2章 灰色の雛鳥
――ただいま。
誰もいないリビング。
返す人などいないのを知りながら、誰に対してでもなくそう声をかける。
それが、俺の日常だった。
恵まれていない訳じゃない。
食べるものにも、寝る場所にも、受けられる教育にも、不足はなかった。むしろ、一般水準よりも良いものを享受していた。
ただ、そのためには経済力が必要で、そのためには時間を捧げなければいけなくて、その結果、『育み』に費やす時間はなかった。
――仕方がなかった。
そう受け入れるしかなかった。
小学生低学年だったと思う。
風邪を拗らせて、病院で点滴を受けて、シッターさんと一緒に家に帰ったら、あの人が俺より先に帰宅していた。
「ただいま」
「おかえり」
日常にはない、返事。
見慣れた、いつものスーツ姿。肌馴染みの良い、言い換えると、遊び心のない、シンプルな化粧。
時刻は夕方。まだ日が沈む前。平日のこんな時間に顔を合わせることなんて殆どない。ましてや、出迎えて貰えるなんて、まずない。
嬉しくて、熱に浮かされていたのもあって、俺は確か、はしゃいだんだ。
「なんだ、別に大したことないじゃない…」
ため息混じりの言葉。
声だけ、鮮明に覚えてる。
「これなら、私、帰ってくる必要なかったじゃない…」
表情は、思い出せない。
俺自身の表情もまた、思い出せない。
ただ、心の中の何かが崩れていく音が、感覚が、いまだに、あの時のまま、残ってる。
――大したことになれば、帰ってきてくれる?
聞かなければ良かったのに。
そんなこと、言っても無駄なのに。
「何それ、嫌味のつもり?」
その人…母は…母さんは、本当に嫌そうな顔で、嫌そうな声で、そう言った。
ほらね。やめておけば良かったんだ。
いつの間にか、目の前に、幼い自分がいる。
『慧斗君が可哀想です。こんなのネグレクトですよ』
――やめて、母さんを責めないで。
『そうならないために、貴女を雇ってるんでしょうが』
――ねぇ、喧嘩しないで?
『お母さんと一緒にいる時間が慧斗君には必要なんです』
――ねぇ、もうやめて?
『なら、誰がその時間、私の代わりに働くの?貴女が代わりに働いてくれるの?出来ないでしょ?だったら口を挟まないで!』
――ねぇ…もう…
余計なこと、言わないで。
思い出させないで。
惑わさないで。
だって全部、仕方がないことなんだから。
――もっと一緒にいたい?愛してほしい?
そんな我儘を言う立場に、俺はいない。
愛されてない訳じゃない。
本当に愛されてなかったら、きっと俺は捨てられてて、今頃、河川敷のトンネルの下にいるお爺さんみたいに、汚い格好して、ダンボールの家に住んでるんだ。そうじゃないんだから、きっと愛されてる。
――そう、信じて、生きてきた。
いつか、笑いかけてくれる。愛してるって、大事だって、言ってくれる。そう、信じてた。
ねぇ、神様。
俺は、良い子にしてたよ。
毎日、お祈りしてたよ。
「今日俺、ご飯作ったよ」
「余計なこと、しなくていいから。洗い物とか、仕事、増やさないでよ…」
ねぇ、神様…
良い子の、つもりだったよ。
信じるって、疲れるね…
「今日俺、ゴミ出しするよ」
「あなたのそういう態度、褒められたくてしてるって感じがしてすごく嫌」
ねぇ、神様なんて、いないんだ…
良い子でいるのは、疲れるよ…
信じていれば救われるなんて、嘘ばっか…
信じなければ、期待しなければ、楽だ。
傷つかなくて済むから。
余計なことはしない。
言われたことだけやればいい。
そうすれば、少なくとも、嫌な顔はされない。
――これ以上、嫌われることもない。
小学生中学年から高学年になる頃には、俺の方から母さんを避けるようになった。
視界に入れたくなかった。余計なことを考えてしまうから。余計なことをしてしまうから。
平日は、母さんが帰ってくる前に寝るようにした。土日は、なるべく外に出るようにした。行き先はいつも決まってた。その町で唯一のCDショップ――楽器屋も併設されている、ちょっとした楽園だ。
視聴コーナーで片っ端から音楽を聴いた。
家にもCDは棚を埋め尽くすほどあったけど、どれもそれはクラシック音楽で、歌物はあまり存在しなかった。
だから、このCDショップで聴く音楽達は、どれも新鮮で面白かった。誰にも邪魔されず、自由に耳を傾けられる時間。
ある日、いつものように視聴コーナーに向かった俺は、一枚のCDに目を奪われた。プラスチックじゃない、黒い箱の形をしたCDケース。銀の箔押しで印刷されたアルバム名。ジャケットは他のどれよりも異質で、洒落ていて。一曲だけ視聴が可能で、耳にした音楽は初めて聴く世界で。一度帰宅して、空缶の貯金箱の中身全部出して、持ってる現金全部叩いてそのCDを買った。初回限定で付いていたDVDを家でこっそり見た。そのPVの世界観に、身体が震えた。こんな世界が世の中にあるのだと、感動した。
ずっと聴いていたい。浸っていたい。
そう思った。
小学6年生の時、音楽プレイヤーが欲しいとねだった。母さんが音楽を聴いてる時に、俺は自分の好きな曲を、母さんの邪魔はせずに聴きたいから。そう言ったら、母さんは誕生日に音楽プレイヤーを買ってくれた。
そこからもう、毎日のように聴いた。その世界に浸った。流行りの音楽になんて目もくれずに、その世界に閉じ籠った。
――その世界は、救いだった。
俺の言いたいこと、全部言ってくれる。
俺が聞きたいこと、全部言ってくれる。
母さんのスーツとは違う、同じような暗い色なのに、ずっと自由で煌びやかな衣装に身を包んだ男達。「男」なのに、母さんよりずっと艶やかで美麗なメイクをした「大人」たちの姿。
何者にも縛られず、自分を貫く強さを感じた。
母さんの目ばかり気にして生きていた自分とはまるで違う。
――強く、憧れた。
自分でも、たまに歌詞なんかを書いたりして。
――けどそれは同時に、遠くて手の届かない世界にも思えた。
見上げた空はどこまでも高くて。
細くて軟弱な、灰色の小さな翼では、届かないと知った。
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