第11話 黒い蝋燭の商人
黒い札は、宿の灯りの下でも冷たかった。
薄い木札のように見える。
だが、触れた瞬間に分かった。
これは木ではない。
蝋だ。
黒く固められた蝋に、蝋燭の紋章が刻まれている。
その表面から、じわじわと夜霧に似た冷気が滲んでいた。
「ルカ」
セラが短剣に手をかけたまま、低く呼ぶ。
「それ、危ないもの?」
「おそらく」
俺は黒い札を直接触らないよう、布の上に置いた。
食堂灯の光が、札の周囲だけわずかに暗くなる。
まるで、灯りを吸っているようだった。
助けを求めて宿へ転がり込んできた商人は、椅子に座らされ、ロッテさんから毛布をかけられていた。
顔色はまだ悪い。
だが温かいスープを一口飲むと、ようやく震えが少し収まった。
「ありがとうございます……本当に、もう駄目かと」
「落ち着いて。名前は?」
セラが尋ねる。
「ドルトンです。王都から薬草と布を仕入れに……いや、本当はこの村へ来る予定ではなかったんです。黒森の手前で馬車が故障して、それで……」
ドルトンと名乗った商人は、黒い札を見て喉を鳴らした。
「その札を渡されました」
「誰に?」
「黒い外套の男です。顔はよく見えませんでした。手に黒い蝋燭を持っていました。火はついていないのに、周りだけ妙に暗くて」
北門で見た男と同じだ。
あの声。
あの黒い蝋燭。
そして、灯りを嫌う気配。
ポルカは俺の足元で丸くなり、尻尾の光を小さくしていた。
普段ならニナの足元を逃げ回ったり、パンの匂いに反応したりするのに、今は黒い札から目を離さない。
「ぽう……」
低く、警戒する鳴き声だった。
「その男は、何と言っていましたか」
俺が聞くと、ドルトンは震える手で椀を握りしめた。
「この村には、追放された灯火師がいる。そいつの灯りは邪魔だが、長くは持たない。村へ入ったら、この札を見せろと」
「誰に?」
「分かりません。ただ……」
ドルトンは言い淀んだ。
「ただ?」
セラが促す。
「黒燭商会の者が、明日には村へ入ると言っていました」
宿の中が静まり返った。
黒燭商会。
その名前は、初めて聞いたはずだった。
だが、俺の中でいくつものものがつながる。
門柱にこびりついていた黒い蝋。
地下保管庫の手帳に残っていた煤のような染み。
黒燭狼の額にあった蝋燭の角。
北門に現れた黒い外套の男。
そして今、あかり宿に持ち込まれた黒い札。
この村の灯りを消したものは、夜霧だけではない。
誰かが、意図的に灯路を汚している。
「黒燭商会……聞いたことはあるわ」
ロッテさんがぽつりと言った。
スープの鍋を持つ手が、少しだけ強張っている。
「昔、夫が生きていた頃に一度だけ、村へ来たことがあるの。呪い除けの蝋燭を売っていたわ。高すぎて、うちでは買わなかったけれど」
「どんな蝋燭でしたか?」
「黒い蝋燭。火をつけると夜霧が薄くなると言っていた。でも夫は嫌がった」
「なぜですか」
「宿の灯りが、あれを嫌っている気がするって」
ロッテさんは苦笑した。
「あの人も、あなたみたいな変なことを言う人だったの」
「それは……きっと正しかったと思います」
俺は黒い札を見た。
食堂灯の下に置いているだけで、蝋の表面から黒い汗のようなものが滲んでいる。
これは呪い除けではない。
少なくとも、灯火師の感覚ではそう見えた。
呪いを祓うものではなく、呪いを一時的に吸い寄せて、別の場所へ流すためのもの。
あるいは、もっと悪い。
灯りのふりをした、闇の芯。
「セラさん。この札、村の中へ入れたままにしない方がいい」
「燃やす?」
「普通に燃やすのは危険です。黒い煙が出るかもしれません」
「なら、どうする?」
「灯りで囲みます。宿の食堂灯なら、今のところ押さえられます」
ミリアがすぐに立ち上がった。
「小型の隔離灯、作る。黒い札を直接床に置いたままは嫌」
「お願いします」
「任せて」
ミリアは食堂の隅に置いていた道具袋を開け、小さな金具と硝子片を取り出した。
ここはもう、ただの宿ではない。
緊急時には工房にもなる。
そんな動きの速さだった。
セラはドルトンへ向き直る。
「あなたの馬車は?」
「村の少し手前に置いてきました。馬は逃げました。荷は……いくらか残っていますが、影狼が近くに」
