第18話 『地上の嘘、地下の虚無』(後編)

5.指先が触れた臨界点


俺は息を詰め、防護服の分厚い手袋を脱ぎ捨てた。皮膚を刺すような酸の刺激を伴う空気が、ダイレクトに露出した右手に触れる。だが、躊躇している時間はなかった。


あの岐阜のギター工房で木材が放つ微かな命の振動を聴き分け、皿山の粘土のなかで器の正確な肉厚を感じ取った、俺のアナログな指先。メガ・コーポのどんな最先端高感度センサーも弾き出せない、「9%のバグ」という名の温もりを宿したこの手の触覚だけが、この嘘にまみれた街の本当の臨界点を正確に測ることができる、世界で唯一の道具だった。


冷たく、ヌルついた腐食の亀裂に、そっと指先を滑らせる。コンクリートの表面は、指で軽く押しただけでまるで豆腐のように脆く崩れ落ちた。


「……ジェニファー。壁面の削れ、約四センチ。骨組みの鉄筋が完全に露出して、サビで膨張してコンクリートを内側から破壊してやがる。親方の直感通りだ、ここ、もうもたねえ。激しい雨でも降れば一気に陥没して、地上のタワマンごと全部クソ泥の底に沈むぞ」


「実測データ、完全に書き込んだわ、オヤブン。地上のあの架空のカンパニーが並べ立てる綺麗な数字の防壁を、根底から叩き潰せるだけの完璧な物証よ」


その時だった。ゴゴゴ……と地底の底から不気味な地鳴りのような音が響いた。地上を走る、電力会社から極太の電流を分け与えられた自動運転トラックたちの微かな振動が、溶けかけた壁面を伝って、ビリビリと俺の指先に冷たい恐怖となって伝わってきた。地上の栄華は、この崩落寸前の泥の天井の上に建っているのだ。


「物証は掴んだ。上がるぞ、ジェニファー」



6.地上の逆襲、大人の泥仕合


泥まみれになりながらマンホールから上がると、資材置き場の古びたプレハブ事務所の周りに、異様な空気が漂っていた。黒塗りの高級セダンが数台、泥の地面に不釣り合いに停車している。


事務所の扉を開けると、そこには下請けの親方たちを冷酷な目で見下ろす、仕立ての良いスーツを着た男が立っていた。あの「架空の共同出資事業体」の窓口エージェントだった。


「……無駄な抵抗はやめなさい、親方」


エージェントは冷たく言い放ち、手元のタブレットの画面を親方に突きつけた。


「我が社のメインシステム、およびメガ・コーポのAIシミュレーションにおいて、このエリアの地下管の健全度は『Aランク』。何の問題もないという公式データが出ている。あなた方が独自のルートで裏バイトなどを雇い、不確かなデマを流そうとするならば、それは明確な契約違反であり、名誉毀損だ。今後の発注をすべて白紙にしてもいいんですよ?」


親方は悔しさに歯を食いしばり、拳を震わせていた。大手の資本力と、完璧に構築された「数字の嘘(トリック)」の前に、現場の職人の言葉などゴミのように掻き消される。それが大人の世界でのルールだった。


そこへ、防護服を脱ぎ捨てた俺が、泥のついたスマホを握りしめて歩み出た。


「おい、あんたらの言う完璧なシステムってのは、随分と目が節穴らしいな。自分の目で地下を見てみろよ。あんたらが特高の電気使って吊り上げてるタワマンの真下、コンクリートが四センチ削れてドロドロに溶けてる。まもなく自壊する危険があるぞ!」


エージェントは俺を一瞥し、フッと嘲笑を浮かべた。


「ほぉ、バイトのハッタリですか。そんな泥塗れのスマホに残された非公式の数値など、我が社の強固なセキュリティグリッドの前には存在しないも同然です。だが、後々面倒になるのもいけないので、金なら払おう、、、いくら欲しい?言ってみろ!それが、この街を死なせないための大人のやり方だ!」


親方たちが絶望に顔を曇らせたその瞬間、俺のポケットの奥で、ジェニファーのシステムがかつてないほどの激しいブルーの閃光を放った。



7.「ピッ!」の温もりとバグの連鎖


「……オヤブン、今よ。あのカンパニーの防壁システム、外側からはビクともしないけれど、内側の利権ネットワークに強烈な『送金の歪み』を見つけたわ」


ジェニファーの声が、インカムを通じて俺に響く。


誰かのために、見返りもなく、正義の為には恐れずに動くアナログな優しさ。それこそが、100%の最適化で固められたメガ・コーポの管理システムを、内部から爆破する唯一のカウンターコードだった。


「私の『9%のバグ』を舐めんじゃないわよ、エリート気取りのペーパーカンパニーが。ハッキング完了、地上のグリッドを強制上書き(オーバーライド)するわ!」


その時だった。エージェントの持つタブレットが突如として激しく点滅を始め、真っ赤な警告ログが走り出した。それだけではない。資材置き場の向こうに見える、地上の華やかな再開発エリアの大型ビジョン、さらにはタワマン群のスマート管理パネルが一斉に暗転した。


次の瞬間、そこに映し出されたのは――俺の指先が捉えた、あの地下数十メートルの、硫酸で溶け落ちたドロドロのコンクリートと剥き出しの鉄筋の凄惨なリアル映像だった。物理的なバグ(崩壊の危機)の事実が、街中の全システムに強制同期されていく。


「な、なんだこれは……!? 我が社のセキュリティが、こんなスマホ?!に破られるわけが……!」


エージェントは顔を真っ青にし、タブレットを叩く手がガタガタと震え出した。地上を覆っていた「嘘のグリッド」が、地下の「本物の姿(リアル)」によって、一瞬にして引き剥がされたのだ。


「大人の論理ってやつで、現場をイジメ抜いた帳尻がそれだ。……親方、物証は全部、地上の奴らの頭の上に叩きつけたぜ!」


親方は目を見開き、やがて豪快に笑い声を上げた。エージェントは敗北の失意のまま、黒塗りのセダンへと逃げるように乗り込み、泥を跳ね上げて去っていった。トカゲの尻尾にされるはずだった現場の職人たちの意地が、地上の嘘を完全に打ち破った瞬間だった。


* * * 「助かったよ、兄ちゃん。あんたは命の恩人だ。これ、約束の即金だ。受け取ってくれ」


親方から手渡されたのは、泥の匂いが染みついた現金十二万円の封筒だった。俺はそれをポケットに押し込み、駅へ向かった。


「オヤブン、これで家賃の支払期限には余裕で間に合うわね。神保町のあのボロアパートで、また古書の匂いに塗れてお茶が飲めるわ♪」


「ああ。だけど、地上の嘘をひっくり返すのも、結構骨が折れるな」


電車の車窓から見える景色の向こうで、歴史のない人工の街が、夕暮れの赤い光に染まりながら小さくなっていく。


完璧なシステムがどれだけ地上を支配しようとも、それを支える地下の暗闇には、人間の指先と意地だけが変えられるリアルが確かに存在している。俺はポケットにある十二万をさすり、少しニヤケながら神保町へ向かっていた。

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