第11話
第11話 王太子アレクシス前編
王宮の執務室で、書類に目を通していた王太子アレクシス・ルーヴェンは、副官からの報告を受けた時、思わず苦笑した。
「リリアナ・フォン・エルヴェルムが変わった、ですか」
副官は真面目な表情で頷いた。
「はい。公爵令嬢が、最近、使用人に優しく接しているという報告が上がっておるのです。侍女エマが、泣きながら感謝していたとも」
アレクシスは、軽く笑い飛ばした。
「まさか。あのリリアナが?」
彼が知るリリアナ・フォン・エルヴェルムは、どういった人物か。
冷酷で傲慢。自分の地位を当然のものとして受け入れ、周囲の者を見下すことに慣れきった令嬢。王宮中で氷の公爵令嬢と呼ばれるほどの悪評を背負っていた。
それがリリアナに対する、王宮全体の共通認識だった。
そしてアレクシス自身も、彼女を婚約者として最低限の義務を果たすべき相手としか見ていなかった。婚約は家同士の政略結婚であり、個人的な感情など存在しないはずだったのだ。
その報告を聞いた時点で、アレクシスは何かの違和感を感じていた。
「エマが、涙を浮かべながら?」
侍女のエマは、良い子だ。利発で真面目に仕事をこなしている。同時に非常に傷つきやすく、リリアナの厳しい言葉で何度も泣いているという話も聞いている。
「それが、今回は違うようです。お嬢様が優しく声をかけてくださったと、感動して語っていたと。信じられないことですが」
副官ですら信じられないと言っている。
それほどまでに、リリアナの変化は異例なのだ。
あのリリアナがかと疑う。
その時点で、王太子の心には、わずかな好奇心が灯った。
◆
実際に会ってみると、アレクシスは言葉を失った。
応接室に入ってきたリリアナは、まるで別人だったのだ。
彼女は、深く礼をした。
身のこなしは、王族の前での最高の敬意を示していた。
「お忙しい中、こちらへお越しいただきありがとうございます、殿下。お会いできて光栄でございますわ」
声は柔らかく、丁寧だった。
以前のリリアナなら、婚約者である王太子の来訪を当然と受け止め、高圧的に応じるはずだった。それが貴族としての正しい態度だと、彼女は信じていたのだろう。
今、目の前にいるリリアナは、完全に違う。
媚びも感じない。打算も感じない。ただ、静かで、誠実でどこか必死なようにも見えた。
これは、何だろうかと疑問になった。
アレクシスは、彼女の瞳を見つめた。
以前のリリアナの瞳は、冷たく澄んでいた。他者を見下す傲慢さが、その奥に隠れていた。
今、その瞳に映るのは違った。
澄んだ青紫色。冷たさもない。傲慢さもない。
ただ、静かで、何かを必死に守ろうとしているような表情。
演技ではなのかと思うもわからない。
アレクシスは人を見る目に自信がある。
王太子として、数多くの貴族や使者たちの仮面を見抜いてきた。外交の場では、みな自分たちの利益を守るために最高の顔を作る。
どんなに上手い演技でも、必ず綻びがあるもなの。瞳の奥に、本当の感情が映ることがあるのだ。
今のリリアナには、そうした仮面が感じられない。
それが、余計に違和感を生んだ。
「君が、使用人に優しく接したと聞いた。エマという侍女が、涙ながらに語っていたぞ」
アレクシスは、直接的に問いかけることにした。
リリアナは、微かに目を伏せた。
「いえ、わたくしはただ皆様にご迷惑をかけないよう、気をつけているだけですわ」
曖昧な返答だ。その返答の中に、本当の誠実さを感じた。
「殿下に誤解されるようなことは、もうしたくありませんの」
その言葉を聞いた時、アレクシスは思わず息を呑んだ。
「誤解」
それは、自分の行いを省みるという行為だ。
以前のリリアナなら、決して口にしない言葉だ。自分が誤解を招いたことを認め、それを改めたいと思う。その思考自体が、彼女にはなかったはずだ。
いつから、こんな表情をする人だったのかと思う。
アレクシスは、ふと気づいた。
リリアナが、実は非常に魅力的な人間なのではないか、ということに。
その瞬間、アレクシスの心の中で、何かが静かに、確実に動き始めた。
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