「夜のうちは無理ね。朝になったら回収隊を出すわ」
「助かります」
「ただし、その前に確認する。あなたは黒燭商会の仲間?」
セラの声が鋭くなる。
ドルトンは慌てて首を振った。
「違います! 私はただの行商です! 王都で商いをしているだけで、黒燭商会なんて大きなところとは関係ありません!」
「証明できる?」
「荷に帳簿があります。仕入れ先も、王都南通りの商会印も……」
セラはしばらくドルトンを見ていた。
やがて、少しだけ肩の力を抜く。
「分かった。今夜は客として扱う。ただし、明日の朝までは宿から出ないで」
「もちろんです。外になんて出たくありません」
ドルトンは心底怯えた顔で頷いた。
その様子に嘘はなさそうだった。
少なくとも、黒燭商会の手先として送り込まれたようには見えない。
だが、利用されている可能性はある。
敵は、俺たちに黒い札を見せるために、この商人を村へ誘導したのかもしれない。
「ルカ」
ミリアが俺を呼んだ。
「できた」
彼女が作ったのは、小さな硝子の箱のような灯具だった。
四隅に細い金具。
底に薄い魔石片。
上部に小さな通気口。
黒い札を中へ入れ、外から灯りで封じるための即席隔離灯だ。
「さすがに急造だから長持ちはしない。でも、食堂灯とつなげば朝までは持つと思う」
「十分です」
俺は黒い札を布ごと持ち上げ、隔離灯の中へ入れた。
蓋を閉める。
その瞬間、札の表面が黒く波打った。
宿の灯りが一瞬だけ暗くなる。
ポルカが「ぽうっ!」と鳴き、尻尾を膨らませた。
「大丈夫」
俺はポルカを安心させるように声をかける。
そして隔離灯に手をかざした。
この灯りは、閉じ込めるための灯り。
ただし、憎しみで囲むのではない。
悪いものが外へ漏れないように。
宿の中で休む人たちの眠りを守るために。
食卓を囲む人々の温かさを、黒い札に奪わせないために。
「【小さな灯】」
金色の光が隔離灯を包んだ。
黒い札が、硝子の中でかすかに震える。
札からにじみ出ていた冷気が、少しずつ抑え込まれていく。
食堂灯の光も元に戻った。
ロッテさんがほっと息を吐く。
「宿の灯りが消えなくてよかった」
「消させません」
思ったより強い声が出た。
自分でも少し驚いた。
でも本心だった。
この宿の灯りは、ようやく戻ったばかりだ。
ロッテさんの夫の思い出。
村人たちの食卓。
逃げ込んできた商人の命。
それを照らす灯りを、黒い札一枚に奪わせるわけにはいかない。
◇
その夜、宿には初めての客が泊まった。
行商人ドルトン。
事情は最悪に近かったが、それでも客は客だ。
ロッテさんは彼に温かいスープを出し、毛布を渡し、二階の使える部屋へ案内した。
ドルトンは何度も頭を下げた。
「本当に、宿代は必ず払います。荷を回収できれば」
「今は命が先よ」
ロッテさんはそう言って、少しだけ笑った。
「久しぶりのお客さんだもの。ちゃんと朝まで眠ってもらわないと、宿の名折れだわ」
その声は震えていなかった。
宿屋の女将としての声だった。
俺は一階の食堂で、隔離灯を見張ることになった。
セラは宿の入口近く。
ミリアは食堂灯の下で、補助灯の図面を直している。
ポルカは俺の膝の上に丸くなっていた。
どうやら本気で休むつもりらしい。
「ポルカ、寝るならニナのところでも」
「ぽう」
嫌そうに尻尾で俺の腕を叩かれた。
ミリアがにやにやする。
「完全に定位置になってるね」
「重くはないですが、少し動きにくいです」
「贅沢な悩み。月灯狐の膝乗りだよ? 王都の貴族なら金貨積むよ」
「そういうものですか」
「たぶん。知らないけど」
ミリアは図面へ視線を戻した。
彼女の手元には、北門守護灯の改良案が描かれている。
左右の門灯。
補助灯。
ポルカの月光を受ける小さな反射板。
広場灯柱との接続。
応急品だった昨日の灯りを、正式な守護灯へ変えようとしているのだ。
「眠らなくて大丈夫ですか」
俺が聞くと、ミリアは欠伸を噛み殺した。
「大丈夫じゃない。でも、頭の中に形があるうちに描かないと消える」
「職人ですね」
「灯火師も似たようなものじゃないの? 灯りの流れ、見えた時に書いとかないと忘れるでしょ」
「確かに」
「じゃあ同類」
「そうですね」
