第10話 迷い家③
夜半、気づくと、奇妙な浮遊感に包まれていた。
眠りながら、ぐらぐらと身体が揺れて落ち着かない。
やっと元どおりベッドの安定した地平に戻ったとき、そよ、と風が吹いたのを感じた。木々のざわめきが聞こえる。
妙だ、と思った。この数日、窓のない部屋にいて、外界の気配からは遮られていたはず。
疑問が浮かび、意識が急速に浮上した。
エーエーウールーエルイルイー……
旋律が、眠りの淵に忍び込んでくる。呪文だ。反復のたびに、体温が上がっていく感覚がある。
地声とはだいぶ違う発声なので、誰の声とは特定しづらい。
だが、レネーではない。となれば、残るは一人。
布団の下で、力のこもらぬ手に何とか、渡された短剣を握った。
そのまま相手が、近づいてくるのを待つ。
チャンスは一度だ。外せば、ベッドを出て追うのは無理だろう。身体を起こすのも。
私は目を閉じたまま、呼吸をし、集中を高めた。
足音が、すぐベッドの脇まで来て止まる。
押し殺した息遣いが、さらに近づいてくるのがわかった。
私は跳ね起きて、短剣を男の喉に突き立て、
「お、っと」
渾身の力で突いたつもりだったが、エマは難なく私の手首を掴んで止めた。
ひねられるまでもなく、手から短剣が落ちる。自覚していなかったが、握っているのもやっとの状態だったのだ。眩暈に襲われ、元の仰向けに倒れこんでしまう。
「さすがだね」
エマは笑った。
好感のもてるあの笑い方で、その顔のままこう続けた。
「クリス・プラス。ナンバー13。賞金稼ぎ組合登録の上級賞金稼ぎ。……買収や交渉に応じないので、裏社会ではずいぶんと恐れられている。懸賞金がかかっていましたよ。生存確保で一千万リル」
「……裏の、懸賞金の話か」
「よくご存知で。照合に時間がかかりました。トカゲ共を蹴散らすような上位ナンバーだ。ただものではないと思っていたら、案の定」
ひねった腕を頭上にまとめられる。エマはその手首に手錠をつけ、ベッドの頭側の柵に通した。
抵抗一つできなかった。先ほどの一撃に、全ての力を使い果たしてしまったかのように、体がだるい。
「小遣い稼ぎのつもりで、標識にいたずらしてみただけなのですがね。私は運がいい」
「生存確保で、なければ、賞金は半減だぞ」
「……そのようですね」
裏の世界で犯罪者側が、敵である賞金稼ぎや治安機関の実力者に懸賞金をかけることがある。生死不問の案件も多いが、私の場合は生け捕りが優先になっていた。
女で、上位ナンバーというのが効いているらしい。
捕まったら引き渡される先は、非公式な私人か犯罪組織か。どうなるのかは、考えたくもない。
襟元に手が伸びる。
「生け捕りというのはね、生きてさえいればいいわけです」
ビ、と音を立てて、夜着が引き裂かれた。包帯を巻いた傷があらわになる。
ということは、傷の走っている肩から胸にかけてが、さらけ出されているのだ。エマは包帯に、短剣を滑らせた。胸を押さえていた包帯が、谷間から切り取られて、ばらりと解ける。
「生きている分には、何をしてもいいのですよ」
エマは傷口に爪を立てた。
まだ傷はふさがってはいなかった。
エマが縫い目を指でたどり、引っ掻いていくたび、血がにじみ出る。
私は苦痛に眉を寄せて耐えた。
「いい表情だ」
ぐい、ときつく、傷の走った方の乳房を掴まれた。
「っぐ、……」
「声を抑えることはない」
言いながら、エマは傷口に指を食い込ませた。
「っ、うぁっ」
思わず声が漏れた。だが、エマが笑うのを見て、歯を食いしばって顔を背ける。
押しつぶすように握られ、男の指は傷に潜ったままうごめく。
「ふっ……!」
広がった傷口から、血があふれ出した。肩口に温かく、流れる感覚。
