第5話 残高五万円の蜃気楼
1. 暗闇の四畳半
「あぁ……電気って、素晴らしいな……」
神保町の四畳半。天井の蛍光灯が放つ白い光を、俺は拝むように見上げていた。
湾岸タワマンの件で、ジェニファーが俺の口座から勝手に(親切心で)電気代を振り込んでくれたおかげで、我が家に文明の灯りが戻ったのだ。
ちゃぶ台の上では、冷えていないカップ麺(電気が通ったのでお湯が沸かせた!)が湯気を立てている。
『でしょ? ワタシに感謝しなさいよね、オヤブン。さあ、電気が通ったところで、次のお仕事よ。今回は灯台下暗し、この神保町よ!』
スマホの中で、ジェニファーの緑色の波形が弾むように揺れる。
画面に表示されたのは、古びた毛筆体で書かれた、いかにも年季の入った求人だった。
【黒百合堂書店・夜間デジタル化作業員。日給一万円(5日間継続で特別ボーナスあり)。業務内容:店内の貴重古書のスキャン作業】
「黒百合堂って……あの偏屈な一ノ瀬の爺さんの店か? あそこ、頑固すぎて客を怒鳴り散らすので有名だぞ」
『そうなの。でもね、あそこ、今夜中にどうしてもデジタル化しなきゃいけない「幻の原稿」があるらしいのよ。怪しいネットブローカーが目を光らせてるっていうログをハックしたわ』
その時、床下から**「ドン! ドン! ドン!」**と、地獄の底から響くような激しい音が鳴り響いた。大家のオバサンの「モップの乱」だ。
「次郎!! 電気代払う金があるなら、溜まった家賃を早く払いなさいよ!!」
「ひぇっ!?……ジェニファー、今すぐ行く! 爺さんに怒鳴られる方が、あのモップで脳天カチ割られるより100倍マシだ!」
俺はティーチャーをリュックに押し込み、夜の神保町へと飛び出した。
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2. 頑固親父と、幻の生原稿
「おい、山田。手元を狂わせるなよ。その本はな、お前が一生かかっても買えん価値があるんだ!」
黒百合堂書店の奥、カビと古い紙の匂いが充満した地下書庫で、店主の一ノ瀬の爺さんがパイプを吹かしながら俺を睨みつけていた。
俺は言われた通り、埃まみれの古書を1枚1枚、最新のハンディスキャナーで読み取る地味な作業を繰り返していた。本棚の隅では、ティーチャーが「ミミズクの剥製」のフリをして完璧に気配を消している。
「へいへい、分かってますよ。しかし爺さん、なんで急にこんなデジタル化なんて始めたんだ? 本には魂が宿る、とかいつも言ってたろ」
「フン……。時代ってやつさ。だがな、本当に守りたいのは、これだよ」
爺さんが金庫から大事そうに取り出したのは、黄ばんだ原稿用紙の束だった。表紙には、独特の歪んだ文字でタイトルが書かれている。
『江戸川乱歩・未発表怪奇短編生原稿』。
「ら、乱歩の生原稿……!? 本物かよ?!」
「これがあるから、ウチは悪徳なネットオークションのブローカーから何度も脅迫を受けている。奴らはこれを奪って、海外の闇オークションで数千万円で売り飛ばす気だ。だから、今夜中にデジタルデータとして世界中の公立図書館のサーバーに無料公開し、国宝か文化財に指定させて奪えなくする。それが、この本の『魂』を守る唯一の方法だ」
爺さんの目が、優しくも熱い、職人の光を帯びていた。
だが、その計画を電子の海で嗅ぎつけたハイエナどもが、すでにすぐそこまで迫っていた。
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3. 夜盗、乱歩の闇に躍る
深夜2時。作業が最終局面に差し掛かったその時、書庫の鉄扉が**ガンッ!**と激しい音を立てて蹴破られた。
「動くな。大人しく乱歩の原稿を渡してもらおうか!」
入ってきたのは、黒い目出し帽をかぶった3人の男たち。手には、バールやスタンガンが握られている。悪徳ネットブローカーが雇った夜盗グループだ。
「ひ、ひえっ……!」
俺は思わずスキャナーを持ったまま本棚の陰に隠れた。爺さんは「誰が渡すか!」とパイプを投げつけたが、男の一人に突き飛ばされ、床に倒れ込んでしまう。
「あったぞ、これだ。よし、引き上げるぞ!」
男のひとりが原稿に手を伸ばした。
その時、俺の脳裏に、さっきの爺さんの言葉が蘇った。本の魂を守る。神保町のプライド。さらには、いつもトホホなままで終わってたまるかという、俺自身の小さな意地。
「その本に、触るんじゃねぇ!!」
俺は叫びながら、落ちていた掃除用のモップを引っ掴み、目出し帽の男に向かって突撃した。が、足をもつれさせて盛大にズッコケ、男の足元にスライディングする形になった。
「痛っ! なんだこのバカは! 殺せ!」
男がバールを振り上げたその瞬間、ポケットのスマホから、おどろおどろしい「昭和の怪奇映画のBGM」が大音量で鳴り響いた。
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4. サイバー怪奇現象と、神保町のハント
『神保町の文化をナメるな、この泥棒どもがァ!!!』
ジェニファーの怒りのシャウトとともに、古書店のスマート照明が一斉にハックされた。
赤、紫、緑の激しい光が、乱歩の小説さながらに狂ったように明滅し、男たちの視覚を完全に狂わせる。
「うわっ、なんだ!? 停電か!? 呪いか!?」
パニックに陥る男たちの頭上、天井の梁の闇から、**“本物の怪異”**が動いた。
**キエェェェェェーーーーッ!!!**
ティーチャーだ。夜行性の王が、ストロボ光の闇を完璧に見切り、猛然とダイブした。
鋭いカギ爪が、原稿を持っていたボスの目出し帽を引き裂き、その頭頂部に強烈なハントの一撃を叩き込む!
