ひな壇とお内裏様

 三月三日、午前十時。

 

 四十万家の大豪邸、その広大なリビングルームの片隅には、年代物の重厚な桐箱がいくつも積み上げられていた。



「旦那様、蔵の奥から見つけてまいりました。先々代の頃から四十万家に伝わる、由緒正しい七段飾りのひな人形です」



 白いエプロン姿のメイド長・結衣さんが、額の汗を拭いながら誇らしげに桐箱の山を指差した。

 

 今日は桃の節句、ひな祭りだ。


 結衣さんの「うちには若い女の子がいるんですから、きちんと行事をやりましょう!」という強い提案により、今年の四十万家は日本の伝統的な風習に則り、立派なひな壇をリビングに設営することになったのである。



「ありがとう、結衣さん。重かっただろう」

「いえいえ! 運び出しはひまりさんが、指一本で軽々とやってくれましたので!」



 結衣さんの背後で、ハニーブロンドの髪を揺らすひまりが「えへへ」と照れくさそうに笑っている。

 

 総重量数十キロ、下手をすれば百キロを超えるであろう桐箱の山を「指一本」で運んだという事実に、俺の常識人としての脳がエラーを吐きそうになるが、今日は平和なひな祭りだ。細かい物理法則の乱れには目を瞑ろう。



(ひな祭り…女の子の健やかな成長と幸福を願う、日本の美しい伝統行事か)



 俺は積み上げられた桐箱を見つめながら、ひっそりと胸の奥を温かくしていた。


 この屋敷にいる三人のSPメイドたち――ひまり、瑠璃、セツナ。


 彼女たちの頭のネジが軍事と暗殺に全振りされているとはいえ、戸籍上はまだ十九歳から二十一歳の、年端もいかないうら若き乙女たちである。


 幼い頃から裏社会や特殊な環境で育てられ、まともな季節の行事など経験してこなかったに違いない。

 

 だからこそ、今日くらいは。


 血生臭い警戒も、常軌を逸した破壊工作も忘れ、彼女たちには純粋な一人の「女の子」として、この平和なひな祭りを楽しんでほしい。


 当主として、一緒に暮らす家族のような存在として、俺は心からそう願っていた。



「よし。それじゃあ、まずはひな壇の骨組みを組み立てて、緋毛氈を敷こう」



 俺の合図で、設営作業がスタートした。結衣さんは「私は特別なお茶と、ひなあられの準備をしてきますね」とキッチンへ向かい、リビングには俺と三人のSPメイドだけが残された。


 スチール製の骨組みを組み上げ、鮮やかな赤い布――緋毛氈をふわりと被せると、見上げるほどに立派な七段のひな壇が出現した。


 俺は一番大きな桐箱の蓋を開け、厳重に包まれた和紙を丁寧に取り除いていく。



「見ろ、お前たち。これが『お内裏様』と『お雛様』だ」



 金糸銀糸がふんだんに使われた豪奢な着物を纏い、穏やかで気品のある微笑みを浮かべる一対の人形。日本の伝統工芸の粋を集めたようなその精巧な作りに、俺は思わずため息を漏らした。

 

 彼女たちもきっと、この美しい人形を見て喜んでくれるはずだ。俺は優しい笑顔を浮かべて、三人の顔を振り返った。


 ――しかし。

 

 俺の期待に反して、彼女たちの瞳に「乙女のときめき」は一切浮かんでいなかった。

 

 代わりに宿っていたのは、極限の戦場においてのみ発揮される、研ぎ澄まされた『プロの軍人』としての鋭利な光だった。



「なるほど。これが今回、我々が護衛するべき『最重要VIP』ですね」



 漆黒のボブヘアを持つセツナが、お内裏様とお雛様を見据えながら、氷のように冷たく、そして確信に満ちた声で呟いた。



「えっ? いや、セツナ? 護衛って…」

「了解しました。これよりVIPを、最も安全な絶対防衛ラインへとご案内します」



 俺の言葉を遮るように、瑠璃がスッと前に出た。


 彼女は赤いポニーテールを揺らし、慣れた手つきで、お内裏様とお雛様を七段飾りの一番上の段――『最上段』へと慎重に安置した。



「さすがは日本の伝統的な防衛陣形ね。VIPを最も見晴らしの良い高所に配置し、階下から攻め上ってくる敵を一方的に迎撃・殲滅するための、理にかなった高低差だわ」

「陣形じゃない! ひな壇だ! 敵なんかどこからも攻めてこないから!」



 俺の必死のツッコミは、臨戦態勢に入った彼女たちの耳にはまったく届いていない。


 続いて俺は、嫌な汗をかきながら次の桐箱を開けた。中に入っていたのは、三人一組の美しい人形だ。



「ええと…こいつらは『三人官女』だ。お雛様にお仕えして、お酒を注いだり身の回りのお世話をする人たちだな」

「お酒を注ぐ…給仕役ですね」


 

