第4話 コンビニの酒棚
数日後、散歩の時間にエミリが言った。
「ちょっとコンビニ行かない?」
病院の敷地の周りを歩く許可は出ていたが、コースは決まっている。勝手にコンビニへ行っていいわけではない。環はすぐに首を振るべきだった。けれど雨の匂いと、病棟の空気に詰まった感じが、その日だけ妙に耐えがたかった。
「すぐ戻れば平気だって」
エミリはそう言って歩き出した。祐介は困った顔をしたが、結局ついてきた。環も遅れて続いた。
ロードサイドのコンビニは、病棟から歩いて数分の場所にあった。自動ドアが開くと、店内の蛍光灯が眩しかった。揚げ物の油の匂い、甘いパンの匂い、芳香剤の匂い。病棟にはない匂いばかりだった。
祐介はお菓子の棚の前で立ち止まった。エミリは外の喫煙スペースへ行き、ポケットからリストバンドを取り出して腕につけた。Nikeの黒いリストバンドだった。彼女はそれをつけると少し嫌そうな顔をした。
「これ、きもいんだよね。締めつけが」
そう言いながら、彼女は煙草に火をつけた。
環は雑誌コーナーの前に立っていた。大丈夫だと思っていた。コンビニくらい、普通に歩ける。普通の人間みたいに、何かを買って、病棟へ戻ればいい。
けれど、視界の端に酒の棚が入った。
冷蔵ケースの中に缶が並んでいる。ビール、ハイボール、チューハイ。見慣れた色とロゴ。環の喉が一瞬で乾いた。身体の奥から熱が上がってくる。手が震え始める。
一本だけ。
その言葉が、頭の中に浮かぶ。
一本だけなら、という声がする。飲んだらどうなるかは分かっている。シアナマイドを飲んでいる。危険だ。分かっている。分かっているのに、足がそちらへ向く。
「はい、アウト」
背後から腕を掴まれた。エミリだった。彼女はもう煙草を消していた。リストバンドをつけたまま、環の身体を酒の棚から引き離す。
「顔やばい。出るよ」
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔してる」
エミリは祐介を呼んだ。
「おにーさん、パン買ってきて。甘いやつ。いっぱい」
「パンですか」
「そう。早く」
祐介は慌てて棚へ向かった。環は店の外へ連れ出され、軒下でしゃがみ込んだ。雨がアスファルトを濡らしている。喉が渇く。胸が痛い。飲みたい、という感覚が、身体の中を暴れている。
「甘いもの……」
自分の声とは思えないほどかすれていた。
「何でもいいので、甘いものが」
祐介がレジ袋を抱えて戻ってきた。あんパン、ジャムパン、チョコデニッシュ。環は袋を受け図ると、包装を破って口へ押し込んだ。味はよく分からない。ただ甘い。砂糖と小麦粉の重さが喉を通る。酒ではない。酒よりはましだ。そう思いながら、環は噛みきれないパンを水もなしに飲み込んだ。
エミリは少し離れたところで煙草を吸っていた。祐介は何も言わず、レジ袋を持って立っている。誰も慰めなかった。そのことが、環にはかえって助かった。
病棟へ戻ると、エミリがそのままナースステーションへ環を連れて行った。
「この人、ちょっと不穏。頓服いると思う」
看護師が環の顔を見る。
「環さん、ざわざわする?」
「……はい」
「リスパダール出しますね」
看護師は細長い小さな包装を取り出した。中には、とろみのある透明な液体が入っている。環は切れ目からそれを開け、舌の上へ直接垂らした。苦味が広がる。甘さでは隠せない薬の味が、舌の奥と喉に張りついた。水を飲んでも、しばらく残る。
「部屋で休んでください」
「はい」
環は病室へ戻り、靴だけ脱いでベッドに横になった。カーテンを閉める力もほとんど残っていない。しばらくして薬が落ち始めると、さっきまで酒の缶の色に支配されていた頭が少しずつ鈍くなっていった。考えが繋がらなくなる。感情の端が丸くなる。身体が重くなる。
雨の音だけが残った。
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