第5話 ようこそ、三百年後の世界へ

「とりあえず、ここを出よう」


 床に転がっていた魔力提灯を拾い、柄を軽く叩く。消えかけていた青白い火が、弱々しく息を吹き返した。


 倒れた三体へ目を向ける。


 胸元の魔力炉には、もう光が戻っている。穢れた血も巡り始めていた。意識を取り戻すまでには、まだ時間がかかるだろう。


 今のうちに離れれば大丈夫だ。


 そう判断して立ち上がった瞬間、脇腹に鋭い痛みが走った。


「っ……」


「リンネー様」


 身体が傾くより早く、エリシアの腕が僕を支えた。


 細い肩へ体重を預けても、彼女は少しも揺らがない。


「歩行状態を解析。右胸部に損傷の可能性。負荷の軽減を――」


「そこまでひどくないよ。たぶん」


「根拠を確認できません」


「……じゃあ、しばらく支えてもらってもいいかな」


「かしこまりました」


 エリシアは僕の腕を自分の肩へ回し、もう片方の手を背へ添えた。丁寧ではあるけれど、触れ方にはためらいがない。負傷者を運ぶための、正確な動作だった。


 僕たちは砕けた鎖を踏み越え、地下牢の出口へ向かう。


「リンネー様」


「なんだい?」


「先ほど、あの個体は私を封印指定個体と呼称しました」


 硬い靴音が、ひとつ止まった。


「私は、なぜ封印されていたのですか?」


 魔力提灯の火が揺れる。


 答えは知っている。


 けれど、目覚めたばかりの彼女へ、そのすべてを一度に背負わせる気にはなれなかった。


「話すよ」


 エリシアを見る。


「ただ、今じゃない。まずはここを離れよう。君にも、少し落ち着く時間が必要だ」


「回答の保留、ということでしょうか」


「うん。ごめん」


「謝罪は不要です」


 声は変わらない。それでも彼女は、それ以上問いを重ねなかった。


 再び歩き始めてから、僕はふと思い出す。


「それと、さっきみたいな声なんだけど」


「内部処理音声でしょうか」


「たぶん、それ。できるだけ外には出さないようにできる?」


「理由を要求します」


「君の正体を、近くのホムンクルスに気づかれるかもしれないから。僕に伝える必要があることだけ、声にしてほしい」


 淡い水色の瞳の奥で、青い光が一度瞬いた。


「了解しました。内部処理音声の外部出力を抑制します」


「お願いするよ」


「ただし、リンネー様の生命に重大な危険が迫った場合は、防衛行動を優先します」


「それは……ありがたいけど、さっきの願いも忘れないでね」


「登録済みです」


 間を置かず返され、僕は小さく息を漏らした。


 笑ったせいで脇腹が痛み、すぐに顔をしかめる。


「退避後は、どちらへ向かいますか」


「僕の家だよ。一応、帰る場所くらいは残ってる」


「安全な場所ですか」


「どうだろう。落ちぶれた家だから、狙う価値なんてもうないと思うんだけど……家柄のせいで、命を狙われることはあるかな」


 エリシアの足が止まった。


「では、リンネー様を狙う対象は私が排除します」


「殺さない範囲でね」


「私の主人であるリンネー様を守護し、かつ対象の生命を維持します」


「うん。それでお願い」


 彼女が僕を主人と呼ぶたび、胸の奥がわずかに重くなる。


 けれど今は、その言葉を訂正する余裕も、正しい言葉を探す時間もなかった。


 地下道の終わりには、崩れた階段が残っていた。


 上へ進むほど天井は失われ、瓦礫の隙間から灰色の光が差し込んでいる。


 行く手を塞ぐ大きな石塊の前で、エリシアが僕から離れた。


「少々お待ちください」


 石へ片手を添える。


 次の瞬間、人間なら数人がかりでも動かせない瓦礫が、低い音を立てて横へ滑った。


 開いた隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。


 地下に淀んでいた空気が、一息にさらわれた。


「通行可能です」


「……本当に頼もしいね」


 差し出された手を借り、最後の段差を越える。


 黒い靴の爪先が、地上へ触れた。


 エリシアは、その場で動きを止めた。


 頭上に広がっているのは、青空ではなかった。


 どこまでも重く濁った、灰色の空。


 そこから白いものが、音もなく舞い落ちている。


 ひらひらと光を受けて瞬く様は、遠目には雪のようだった。


 けれど、肌へ触れても溶けない。


 乾いた煤のように崩れ、冷たい灰色の跡だけを残していく。


「これは、雪ですか」


「違うよ」


 僕は掌へ落ちた一片を、指先で擦った。


「灰だ」


「灰……」


 エリシアが顔を上げる。


 灰の向こうには、壊れた城が広がっていた。


 塔は半ばから折れ、城壁は崩れ落ちている。広間だった場所は瓦礫に埋まり、割れた石柱と砕けた彫像が、あちこちで灰をかぶっていた。


 城門の上に掲げられていた紋章も地へ落ち、中央から二つに割れている。


 僕の一族が、かつて使っていた紋章だ。


「ここは……」


「僕の先祖が暮らしていた城だよ」


 城壁の外にも、人の姿はない。


 煙も、灯りも、生活の音もない。


 ただ崩れた大地が灰色の彼方まで続き、静かな灰に覆われていた。


 美しかった。


 雪景色と見紛うほどに。


 だからこそ、その下に埋もれているものを思うと、恐ろしかった。


 エリシアは何も言わず、世界を見つめている。


 淡い水色の瞳が、ほんの少しだけ見開かれていた。


「リンネー様」


「うん」


「経過時間を教えてください」


 銀灰色の髪へ、灰が一片降りる。


 それは雪のようには消えず、そこに留まった。


 僕は笑おうとした。


 けれど、きっと上手には笑えていなかった。


「ようこそ」


 壊れた城へ。


 灰に沈んだ世界へ。


「君が生きていた時代の、三百年後へ」

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