第9話 北門の守護灯

 黒森の奥で、巨大な影が動いた。


 赤い目。


 それも、影狼たちのように地面近くで光るものではない。


 もっと高い。


 北門の向こう、黒い木々の間。


 人間の背丈を軽く越える位置に、その目はあった。


 見張りの男が、門の上で息を呑む。


「なんだ、あれ……」


 誰も答えられなかった。


 黒森から漂う夜霧が濃くなる。


 北門の右側の門灯が、ちり、と音を立てて揺れた。


 金色の光に、黒い染みが混じっている。


 まるで灯りそのものが、何かに噛まれているようだった。


「ルカ」


 セラが短剣を構えたまま、低い声で言った。


「門灯、持ちそう?」


「このままでは厳しいです」


 正直に答える。


 昨日、北門の灯りは応急で起こしただけだ。


 壊れた門灯に、俺の【小さな灯】を流し込んだだけ。


 あれで影狼の群れは止められた。


 だが、今森の奥にいるものは、おそらく影狼とは違う。


 もっと濃い夜をまとっている。


 門灯の黒い揺らぎは、その影響だろう。


「ぽう……」


 足元で、ポルカが震えていた。


 白い毛を逆立て、尻尾の光を小さくしている。


 けれど逃げようとはしない。


 俺の足に体を寄せながらも、じっと黒森の方を見ていた。


「ポルカ、あれが何か分かるのか?」


「ぽ……ぽう……」


 返事のように鳴いたが、意味は分からない。


 ただ、怯え方が尋常ではなかった。


 ミリアがポルカを抱き上げようとしたが、ポルカは小さく首を振るように身をよじった。


「この子、逃げる気がない」


 ミリアが驚いたように言う。


「怖いのに?」


「うん。北門の灯りを見てる」


 ポルカの尻尾が、弱々しく光った。


 その光が足元の灯路に触れる。


 すると、北門へ伸びる金色の線が一瞬だけ浮かび上がった。


 広場から北門へ。


 北門から工房へ。


 そして、まだ暗い村の家々へ。


 細い線が、途切れ途切れに眠っている。


「……なるほど」


 俺は膝をつき、灯路に手を当てた。


「右の門灯だけじゃない。広場から北門への灯路全体が詰まっている」


「詰まってる?」


 ミリアが聞く。


「昨日は無理やり門灯だけを起こしました。でも、門灯に灯りを送る道が弱いままです。今みたいに強い夜の気配が来ると、灯りが押し負ける」


「つまり、門灯を強くするだけじゃだめ?」


「はい。北門を単体で守るんじゃなく、広場や工房の灯りとつなぐ必要があります」


 俺は黒森の奥を見た。


 巨大な赤い目は、まだこちらを見ている。


 近づいてはこない。


 だが、明らかに北門の灯りを削っている。


 門を破る前に、灯りを殺すつもりなのだ。


「見張りさん」


「な、なんだ?」


「門の内側に人を集めすぎないでください。恐怖が強いと、夜霧が濃くなります」


「分かった! おい、下がれ! 門から離れろ!」


 見張りの男が叫ぶ。


 近くにいた村人たちが慌てて後退する。


 セラもすぐに指示を飛ばした。


「北門付近の家は窓を閉めて。でも、家の中の灯りは消さないで! 小さくていい。今ある灯りを守って!」


 村人たちが走る。


 家々の窓に、かすかな明かりがともり始めた。


 普通の油灯。


 古いロウソク。


 ロッテさんの家で分けてもらった小さな灯。


 どれも弱い。


 でも、完全な闇よりずっといい。


「ミリア」


 俺は振り向いた。


「はいはい、何を作ればいい?」


 ミリアはすでに工具ベルトから細い銅線を取り出していた。


 目は真剣だ。


 怖がってはいる。


 でも、逃げる気はない。


「北門の左右の門灯をつなぐ補助灯が必要です。今の門灯は古すぎて、灯りを受け止めきれない」


「補助灯……吊り下げ? それとも地面置き?」


「地面置きで。門の内側、左右の灯路を橋渡しする位置に」


「魔石は?」


