さん、もう少しだけ」
俺は金色の大聖灯芯へ手を伸ばした。
「一緒に、外へ」
ランタンの光が金色の芯に触れる。
その瞬間、黒聖灯の内側と外側がつながった。
◇
広場に、光があふれた。
黒聖灯の黒い芯に、金色の亀裂が走る。
裁き台の上で、グレゴールが初めて明確に動揺した。
「なぜだ……黒聖灯の内部で、灯火網を……!」
ヴァルハインも黒蝋燭を握りしめる。
「馬鹿な。芯の中は黒燭の領域だぞ」
ミリアが受け皿に灯路針を突き立てたまま叫んだ。
「残念! 灯具は中からも直せるんだよ!」
セラは捕らわれていた職人たちを解放しながら、広場の人々へ叫ぶ。
「灯りを下げないで! 足元を見て! 自分の灯りを見て!」
人々が小さな灯りを掲げ続ける。
黒聖灯の黒い昼が、揺らいだ。
空の黒い膜が裂ける。
本物の青空が、細く覗いた。
そして黒聖灯の中から、俺の声が広場へ響いた。
「大聖灯は、まだ生きています!」
人々が一斉に黒聖灯を見上げる。
黒い芯の中に、金色の光が見えた。
押し込められていた、本来の大聖灯の光。
グレゴールが叫ぶ。
「見るな! 黒聖灯こそ王都の守りだ!」
だが、もう遅かった。
人々は見てしまった。
黒い灯りの奥に、本当の光が閉じ込められているのを。
黒聖灯が救いではなく、檻であることを。
広場にざわめきが広がる。
「大聖灯が……」
「閉じ込められていたのか?」
「局長は、何をしたんだ」
疑いが生まれた。
黒燭が最も嫌うもの。
大きな灯りを疑い、自分の灯りを見る心。
黒聖灯の黒い芯が激しく暴れた。
俺はまだその中にいる。
黒い塊が、こちらを飲み込もうとしている。
だが、もう一方で金色の大聖灯芯が目覚め始めていた。
『小さな灯の子』
かすかな声がした。
月守狐の声ではない。
大聖灯の声だ。
『長く、忘れていた』
「何をですか」
『我は、受け取る灯りだった。上から照らすだけの灯りではなかった』
金色の芯が、少しずつ強くなる。
『王都の小さな灯りを、もう一度』
「はい」
俺はランタンを掲げた。
「一緒に受け取りましょう」
黒い塊が咆哮した。
『させぬ』
赤黒い火が迫る。
その火の向こうで、グレゴールの声が重なる。
「黒聖灯を完全起動せよ! 全旧式灯路を焼き切れ!」
ヴァルハインが黒蝋燭を掲げる。
「了解した。王都全域、黒燭化へ移行する」
広場の街灯が一斉に黒く燃え上がる。
下層の灯りも、祈り火室も、橋灯も、全部が揺れた。
黒聖灯は、最後の力で王都中の小さな灯りを焼き切ろうとしている。
俺は金色の芯の前に立った。
外では、セラとミリアとポルカと、王都の人々が灯りを支えている。
内では、閉じ込められていた灯りたちが震えながらも立ち上がっている。
ここが分岐点だ。
黒聖灯が王都の灯りをすべて飲み込むか。
小さな灯火網が、大聖灯を取り戻すか。
俺はランタンを両手で握りしめた。
「終わらせます」
黒い芯の奥で、金色の光が応えた。
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