​第1章:正確なステップ、不正確な心

​梅雨の気配を孕んだ湿った風が、都心のビル群の隙間を吹き抜けていく。

笠木愛海の一日は、いつだって秒単位の正確さでコントロールされていた。朝7時に起床し、丁寧に淹れたブラックコーヒーを飲み、決まった時刻の電車に乗る。区役所のデスクに着けば、山積みにされた申請書類を、まるで行儀の良い兵隊を並べるように整然と片付けていく。

「いやあ、笠木さんが隣の席だと本当に助かるよ。僕が3日かかる案件を、半日で終わらせちゃうんだもんな」

​「いえ、私はただ、マニュアル通りに処理しているだけですから。お気になさらないでください」


​愛海はキーボードから目を離さずに、事務的な笑みだけを返した。その声には、他者を拒絶するわけではないが、決してそれ以上の踏み込みを許さない冷ややかな響きがある。

容姿が整っている彼女には、当然のように他部署の人間や、時には窓口に訪れる市民からも視線を向けられることが多かった。時には、露骨なアプローチを受けることもある。だが、愛海はそのすべてを、まるで飛んでくる虫を払うかのように、優雅に、そして完璧に受け流してきた。

​彼女にとって、他者との距離感を一定に保つことは、精神の平穏を維持するための絶対条件だった。

過去の苦い記憶が、彼女の脳裏に焼き付いている。誰かを好きになり、その人に執着し始めると、愛海の心は制御を失って暴れ出す。相手からの連絡が数分遅れただけで、胸が引き裂かれるような不安に襲われ、自分の存在価値が見出せなくなる。あの泥沼のような精神の不安定さを味わうくらいなら、最初から誰も中に入れない方がいい。


​「……今日も、少し残っていこう」


​時計の針が17時15分の定時を指したのを確認し、周りの職員たちが帰る支度を始める中、愛海は新しい書類の束を引き寄せた。

オーバーワーク。それが彼女にとっての精神安定剤だった。脳を極限まで疲弊させれば、余計なことを考えずに済む。家に帰って、冷えた白ワインを喉に流し込み、泥のように眠る。その繰り返しだけが、彼女の静かな世界を担保していた。



​*



​同じ日の夜、朝倉飛華留は、システム開発会社のオフィスで大きな溜め息をついていた。


​「はぁ……。ようやく今週の山場を越えたか。みんな、本当にお疲れ様!」


​飛華留の声に、フロアのあちこちから安堵の溜め息と歓声が上がった。34歳のシステムエンジニアである彼は、プロジェクトのリーダーとして、過酷な納期を乗り切ったばかりだった。