「小さな欠片でいいです。灯りを留める目印にします」


「了解」


 ミリアは工房から持ってきていた道具袋を開いた。


 中には、今日修理に使う予定だった部品が詰まっている。


 北門に来る時、念のため持ってきていたらしい。


「用意がいいですね」


「職人は心配性なの。あと、ルカといると絶対何か起きる気がした」


「すみません」


「褒めてないけど、責めてもない」


 ミリアは手を動かしながら、ちらりと笑った。


「だから、灯りを頼むよ、灯火師」


「はい」


 俺はランタンを掲げ、門の足元に浮かぶ灯路を見た。


 細い金色の線。


 ところどころ黒く濁っている。


 その濁りを辿ると、門柱の根元に黒い蝋のようなものがこびりついていた。


「また黒い蝋……」


 地下保管庫の手帳に残っていたものと同じ気配だ。


 自然の夜霧だけではない。


 誰かが、この村の灯路を意図的に汚している。


 その証拠が、ここにもあった。


「セラさん。門柱の根元に黒い蝋があります」


「敵の仕込み?」


「可能性が高いです。今は削ります」


「私が警戒する」


 セラが俺の前に立った。


 短剣一本で、巨大な影に対して何ができるかは分からない。


 それでも、彼女は退かなかった。


 俺は工具箱から細い削り棒を取り出し、門柱の根元に膝をつく。


 黒い蝋に触れた瞬間、指先に嫌な冷たさが走った。


 ただの汚れではない。


 呪いを含んだ蝋だ。


 灯りを塞ぐためのもの。


「っ……」


「ルカ?」


「大丈夫です」


 大丈夫ではなかった。


 指がじんじんと痺れる。


 それでも削る。


 こびりついた黒蝋を、少しずつ剥がす。


 そのたびに、門灯の黒い揺らぎが弱くなった。


 森の奥で、巨大な何かが低く唸る。


 空気が震えた。


 ポルカが「ぽうっ」と鳴く。


 次の瞬間、黒森から影狼が三頭、門へ向かって飛び出してきた。


「来る!」


 セラが叫ぶ。


 影狼たちは門へ体当たりする。


 どん、と鈍い音。


 門灯の光が揺れる。


 俺は黒蝋を削る手を止められない。


「セラさん!」


「任せて!」


 セラは門の隙間から伸びた影狼の爪を短剣で弾いた。


 普通の刃なら、影狼の体を切ることは難しい。


 だが、門灯の光に触れて弱った前脚なら、一瞬だけ実体を持つ。


 セラはその隙を逃さず、爪を叩き落とした。


「ミリア、まだ?」


「急かさないで! 急いでる!」


 ミリアは地面に膝をつき、小さな補助灯を組み上げていた。


 銅線。


 魔石片。


 壊れた祭り灯の金具。


 月灯狐の毛を一本だけ、中心に巻き込む。


 その手つきは早い。


 でも雑ではない。


 緊急時でも、灯具を乱暴に扱わない。


 職人の手だった。


「できた!」


 ミリアが叫ぶ。


「ルカ、火!」


「はい!」


 俺は最後の黒蝋を削り落とし、門柱から手を離した。


 指先が冷えている。


 でも、灯りはまだともせる。


 俺はミリアの作った補助灯に手をかざした。


 この灯りは門を守る灯り。


 村へ帰る人を迎え、外から来る悪意を止める灯り。


 怖がる人たちの背中に、ここから先は家だと教える灯り。


「【小さな灯】」


 金色の光が、補助灯に入った。


 小さな魔石片が瞬く。


 月灯狐の毛が淡く光る。


 そして、補助灯の光が左右へ伸びた。


 右の門灯。


 左の門灯。


 広場へ続く灯路。


 三つの光が、細い線でつながる。


 北門の内側に、半円形の光の膜が広がった。


 影狼が門へ飛びかかった瞬間、その膜に触れる。


「ギャウンッ!」


 影狼たちは弾かれ、黒森の方へ転がった。


 門灯の黒い揺らぎが消えていく。


 村人たちが、遠くから歓声とも悲鳴ともつかない声を上げた。


「止まった!」


「門が持ってる!」


「灯りが広がったぞ!」


 だが、俺は安心できなかった。


