第13話:翌朝の気まずさと、変わらない玄米

第13話:翌朝の気まずさと、変わらない玄米


朝。


薄いカーテンの隙間から差し込む春の陽光が、俺の網膜を淡く刺激して目を覚まさせる。


「……ん」


重たいまぶたを開けると、視界にはいつもと変わらない四畳半の天井が広がっていた。


極限まで無駄を削ぎ落とした、至高のミニマリスト空間。


しかし、昨日までの淀んだ空気とは違う、どこか澄み切ったような静寂がそこにはあった。


俺はゆっくりと上体を起こし、ペラペラの万年床の上で、小さく息を吐き出す。


『……ふん。人間の脳とは、実に都合よくできているものだな。睡眠という名の強制シャットダウンを経ることで、昨晩のバグをまるで何事もなかったかのように初期化してしまうのだから』


俺は寝癖のついた頭を掻きながら、脳内の文豪を叩き起こして、いつものように偉そうな独白を紡ごうとした。


だが。


『初期化……など、到底されていないな』


俺は自嘲気味に、その言葉を飲み込んだ。


昨晩の記憶が、あまりにも鮮明に、色と温度と匂いを伴って脳裏に焼き付いている。


過去のトラウマに呑まれ、過呼吸を起こして床に這いつくばっていた、最高に無様で泥まみれな俺の姿。


そんな俺を、ギャルの仮面をかなぐり捨てて、なりふり構わず抱きしめてくれた結城(ゆうき)。


『私がいるから……っ! もう、誰もあんたを傷つけさせないから……っ!』


震える声。ポロポロと俺の肩を濡らした、彼女の熱い涙。


そして、俺の凍りついた世界を溶かした、あの圧倒的なまでに優しい温もり。


文学的表現を借りるならば、俺というちっぽけな物語(ストーリー)は、彼女の激重な愛情によって、完全に新しい章へと強制的にページをめくられてしまったのだ。


「……あいつ」


俺は部屋の中をぐるりと見渡した。


当然だが、結城の姿はない。


壁掛け時計の針は、午前八時を少し回ったところを指している。


全日制の高校に通う現役女子高生であり、カーストの頂点に君臨する女王様である彼女は、とっくに登校している時間だ。


昨晩、完全に落ち着きを取り戻した俺を見て、結城は「……ばか」と顔を真っ赤にして呟いた後、逃げるように帰っていった。


あの後、どんな顔をして彼女と顔を合わせればいいのか、俺のポンコツな引きこもり脳では全くシミュレーションができていない。


気まずい。


あまりにも気まずすぎる。


「俺は、社会生活無理太郎だぞ……。あんな少女漫画のヒーローとヒロインみたいな展開、俺のメンタルキャパシティで処理しきれるはずが……」


頭を抱えながら、ふと、デスクの方へ視線を向けた。


「……ん?」


パソコンのモニターの前。


昨日まで何もなかったはずのその空間に、何かがある。


俺は万年床から這い出し、フラフラとデスクへと近づいた。


そこにあったのは、パステルカラーの可愛らしい小皿。


その上には、綺麗に丸く握られ、乾燥しないようにしっかりとラップがかけられた『おにぎり』が二つ、ちょこんと並んでいた。


よく見れば、それは白いご飯ではない。


薄く色づき、所々にプチプチとした食感を残す、俺の胃袋を完全に掌握したあの『玄米』で作られたおにぎりだった。


「……おにぎり?」


小皿の脇には、彼女がいつも使っている、ギャル文字一歩手前のような丸っこい字で書かれたメモ用紙が添えられていた。


俺は息を呑み、震える手でそのメモを手に取る。


『ちゃんと食べなさいよ。キモいから。』


「…………」


『冷めてたら美味しくないから、食べる前に絶対レンチンすること。倒れて事故物件になられたら迷惑だから、体力くらいつけなさいよね。パシリのくせに。』


「……ふっ」


思わず、乾いた笑いが漏れた。


相変わらずの、棘だらけの暴言。


俺を「キモい」「パシリ」と見下す、女王様ギャルとしての強固な武装(スタンス)。


だが、その暴言の隣にある、丁寧にラップで包まれた二つの玄米おにぎりが、彼女の言葉のすべてを優しく否定していた。


昨晩、あんなにも泣きじゃくり、俺の前で完全に素顔を晒してしまった彼女が。


今朝、俺が目を覚ます前にこの部屋にやってきて、俺が起きる頃にちょうど食べられるように、わざわざ玄米を握って置いていってくれたのだ。


どんな顔をして俺と会えばいいか、きっと彼女もわからなかったのだろう。


だから、彼女なりの照れ隠しと、最大限の強がりを、この一枚のメモとおにぎりに託したのだ。


「……馬鹿な女だ」


俺は呟きながら、小皿のおにぎりを手に取った。


ラップ越しに伝わってくる微かな温もり。


彼女の不器用で、重たくて、どうしようもなく優しい本音が、この小さな玄米の塊にぎゅっと詰まっている気がした。


俺の、極限まで無駄を削ぎ落としたはずの冷たい四畳半。


そこに置かれた、不格好なまでに温かい二つのおにぎり。


「……ふん。我が専属のシェフが丹精込めて作った補給物資だ。俺の高度な思索のための燃料として、ありがたく消費してやろう」


文豪としてのプライドを必死に保ちながら、俺は一つ目のラップを剥がし、大きく口を開けてかぶりついた。


「……っ」


美味い。


中には、俺が好きな鮭のほぐし身がたっぷりと入っていた。


絶妙な塩加減と、玄米の香ばしい甘みが、昨晩の涙で空っぽになっていた胃袋に、じんわりと染み渡っていく。


俺をゴミのように見下す言葉と、俺を誰よりも大切に扱う行動。


その強烈な矛盾を孕んだ彼女の存在が、今や俺の日常の中心に、深く、深く根を下ろしてしまっている。


二人の間の空気は、昨晩を境に、確実に何かが変わり始めていた。


俺はもう、過去の暗闇に怯えるだけの哀れなピエロではない。


そして彼女も、ただ俺を見下すだけの冷酷な女王様ではない。


「……ごちそうさまでした」


誰もいない部屋で、俺は誰に聞かせるわけでもなく、小さく、けれどはっきりと言葉に出した。


窓の外から聞こえる喧騒が、今日は不思議と、それほど怖くは感じなかった。


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