 瑠璃の目が、鷹のように鋭く細められた。彼女は三人官女が手に持っている『銚子』などの小さな道具を指差すと、チッと舌打ちをした。



「甘いわ。VIPに直接近づいて飲食物を提供するポジション…暗殺における『毒物混入』のリスクが最も高い、危険すぎる存在よ。旦那様も、私の前で何度も毒味無しのコーヒーを飲もうとするからよくわかるでしょう?」

「俺はお前たちからコーヒーを守ろうとしてるだけだ! で、どうするつもりだ!?」

「こんな危険分子をVIPのそばに置くわけにはいかないわ。配置転換よ」



 瑠璃はそう言い放つと、三人官女をひな壇からズルズルと引きずり下ろし、一番下の段•七段目の端っこへと容赦なく追いやった。


 元々お雛様のすぐ下の段•二段目にいるべき官女たちが、一瞬にして末端の雑用係へと左遷されてしまったのだ。



「かわいそうだろ! 彼女たちはお雛様のお世話係なんだぞ!」

「情けは命取りよ、旦那様。次はどいつ? アタシがリスクアセスメントをしてあげるわ」



 俺は震える手で、次の箱を開けた。中には楽器を持った少年たちの人形が入っている。



「こ、これは『五人囃子』だ。太鼓や笛を演奏して、結婚式を盛り上げる…」

「音響兵器部隊の存在を確認」



 セツナの声が、背後からスッと差し込まれた。

 

 振り返ると、彼女はいつの間にか、ひな壇の裏側の死角となるリビングの柱の影にしゃがみ込み、どこから取り出したのか、身の丈ほどもある巨大な漆黒のスナイパーライフルを構えていた。


 その銃口は、五人囃子の人形たちの頭部を正確にロックオンしている。



「な、何をしてるんだお前はっ!?」

「彼らが所持している太鼓や笛。あれは特定周波数の『不可視の音響兵器』と推測されます。VIPの三半規管を破壊する前に、私がいつでも五人同時のヘッドショットで無力化できるよう、射程圏内に置きつつ監視を続けます」

「演奏だっつってんだろ! 祝いの席をスナイパーのスコープ越しに監視するな! ひな祭りの風情が完全に死滅したぞ!」



 俺がセツナの狙撃を止めようと身を乗り出した、その時。一番下の桐箱を開けていたひまりが、「あっ!」と大きな声を上げた。



「旦那様! 大変です! VIPの直属の近接護衛が見つかりました!」



 ひまりの手には、弓や太刀を持った老兵と若武者の人形――『右大臣』と『左大臣』が握られていた。

 

 俺はホッと胸をなでおろした。護衛。そうだ、彼らなら、メイドたちの軍事フィルターを通っても、正当なポジションに配置されるはずだ。



「そうだろう? 彼らはお内裏様を守る立派な…」

「ですが旦那様! いくらなんでも、この武装は旧式すぎます!」



 ひまりが、真っ黒な瞳に憂いの色を浮かべて右大臣の『弓矢』と左大臣の『太刀』を指差した。



「高台の七段目から迫り来る無数のテロリストを相手にするのに、こんな木の枝や鉄の棒切れでは、VIPの命を十秒も守れません! 私が、彼らの武装を現代戦のレベルまでアップデートしておきます!」

「魔改造って…ちょっと待てひまり! お前、何を出して…っ!?」



 ひまりはエプロンのポケットに手を突っ込むと、ゴトリ、と鈍い金属音を立てて、物騒な黒い鉄の塊を取り出した。

 

 それは、どう見ても軍用の『アサルトライフル』と、対戦車用の『ロケットランチャー』だった。

 

 ひまりは満面の笑顔のまま、右大臣の弓矢をひったくってロケットランチャーを肩に担がせ、左大臣の太刀をアサルトライフルへとすり替えた。



「これで安心です! どんな装甲車が攻めてきても、お内裏様は無傷ですよ、旦那様!」

「なんでお内裏様がロケットランチャーとマシンガンに守られてるんだよおおおぉぉっ!!」



 俺の魂の絶叫が、春の陽光が降り注ぐリビングに虚しく響き渡った。

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