 黒森の奥の赤い目。


 あれはまだ動いていない。


 影狼は、おそらく試しに出されたにすぎない。


「ルカ」


 セラが森を睨んだまま言う。


「本命が来るわ」


「はい」


 巨大な影が、ゆっくりと前へ出てきた。


 木々の間から現れたのは、影狼をそのまま大きくしたような魔物だった。


 だが、体は狼というより、夜霧を固めた獣に近い。


 四本の脚。


 裂けた口。


 背中からは黒い蛾の羽のようなものが生えている。


 額には、黒い蝋燭のような角。


 セラが息を呑んだ。


「黒燭狼……?」


「知っているんですか」


「昔、父が言っていた。黒森の奥には、夜霧を束ねる狼がいるって。でも、村の灯路が生きていた頃は近づけなかったはず」


「灯路が弱ったから、来られるようになった」


「そういうことね」


 黒燭狼が口を開けた。


 吠える。


 音というより、闇そのものが押し寄せてくるような咆哮だった。


 北門の光の膜が大きく揺れる。


 ミリアが補助灯を押さえた。


「きつい! 灯りが持ってかれる!」


 ポルカが俺の足元から飛び出した。


「ポルカ!」


 小さな白い体が、北門の内側を駆ける。


 まだ弱っているはずなのに、尻尾の光を懸命に強めていた。


「ぽう! ぽう!」


 ポルカが補助灯の前で鳴く。


 尻尾の光が、補助灯に触れた。


 すると、光の膜が少しだけ丸みを帯びる。


 硬い壁ではなく、柔らかく受け流すような光。


 黒燭狼の咆哮を、真正面から受け止めるのではなく、左右へ逃がしていく。


「ポルカ、灯りの流れを変えた?」


 ミリアが目を見開く。


「すごい……この子、灯路の案内だけじゃなくて、光の逃げ道も作れるんだ」


 俺はポルカの隣に膝をついた。


「ポルカ。少しだけ力を貸してくれ」


「ぽう!」


 返事は元気だった。


 俺はポルカの尻尾の光と、自分のランタンの光を重ねるように意識する。


 強い光ではなく、柔らかく広がる灯り。


 月送りの灯を作った時の感覚。


 誰かを攻撃するためではなく、道を守るための灯り。


 黒燭狼が走り出した。


 巨大な体が門へ迫る。


 門板が軋む。


 見張り台の男が悲鳴を上げる。


 セラが短剣を構え、ミリアが補助灯を握り、ポルカが小さな足を踏ん張る。


 俺はランタンを掲げた。


「ここから先は、村の中だ」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


「誰かが眠る家がある。子どもが朝を待っている。帰る場所を守る灯りがある」


 ランタンの光が強まる。


 広場の灯柱が応える。


 ロッテさんの家の灯りが応える。


 井戸灯が応える。


 工房の芯灯が応える。


 そして、北門の守護灯が、一つの光になった。


「【小さな灯】」


 小さな灯り。


 けれど、今は一つではない。


 村にともった灯りたちが、北門へ集まる。


 金色の膜が、門の前へ大きく広がった。


 黒燭狼が激突する。


 轟音。


 土埃。


 黒い霧。


 光の膜が大きくたわむ。


 だが、破れない。


 ポルカが「ぽうううっ!」と全力で鳴いた。


 ミリアが叫ぶ。


「持って! あんたは月灯工房製でしょ!」


 セラが歯を食いしばる。


「ここは、私たちの村よ!」


 黒燭狼の角が光の膜に食い込む。


 黒い蝋が溶けるように滴る。


 それを、ポルカの月光と俺の灯りが少しずつ押し返す。


 やがて。


 黒燭狼の角に、ひびが入った。


 ぱきん。


 小さな音。


 次の瞬間、角が砕けた。


「グオオオオオッ!」


 黒燭狼が初めて悲鳴を上げた。


 巨大な体が後ろへ吹き飛び、黒森の入口へ転がる。


 影狼たちが一斉に逃げ出した。


 夜霧が、北門から遠ざかっていく。


 黒燭狼はよろめきながら立ち上がり、赤い目でこちらを睨んだ。