ミリアは少しだけ嬉しそうに笑った。
セラは入口のそばで、黒い札の話を考えているようだった。
手元の村地図には、新しく「黒燭商会」と書き込まれている。
「セラさん」
「何?」
「黒燭商会は、明日来ると言っていました」
「ええ」
「村に入れますか?」
「入れないわけにはいかない。商人として来るなら、追い返す理由がいる。でも、自由に歩かせるつもりもない」
セラは地図の広場に印をつけた。
「広場で対応する。北門、宿、井戸、工房の灯りを確認した上で、村人を不用意に近づけない。あなたとミリアには、黒燭の蝋燭を見てほしい」
「分かりました」
「あと、ルカ」
「はい」
「もし相手が王都聖灯局の名前を出してきたら、どうする?」
俺は少し黙った。
王都聖灯局。
昨日まで、そこは俺が所属していた場所だった。
いや、正確には追放された場所だ。
無能と呼ばれ、冤罪を着せられ、二度と王都の灯りに触れるなと言われた場所。
もし黒燭商会が聖灯局とつながっているなら。
この村を苦しめてきたものと、俺を追放した場所がつながることになる。
「確認します」
俺は答えた。
「王都聖灯局の名が出ても、それだけでは信用しません。俺は、灯りを見ます」
「灯りを?」
「本当に人を守る灯りか。それとも、人の不安を食う灯りか」
隔離灯の中で、黒い札が微かに震えた。
まるで、こちらの言葉を聞いているように。
「それなら見分けられると思います」
セラはしばらく俺を見ていた。
そして、小さく頷く。
「頼りにしてる」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなる。
王都では、一度も言われなかった言葉。
でも、この村では少しずつ増えている。
必要だ。
頼りにしている。
助かった。
ありがとう。
その一つ一つが、俺の中に灯りをともしていく。
◇
夜明け前、二階から悲鳴が聞こえた。
「うわあああっ!」
俺は反射的に立ち上がった。
膝の上のポルカが転がりかけ、慌てて尻尾で俺の袖にしがみつく。
「ぽうっ!?」
「すまん」
セラはすでに階段へ走っていた。
ミリアも工具を掴んで後を追う。
二階の客室。
ドルトンが泊まっている部屋の扉が内側から激しく叩かれている。
「開けてくれ! 開けてくれ!」
セラが扉を開ける。
ドルトンは床に倒れ込み、全身汗だくだった。
顔色は真っ青。
目は恐怖に見開かれている。
「黒い狼が……いや、違う、蝋燭が……部屋中に……!」
部屋の中を見る。
客室灯はともっている。
俺が昨日、食堂灯から光を分けておいたものだ。
だが、その光の端に黒い影が絡みついていた。
窓は閉まっている。
扉も閉まっていた。
なのに、部屋の隅に黒い蝋のような滴が落ちている。
ミリアが息を呑む。
「札を隔離したのに、二階まで?」
「札じゃない」
俺は部屋の中へ入り、ドルトンの荷袋を見た。
昨夜、宿へ入る時に背負っていた荷袋。
そこから、かすかな冷気が漏れている。
「ドルトンさん。この中に、黒燭商会から何か渡されませんでしたか」
「札だけだ! 本当に札だけ……いや」
ドルトンは青ざめた顔で、荷袋を指さした。
「馬車が壊れた時、荷をまとめるのを手伝うと言われた。もしかして、その時に……」
俺は布を使い、荷袋を開けた。
中には布束、薬草袋、小さな箱。
その奥。
荷物の底に、黒い蝋燭が一本入っていた。
火はついていない。
だが、蝋燭の芯が赤黒く濡れている。
客室の灯りが、また暗く揺れた。
ポルカが俺の肩で毛を逆立てる。
「ぽう……!」
ミリアが低い声で言った。
「最悪。札は囮で、本命はこっちだったんだ」
黒い蝋燭。
宿の中に持ち込まれた、闇の芯。
俺はそれを見つめた。
この宿は、昨夜ようやく灯りを取り戻したばかりだ。
最初の客を迎えたばかりだ。
その最初の夜に、黒燭商会は呪いを忍ばせてきた。
胸の奥に、静かな怒りがともる。
「セラさん。ミリア」
「ええ」
「うん」
俺はランタンを掲げた。
「この宿の灯りを、黒燭に汚させません」
黒い蝋燭の芯が、誰も火をつけていないのに、ゆっくりと赤く燃え始めた。
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