第10話 淀君と呼ばれた女への応援コメント
淀君が悪意のある呼び方というのは、その通りだと思ってます。どこからの悪意なのかというのも考えてみると興味深いんですが。
徳川家(近世だから旧幕府側と言うべきか)というのは、意外に無いかなと思ってます。何しろ茶々様は三代将軍家光公の母君お江様の姉で、伯母にあたる方なので。
どこらへんからの悪意なんでしょうね?
作者からの返信
コメントありがとうございます!
ここ、私の書き方が少し足りなかったかもしれません。
私も、徳川初期から徳川家側が積極的に「淀君」という呼称を広めた、というよりは、吉宗公以降、お江様の系統が将軍家本流から離れた近世中期以降の視線が大きいのではないかと思っています。
おっしゃる通り、茶々様は家光公から見れば伯母にあたる方ですものね。
そのあたり、本文にも少し補足しておきます!
呼び名ひとつでも、どの時代の、どの立場からの視線なのかを考えると面白いですよね。
第9話 歴史学と考古学は、似て非なるものへの応援コメント
続きが読めるのは嬉しいです。
ところで、歴史学でも史跡調査をしてるのを本で読んだことがあります。
安土城の天主のサイズについての文献資料と、実際に現地で調べてみた天主台のサイズが合わなくて、絵図から天主は天主台より張り出して作られていて、下は石積みじゃない形で支えてたんじゃないかみたいな仮説を立ててるというような話でした。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
まさにそれです!
歴史学と考古学は、完全に別々の世界というより、過去への入口が違うのだと思っています。
歴史学は基本的に、文字史料を出発点にします。
そこに何が書かれているのか。
誰が書いたのか。
いつ書いたのか。
どの立場で書いたのか。
そこから考えていく。
一方で、考古学は、遺構や遺物、現地に残った痕跡を出発点にする。
柱の跡、石垣、瓦、土層、建物跡などから、実際にそこに何があったのかを考えていく。
そのうえで、文字史料に書かれていることと、実際の現地や遺構を照らし合わせると、
「あれ、合わないぞ?」
となることがあるんですよね。
安土城の天主の話も、まさに文字史料・絵図・現地調査を突き合わせて、「では実際にはどう建っていたのか」を考える面白い例だと思います。
私も学生時代に、文字史料をもとに現地を歩いて確認する史跡調査をしたことがあるので、こういう「文字と現物を突き合わせる」話はすごく分かります。
あとがきへの応援コメント
とても面白かったのですが、悪女レッテルの話は没になったのでしょうか?
孝謙天皇、北条政子、日野富子、淀君、クレオパトラ、武則天、マリー・アントワネット、西太后……春日局や桂昌院あたりも。
面白そうな話かなと期待してたので、ちょっと残念です。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
悪女レッテルの話、気にしてくださって嬉しいです!
実は一度あとがきで締めるつもりだったのですが、先輩や友人からもリクエストをもらいまして、結局続きました!
まずは第10話で「淀君」という呼び名から書いております。
挙げていただいた方々、本当にどなたも「悪女」「傾国」レッテルの話として掘ると面白そうですよね。
ゆるく続けていく予定ですので、またお付き合いいただけると嬉しいです!
第8話 歴史上の人物、一言でまとめられがち問題への応援コメント
私の母の実家は薩摩島津家の流れで、家紋が崩し十字というのを聞いていたんですよ。殿様の家に双子が生まれたので、片方いただいたのがご先祖様との触れ込みでした。
それで、ある年に母方の従兄弟(嫡系)が夏休みの自由研究で先祖のことを調べたら、そのうちの一人が何と島津久光の母「お由羅の方」の側用人だったとのことでした。
歴史小説では大抵悪役ポジションで、正に悪女レッテルのお方の側近とか、そのご先祖様もどう考えても悪役ポジションだよなあと笑った覚えがあります。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
めちゃくちゃ分かりますwww
悪女レッテルを貼られた方の側近となると、歴史小説では完全に悪役陣営にされがちですよね。
でも、その人たちにも家があって、立場があって、その家から見た歴史があったはずで……。
まさに「一言でまとめられがち問題」だなと思います。
第3話 徳川将軍、大奥で事故るへの応援コメント
大奥の見方が変わっちゃいます!
風呂です、は分かっていてもパワーワードです!
続き、楽しみしています!
作者からの返信
コメントありがとうございます!
風呂です!は大学を卒業して大分経ちましたが、未だにネタにされてしまいます(笑)
編集済
第12話 法律に書いてあるから、守られていたとは限りませんへの応援コメント
なかなか面白かったのですが、今の法律と武家諸法度については、因果関係が逆だと思います。というか、このエッセイ読んで、初めて気がつきました。
そもそも、律令の頃から法を作っても、その通りに運用できず、令外の官を作って補完し、鎌倉幕府は慣習をかき集めて御成敗式目という慣習法を作って……という流れからして、日本人は古来から「外国の影響でかっちりした法を作る」→「結局うまく運用できず慣習法で補完する」を繰り返してきたのかなと気づきました。
武家諸法度もその流れの中で、色々改定して頑張ってきたけど、結局は公事方御定書という慣習法判例集で補完する羽目になったから、そのあとは法度の修正ではなくて判例による修正で行くことになったと。
私は法学部だったんで、一応今の法律の成り立ちは学んだんですが、欧米の法からすると変なハイブリッドなんですよ。大陸法(独仏系)はキッチリ法律を作って守らせるし、運用上問題があればキッチリ改定する。英米法は判例を積み重ねた慣習法で、運用上問題があれば判例を変更して対応する。
ところが、日本はキッチリ法律作るのに、作ったら簡単には改定せず、判例による補正で対応する。大陸法と英米法の奇妙なハイブリッドなんです。
有名な例が刑法の尊属殺人規定で、旧憲法時代に制定された「親殺しは罪が重い」規定は現憲法の法の下の平等に反するという最高裁判決が出たのが1973年だったんですが、これが改定されたのが1995年という。実にひとりの人間が生まれてから大学を卒業するまでの間、判例による補正で運用してたんです。ええ、私が1973年生まれで1995年卒なんですが(笑)。私が大学時代に習った大陸法と英米法のハイブリッド運用の実例だったんですよ。
でも、実は歴史的に見たら律令の頃からそういう運用してただけだったという(笑)。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
めちゃくちゃ面白いです!
私としては「武家諸法度も、今の法律みたいに運用しながら穴を塞いでいくものだったんですよね」という感覚で書いていたのですが、確かに見方を変えると、因果関係は逆かもしれませんね。
そもそも日本の法運用自体が、律令の頃から「かっちり法を作る」けれど、実際にはそのままでは運用しきれず、令外の官や慣習、先例で補っていく、という流れを繰り返してきたのかもしれない。
そう考えると、武家諸法度もその長い流れの中にあるものとして見えてきますね。
武家諸法度自体も、完全新作の法律というより、御成敗式目や建武式目、さらに先行する法や文献を引きながら、徳川幕府の現実に合わせて組み直していったものです。
そこから、公事方御定書のような判例・先例の蓄積へつながっていくと考えると、かなり面白いです。
尊属殺人規定のお話も、条文は残っているけれど、実際の運用では判例によって補正していく例としてすごく分かりやすかったです。
歴史学側から見ていた法制史と、法学側から見た日本法の運用がつながった感じがして、コメントを読んで「おお……!」となりました。
これはもう、コメント欄で補足していただいた内容が面白すぎます(笑)