 だが、もう近づいてこない。


 やがて、黒森の奥へ消えていった。


 北門に、静寂が戻る。


 誰も声を出さなかった。


 そして。


「……守った」


 見張りの男が、ぽつりと呟いた。


「北門を、守ったぞ!」


 その声をきっかけに、村のあちこちから歓声が上がった。


 扉が開く。


 村人たちが外へ出てくる。


 泣いている者もいる。


 手を取り合う者もいる。


 ニナの声が遠くから聞こえた。


「ポルカすごい! ルカ兄ちゃんもすごい!」


 ポルカはその声に反応し、得意げに尻尾を揺らした。


 だが次の瞬間、ふらりと倒れそうになる。


 俺は慌てて抱き上げた。


「無理しすぎだ」


「ぽう……」


 ポルカは小さく鳴いて、俺の腕の中で丸くなった。


 ミリアもその場に座り込む。


「つ、疲れた……でも、見た? うちの補助灯、黒燭狼を止めたよ」


「見ました。すごい灯具でした」


「ふふん……もっと褒めていいよ」


「本当に助かりました」


「……真顔で言われると照れるからやめて」


 セラは北門の光の膜を見つめていた。


 応急で作った補助灯。


 左右の門灯。


 ポルカの月光。


 俺の小さな灯。


 それらがつながり、北門を守った。


「ルカ」


「はい」


「この北門の灯り、名前をつけましょう」


「名前ですか?」


「ええ。もう、ただの門灯じゃない。この村を守る灯りだもの」


 ミリアが疲れた顔で手を上げる。


「北門守護灯。分かりやすくていい」


「そのままですね」


「そのままが一番いい時もあるの」


 セラが頷いた。


「北門守護灯。いいと思うわ」


 北門守護灯。


 その名を聞いた瞬間、門灯の光が少しだけ強くなった。


 まるで、自分の役目を認められたように。


 俺は思わず笑ってしまった。


「灯具も、名前をもらうと嬉しいのかもしれません」


「また変なこと言ってる」


 ミリアが笑う。


 セラも小さく笑った。


 けれど、その時だった。


 黒森の奥から、声が聞こえた。


 狼の声ではない。


 魔物の唸りでもない。


 人間の笑い声だった。


「……へえ」


 低く、湿った声。


「王都から捨てられた灯火師が、こんな辺境で灯りをつないでいるとは」


 セラが一瞬で表情を変え、短剣を構える。


 ミリアも青ざめる。


 俺はポルカを抱えたまま、黒森を見た。


 木々の奥。


 夜霧の向こう。


 黒い外套をまとった人影が、ゆらりと立っている。


 その手には、黒い蝋燭が一本。


 火はついていない。


 なのに、周囲の闇がその蝋燭へ吸い込まれていた。


「誰だ」


 セラが鋭く問う。


 人影は答えず、楽しそうに笑った。


「小さな灯か。なるほど、邪魔になるわけだ」


 黒い蝋燭の先に、赤い火がともる。


 ポルカが俺の腕の中で震えた。


「ぽう……!」


 その声は、明らかな警戒だった。


 人影は北門の守護灯を一瞥し、ゆっくりと森の奥へ下がっていく。


「今夜は挨拶だけにしておこう。だが覚えておけ、灯火師」


 黒い霧が、人影を包む。


「夜は、照らされることを嫌う」


 次の瞬間、人影は消えた。


 北門の守護灯は静かにともっている。


 村人たちの歓声も、少しずつ収まっていく。


 けれど俺は、さっきの黒い蝋燭から目を離せなかった。


 黒燭狼。


 黒い蝋。


 灯路を汚す何者か。


 この村の灯りを消したのは、ただの夜霧ではない。


 人の意思を持った敵がいる。


 俺は腕の中のポルカをそっと撫でた。


 小さな白い狐は、まだ震えている。


 俺はランタンを握り直した。


 守るべき灯りが増えた。


 そして、照らすべき闇もまた、少しだけ姿を見せ始めていた。

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