彼の人懐っこい笑顔と、他人の体調や感情の変化にいち早く気づく繊細さは、チームの大きな支えになっていた。


​ 「朝倉さーん、本当にお疲れ様でした! これからみんなで駅前の居酒屋行くんですけど、朝倉さんも絶対来てくれますよね? 朝倉さんがいないと始まりません!」


​後輩の女性社員が、飛華留の腕に軽く触れながら笑顔を向ける。飛華留は一瞬、そのパーソナルスペースの狭さに戸惑いながらも、いつもの人当たりの良い笑みを浮かべた。

「ありがとね。でも、ごめん。ちょっと今回は、別件で外せない先約があってさ。みんなで俺の分まで盛り上がってきてよ。領収書回してくれたら、少し色をつけてあげるから」

​「えー! またですか? 朝倉さん、最近いつもそうやって逃げるんだから。……まあ、ご馳走様です!」


​女性社員は不満げに頬を膨らませつつも、嬉しそうに他のメンバーを連れて出て行った。

一人残されたオフィスで、飛華留はふう、と息を吐き出す。

「先約」などというのは嘘だった。誰にでも好かれ、常に人の輪の中心にいる飛華留だが、最近は特定の誰かと深く関わることを無意識に避けていた。

1年前に別れた元カノ、山本京香との5年間。結婚を夢見て、信じ切っていた相手の裏切り。彼女の奔放な浮気癖は、飛華留の心に深い不信感の棘を突き刺した。

孤独が死ぬほど苦手だからこそ、大勢で騒ぐことでその穴を埋めようとする。しかし、二人きりになるような関係には、どうしても臆病になってしまうのだ。


​「……さて、俺も帰るか」


​静寂に包まれたオフィスは、彼の最も苦手な場所だった。急きょバッグを掴み、逃げるように部屋を後にした。



​*



​二人の線が交わったのは、区役所のすぐ近くにある、こぢんまりとしたビストロだった。

時間は21時を過ぎた頃。いつもならまっすぐ家に帰る愛海だったが、その日はどうしてか、少しだけ外の空気を吸いながらアルコールを摂取したい気分だった。カウンターの端に座り、静かにグラスを傾ける。

​そこに、賑やかな騒音から逃れるようにして、飛華留がふらりと入ってきた。


「すみません、一人なんですけど、カウンター空いてますか?」


​店員に促され、飛華留が腰掛けたのは、偶然にも愛海の二つ隣の席だった。

店内の照明は少し落とされ、落ち着いたジャズが流れている。愛海は静かにワインを口に含み、飛華留はビールを注文して一気に喉を潤した。

​普段なら、愛海は隣に誰が座ろうと一瞥もくれない。しかし、その時の飛華留から漂う雰囲気に、ほんの少しだけ視線を奪われた。

男は、ビールを美味しそうに飲み干した後、ふっと寂しげな、張り詰めたような表情を見せたのだ。それは、愛海が鏡の中でよく目にする、あの「影」によく似ていた。

​そして飛華留もまた、隣の席に座る女性の、独特な存在感に気づいていた。

目鼻立ちがしっかりとした綺麗な人だ、と最初に思った。しかしそれ以上に、彼女の周りだけ空気が凍りついているかのような、強固な境界線が見えた。何にも寄り添わず、一人で静かに完結している美しさ。

​その時、店員が愛海の注文した料理を運んできた。

「お待たせいたしました、タコのカルパッチョです」


​しかし、店員の手が少し滑り、オイルの取り皿がカタ、と音を立てて愛海の側に傾いた。

愛海は驚く風でもなく、ただ静かに身を引こうとしたが、その瞬間、二つ隣の席から素早く手が伸びて、その皿を受け止めた。

「おっと、危ない。大丈夫ですか?」


​飛華留だった。彼は抜群の反射神経で皿を支え、店員に「大丈夫ですよ」と微笑みかけた。そして、愛海に向かってその人懐っこい笑顔を向けた。


​「服、汚れてないですか? びっくりしましたね」


​愛海は一瞬、凍りついたように動きを止めた。自分のパーソナルスペースに、あまりにも自然に、そして温かい空気を持った人間が侵入してきたからだ。

しかし、彼女はすぐにいつもの鉄面皮を取り戻し、小さく一礼した。


​ 「……ありがとうございます。助かりました。服は大丈夫です」


​その声は冷たく、明確な距離を感じさせるものだった。普通の男なら、ここで「冷たい人だな」と諦めるか、あるいは気まずそうに身を引くところだろう。

しかし、他人の感情に敏感な飛華留は、彼女の冷たさが「悪意」ではなく、自分を守るための「警戒」であることを見抜いていた。そして、その頑なな態度が、どうしようもなく彼の心を惹きつけた。


​「良かった。いや、せっかくの美味しい料理が台無しになったら悲しいですからね。……あ、僕、朝倉っていいます。すぐ近くのIT企業で働いてて。仕事終わりに、ちょっと一杯だけと思いまして」

​「……笠木、です」


​拒絶すべきだと、愛海の理性が警鐘を鳴らしていた。しかし、飛華留の瞳にある濁りのない温かさと、その奥に隠された微かな孤独の匂いが、彼女の言葉をせき止めた。


「笠木さん、ですね。……うん、なんだかその凛とした雰囲気にすごく合ってる。もし良ければ、そのカルパッチョのお礼に、次の1杯僕に奢らせてくれませんか?」


​飛華留はいたずらっぽく笑った。その屈託のない笑顔に、愛海の胸の奥で、カチリ、と小さな氷がひび割れるような音がした。

これが、二人の歪で、切ない物語の始まりの音だった。

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