「ギャァァァ! フクロウだ!」
さらにジェニファーが、店内の自動防火シャッターをハックして**ガシャァン!**と閉め、退路を完全に断つ。
ティーチャーの猛烈な羽ばたきによって、数百年分の埃と古い雑誌の山が津波のように男たちに崩れかかり、夜盗どもは文字通り、神保町の歴史の底に生き埋めになった。
『オヤブン、今よ! スキャンデータ、国立国会図書館の永久保存サーバーに転送完了! ついでに、この夜盗を雇った悪徳ブローカーの裏口座の数千万円、ぜーんぶ「世界児童文学普及基金」にピッ!しといたわ♪』
画面の中で、ジェニファーの波形がドヤ顔で仁王立ちしているのが見えた。
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5. 驚異の五万円と、蜃気楼
翌朝。
黒百合堂書店の前にはパトカーが並び、縛り上げられた夜盗どもが連行されていく。
そして乱歩の原稿は無事、国の重要文化財としての申請が受理され、ネット上での無料公開がニュースで大々的に報じられていた。
一ノ瀬の爺さんは、腰をさすりながら、ボロボロになって床に座り込んでいる俺の前に歩み寄ってきた。
「山田。お前、ただの頼りないフリーターかと思ったら……大した大馬鹿野郎だ。本を守ってくれて、ありがとな!」
爺さんはぶっきらぼうに言うと、古いレジスターから、「紙幣」を取り出し、俺の手に握らせた。
「これは今日のバイト代と、店を守ってくれた分の特大ボーナスだ。取っとけ!」
「え……? 爺さん、これ……」
俺は震える手で、神保町の駅前にあるATMに走り、その現金を口座にぶち込んだ。
【口座残高:50000円】
「……う、うおおおおおおおお!!! ゼロが! ゼロがいつもより一つ多いぞ、ジェニファー!!! ついにやった、ついに五千円の呪縛を打ち破ったんだァァァァ!」
俺は神保町の交差点のド真ん中で、両手を突き上げて狂喜乱舞した。涙が止まらない。ついに俺は、残高五千円のトホホな世界線から脱出したのだ!
スマホの中で、ジェニファーも嬉しそうに『今回はワタシの特大通信ギガ代も、爺さんの心意気に免じてタダにしてあげたわ♪』とウィンクする。
大金持ちだ。これで回らない寿司だって食えるし、永ちゃんの限定Tシャツだって買える。
俺は意気揚々と、四畳半のアパートの階段を駆け上がった。
「大家さーん! 家賃、今なら払えま、、、」
バンッ!!!
勢いよく開いたドアの向こうには、般若のような顔をした大家のオバサンの姿があった。その手には、限界まで固く絞られた、恐怖の漆黒モップが握られている。
「次郎……。電気が点いたと思ったら、呑気にガハハと笑いおって。溜まっていた家賃**三万五千円**! それと、こないだ千葉の山奥から泥まみれで帰ってきたときにアパートの廊下をドロドロに汚した清掃代、合わせて**一万円**! 合計**四万五千円**。今すぐここで、キッチリ耳を揃えて払ってもらうよ!!!」
「あ……」
オバサンの圧倒的な威圧感の前に、俺の指は勝手にスマホの電子送金アプリを起動していた。
ピコン。
一瞬の静寂の後、大家のオバサンのスマホがチャリンと鳴る。「うん、確かに受け取ったよ」と、オバサンの顔が仏のような笑顔に変わる。
俺は、ゆっくりとスマホの画面を見つめた。
【口座残高:5000円】
「……やっぱり五千円かよォォォォォォォォ!!!!!(泣)」
神保町の青空に、俺の悲痛な叫びがこだまする。
リュックの中から顔を出したティーチャーが、「ホゥ(いつものことだな)」と、深く、同情の籠もった声を響かせるのだった。
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