エマは何を思ったのか身をかがめると、胸元に顔を伏せた。
「……ッ!!」
傷口に舌が捻じ込まれ、おぞましい感触に一瞬、息が止まった。反射的に腕が動いたが、手錠の鎖が引っ張られてチャリ、と鳴っただけだった。
尖らせた舌先が、傷を押し広げるように動く。
「う、わっ……あっ」
エマは、ジュル、と音を立てて、傷口を丹念に舐め上げて行った。
時折、唇をつけては啜る。
「いい色の血だ。縫っている間中、こうしたくてたまらなかったのですよ」
口元を血で汚して、エマは陶然と笑った。
「ん……っ」
血と唾液でぬめった舌を這わせたかとおもうと、つ、と血に濡れた指先が腹筋をたどって下腹に滑っていく。
意図を悟って、私は怒りに目がくらみそうになった。
「こっ、の……!」
エマの力は強くない。おそらくランキング外だろう。
だが、こうしてのしかかられ、指一本自由に動かせない状態では、ナンバーなど何の意味もなかった。
私は逃れるように部屋を見回した。最初にいた部屋とは違う。窓がある。
それに、扉の造りが妙だった。壁と同化しているのだ。
「助けは来ませんよ。夕食に少し薬を入れたのでね。それに、念のために隠し部屋に移動させてもらいました」
エマは性急に体勢を変え、のしかかるように覆いかぶさってきた。
「っ、触れるなっ!」
声が裏返った。ムダと知りつつ手錠の鎖を引っ張るが、金属音が断続的に響くばかりだ。
夜着をまくりあげながら、血に濡れた手が体をたどる。
「う、やだ……リ、オ……」
無意識に私が口走ろうとした名に、エマが反応した。
「そういえば、君の連れの青年」
ふと気づいたように動きが止まる。
「懸賞金リストにはないが、うまく運べば君よりも金になるかもしれない。まったく、おもしろい組み合わせですよ」
「……え?」
意味ありげな言葉に、思わず気を抜いて聞き返そうとしたときだ。
ズガ、ドゴン!と重い轟音が室内に響き渡った。
「何!?」
私とエマは、同時に音のした方、扉に目を向けた。壁を切ったような作りの隠し扉は、もはや隠されてはいなかった。
亀裂とともにボコリと、室内側に盛り上がっている。
そして次の瞬間、ドン、と最後の轟音を伴い、大穴を開けてガラガラと崩れ落ちた。
穴から姿をのぞかせたのは、リオンだった。私の大剣を突きの形に構えている。どうやらこれで壁を破ったらしい。
安堵のあまり、力が抜けるのがわかる。
だが、口から出た言葉は、無意識なのに我ながら素直ではなかった。
「遅い……!」
「すみません、部屋探すのに手間取っちゃって」
リオンは素直に謝る。
「あと、この剣重すぎ。レネーに持って行かせようとしたら、あいつ潰れちまいましたよ」
真面目な顔で、リオンはのんきに軽口を叩いた。
エマがこわばった顔で、無理に唇を笑みの形にゆがめる。
「夕食は召し上がらなかった、というわけか」
「てめえの出したもんなんか、食うかよ。変態野郎」
リオンの口調が豹変する。
だが、チュベックの宿のときのように、問答無用で襲いかかってはこない。
エマがいつの間にか、奪った短剣を私の喉元に当てていたのだ。
「さっさとその汚ねえもんしまって、クリスから離れろ」
リオンは静かな声音で、一語ずつ区切るように続けた。
「その人に、指一本、触れるな」
触れたら、どうなるのか。
リオンはそれについて、一言も言及しなかった。
必要なかった。彼が左手一つで無造作に持ち上げ、まっすぐに突きつけたのは、身長を超える大剣だ。その事実が、言葉よりも雄弁に語っていた。
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