第11話 天と地を見据えて~天主の夢
天正九年、夏の終わり。
安土城の天主にて、森蘭丸と弥助は織田信長の傍らに控えていた。
信長は、机上に積まれた夥しい数の書類に次々と目を通し、流れるような筆さばきで決裁を終えると、ふうと短く息を吐いた。
手が空いた信長は、開け放たれた高窓から外の景色をじっと見つめ、時折、綺麗に整えられたあごひげを撫でている。その切れ長の瞳には、いつもの鋭さに加え、どこか遠い世界を焦がれるような、物憂げな色が漂っていた。
「弥助」
不意に、信長が低い声でその名を呼んだ。
「はっ」
弥助は、鍛え上げられた巨躯を微動だにせず、主君の言葉を待つ。
「そなたは……己の故郷を、今も覚えているか」
信長の静かな問いかけに、弥助の脳裏には、一瞬にして灼熱の太陽、地平線まで続く広大なサバンナ、そして生まれ育った村の風景が鮮やかに蘇った。家族の温かい肌のぬくもり、友の笑い声、雨が降る直前の独特な土の匂い。遠い異国の記憶は、日の本の暮らしに馴染んだ今も、決して色褪せることはなかった。
「はい、上様。忘れることなど、ございません」
弥助は促されるまま、信長に向けて故郷のサバンナのありようを語り始めた。そして、この日の本には存在しない、驚くべき獣たちのことも。
「上様、日の本で『獅子(しし)』と呼ばれ、絵画や唐獅子牡丹などで描かれている空想の獣は、私の故郷に実在いたします」
弥助は蘭丸から紙と筆を借りると、さらさらとライオンの姿を描き写していった。
「猫の体をそのまま、安土の馬ほどに大きくしたような動物で、恐ろしく獰猛にございます。鹿や猪、牛などを容易く捕らえて喰らいます。人間とて、槍を持たねば簡単に倒され、餌食となってしまいます」
「ほう、あれがまことに実在するか」
信長が身を乗り出す。弥助は次に、別の紙に妙に首の長い獣の絵を描いた。
「これは『ジラファ(キリン)』という、大変背の高い獣にございます。馬の胴体を一回り大きくし、天にも届くかのように長い首を持っております。あまりに高いため、並みの獣が届かぬ大木の梢の葉を食べるのです。その歩く姿は、さながら動き回る『塔』のようでございます」
横で絵を見ていた蘭丸が、不思議そうに首をかしげた。
「弥助、それほど首が長くては、風が吹いたり走ったりした際に、簡単によろめいて倒れてしまうのではないか?」
弥助は蘭丸の素朴な疑問に微笑みながら、首を振った。
「いえ、蘭丸様。ジラファの四本の脚は丸太のように頑丈で、立つ時は四方に大きく広げて大地を踏み締めるのです。ゆえに、滅多なことでは倒れません」
さらに弥助は、美しい縞模様のある馬の絵を描いた。
「こちらは『シマウマ』。姿は馬にそっくりですが、全身に黒と白の見事な縞模様をまとっており、群れをなして草原を駆け抜ける様は、息をのむほど優雅にございます。されど、その気性は野生そのもので、決して人が背に乗ることを許しません」
信長は子供のように目を輝かせ、弥助の話を食い入るように聞き入っている。
そして最後に、弥助は最も大きな紙を広げ、ひときわ巨大な獣を描いた。
「そして……カフルの地で、真に最も大きく、最も強い王たる獣を『イルファント(象)』と申します。その体躯は……上様、この安土城の天主の、六層と七層を合わせたほどにございます。まさに、歩く山にございます」
弥助は両手を限界まで大きく広げ、その巨大さを表現しようとした。
信長は珍しく目を丸くした。
「歩く、山、か……。想像を絶する大きさじゃな」
「はい。その皮膚は鎧のように厚く、並みの弓矢や刀では傷一つつけられません。顔の両側からは白く長い牙が突き出ており、これが城門をも突き破る強力な武器となります。何より奇妙なのは、顔の中央から伸びる長い『鼻』にございます。これは人間の手のように自由自在に動き、大木を掴んで引き抜くことも、川の水を大量に吸い上げて口に運ぶこともできるのです」
「ほう……!」
信長は思わず感嘆の声を漏らした。
「さらにイルファントは非常に賢く、群れをなして互いの仲間を労わり、危険を察知する能力にも長けております。大変に長生きで、中には百年以上を生きるものもいると聞いております」
「うーむ……」
信長は深く腕を組んだ。
「カフルの地……。世界には、そのような人知を超えた獣たちが平然と闊歩しておるのか」
「よし、弥助。来い」
信長は突然立ち上がると、普段は側近であってもあまり昇らせることのない、天主の最上階へと弥助を連れて行った。
最上階の回廊に出ると、遮るもののない夏の絶景が広がっていた。眼下には青く煌めく琵琶湖、そして遠くの山々が連なっている。
信長は、湖の先にある地平線を力強く指差した。
「見よ、弥助。あの山の向こうに、広い海がある。その海の遥か先に、そなたの故郷があり、さらにその先へと世界は続いておる。わしはこの小さな島国を平らげた後、必ずや巨大な船を建造し、大洋へ漕ぎ出すつもりじゃ。そして、そなたが見てきたその広大な世界を、この目で確かめてみせる」
それは、日の本の誰も思い描かない、天下人の壮大な夢であった。
弥助は胸が熱くなるのを感じ、深く頭を下げた。
「上様が私の故郷においでになれば、これ以上の光栄はございません! その時は、この弥助が道案内を仕ります。いつかきっと、その機会が訪れると信じております」
弥助が嬉しそうに微笑むと、信長もまた、満足げに不敵な笑みを浮かべ、遥か遠きカフルの地に思いを馳せるように遠い目をするのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます