つれられてゆく、海

バーニーマユミ

その泥濘は青く、深い

 とんだ徒花に手をかけてしまったと思う。胸にたまるのは後悔よりもむしろ、情愛に似ている感覚で俺は戸惑った。酔っていた勢いとはいえ、もう知らなかったフリはできないところまで気がつけば来ていた。

 情愛は泥濘に似ていて、目隠しのまま深い森を行くようなものだ。日が昇れど、星が瞬こうと、ここには時間の概念はなくあるのはただ、一対の男女の形だけ。いや、むしろ一対の魂かもしれない。いや、俺はただ見失っているだけか、俺自身を。

 これが惚れた弱みというものか。



 若い頃にバカみたいに戯れあった女とそのまま結婚して、なりゆきに任せているうちに別れた。未練はあまり残らなかった。女の方は知らないが、もう顔すら思い出せない。胸の小さい、歯の形がきれいな女だった。不思議とあの女のパーツを思い出すと、どうやって抱いていたか機械的に思い出す。どんなふうに悦ぶかなんてすっかり思い出せないのに。ーー女はサイレントに善がる。そういうときは大抵、俺の欲が逃げ場を求めていた。

 別にもうそんなことで熱を出すほどウブな歳じゃない。テレビで観る同年代の俳優たちならもう、当たり前に看板を張れるようになっているしーー俺だってそれなりに居場所はある。

 親父の後を継いだ眼鏡屋の仕事は食うには困らなかったが、どことなくいつも退屈に思えて仕方がなかった。俺がイチから築き上げてきた居場所ではなかったからか、情熱や愛着はなかなか居着いてくれず、客のいなくなった店内でふと我に返り、人生にため息をつく、このわずかな間だけが俺の生活の歪んだままのダブりをすっきりとさせてくれる気がした。

 俺はただ壊したかった。多分、それは俺のつまらない今を壊したかった。

 俺は何をしたい?いまさら自分に聞いても、もう青い春は遠くに消えた。もう俺は木枯らしの中にいる。



 友人のやっているバーに顔を出したのは、しばらくぶりだと言われた。

「何してた、元気にしてたのか。忘れるところだったぞ」

「…いいさ、忘れておけよ」

「何だよ、面倒だな。何にする?ラム?ビール?カクテル作るか?」

「女じゃないんだ、カクテルはいらない。ハバナクラブのロックをくれ」

「ふん、口説こうなんて思ってねえよ。楽しんでくれ」

「分かってるさ。ありがとう」

「…あ、あそこの隅に座ってる女、ツレがいないぞ」

「いいって、そんなのは」

 友人はカウンターに座る他の面々をつつきに行ってしまった。

 緩やかなアーチを描く、10人近くが座れるカウンターで、見れば壁に埋もれるかのようにボーっとしている女がいた。黒髪はあまり艶がなさそうで、キャミソールから出ている腕はパリコレのモデルでもあまりいなさそうなぐらい、とにかくカラカラに痩せていた。女の目の前には真夏の海を思わせるダイキリが少し、グラスに残っていた。酔っているのか女は座っているのがやっとのように見えた。別に女が欲しくてここに来たわけじゃない。俺が目線をズラそうとしたとき、女の隣にいたカップルらしい男の方が、さっと何かを女の飲み残しているダイキリに落とした。

 クスリか何かだろう。知らんぷりをしようと思ったーーそう見ず知らずの他人だ。だが、俺は無意識のうちに迷いなく女の背後に回り込んだ。

「飲み過ぎだ、帰るぞ」

「…え?」

 よく分かっていない女の腕を掴んで立たせる。

「フリオ、もう帰るのか?」

「女のもつけといてくれ、また来る」

「…忘れんなよ」

「今週中には来るから」

「ハイハイ」

 ひらひらと片手を振る友人に見送られ、バーを後にした。隣の男が意味ありげに睨んできたが俺は無視した。知るかボケ。



 しばらく歩いているうちに、いまさらながら、このまま素性の知れない女を家に連れて帰るのは不安に思えて目についた連れ込み宿(ポサダ)に入ることにした。女の意識がはっきりしてくれば出ればいい。この時は単にそう考えていた。

 女をベッドに寝かせ、ここまで半ば担いで歩いてきたせいでベタついた体をさっぱりさせようと俺はシャワー室に入った。

 10分もは入っていなかったと思う。やや嫌なにおいのするタオルで体を拭き、ベタついたシャツに袖を通した。

 女はベッドの上で服を脱ごうとしていた。と言っても着ているのはキャミソールと短すぎるスカートだけ。酔っているせいでもたついているがまくり上げたキャミソールの下からは小ぶりな乳房がすぐに顔を出していた。

「…そんな気分じゃない。違うんだ、君の横にいた男が君のグラスに何か入れていた。だからあそこを出ただけで、別に俺は君とどうこうしようというつもりはないよ」

「…シャワー、浴びたでしょ」

 女は妙なイントネーションで話した。顔にまとわりついていた髪をかきわけて、覗けば女がどこかよその国の女だと思った。少なくともキューバ人ではない。どこかアジアか、あまり日焼けしていない肌は飲んでいたわりには青白く、生気を欠いているように見えた。

「君の酔いが覚めたら出よう」

「…こんな夜中に?」

「まだそんなに遅い時間じゃない。タクシーを呼んで宿まで届けるよ、そのつもりだ、あ、おい」

 酔っているわりには器用に女は今さっき履いたばかりのズボンの前を開けようとしてきた。びっくりして反応が遅れてしまった、女の細い指が俺の裏側を何とも中途半端に撫で上げた。

「やめなさい、そんな売春婦みたいな真似をするな」

「ほんとにそうだったら?」

「…俺はそんな気分じゃないんだ」

「…男の人の気分じゃないはアテにならない」

「お、」

 制止する間もなく女がまだ素っ気ない俺に舌を這わせた。ベッドサイドに突っ立ったまんま、俺は何とも間抜けなぐらいすぐに前言撤回だと無言のままに告げることになった。

「ねえ、しよう」

「…いや、」

「ビョーキなんかないから、私」

「いや、そういうことじゃなくて」

 暑いせいだ、女の化粧は乱れいて、口元は俺のせいで濡れていた。ビョーキなんかない、そう言いながらも女の手は手慣れたふうに動いている。とんでもない藪蛇に絡まれているらしい俺は、だんだんとどうでもよくなって来ていた。ゴムがないだとか、知らない女とはする気にはなれないだとか、ごく当たり前にあったセオリーの堤防を女は簡単に崩してきた。いや、俺のセオリーなんてものがこれっぽっちの軽石みたいなもんだとは思いたくはない。青い葉が枯れて散るぐらいには生きている、そんな俺がこんな小娘のいいようになってたまるかよ。

 女の赤い口が俺を咥え込んで吸い付いたまま、緩やかに動いた。俺の頭の中で小さく火花が散った。

「知らないからな、お前なんか」

「今日だけ…ね」

 女の肩を押す。ヒールの高いサンダルを履いたままの足を押し広げて何も考えずに腰を打ちつけた。女の声が妙に遠くに聞こえた。よその国の女ってのはこんなふうに善がるのか。俺はぼんやり思ったが何度か打ちつけるうちに、すぐに頂上が見えてきた。女は何語かを繰り返し、サンダルを履いたままの足で俺に巻きついてきた。

 しばらくぶりの曇天が晴れ、目の前には女の物足りなさそうな顔があった。

「もう1回」

「…その気にさせろ」

「いいよ」

 もつれ合って朝を迎える頃には俺は女を質問攻めにしていた。初めてじゃないんだ、大人なんだからもうちょっとカッコつけてもいいのに。女の名前はナミコらしい。ほとんどカタコトのスペイン語しか話せない、女の口からはっきりと分かったのはそれだけだった。それから女は履いたままだったスカートが濡れて気持ち悪いと恥ずかしそうに笑った。酔いはすっかり覚めたらしい。

 しかし今度は俺が酔っている。ーー久々に連れられて泳いだ大海原は俺には青すぎて、深すぎて鮮烈だった。

 この一夜がただの徒花になるにはどうにも名残が惜しく、もはや渇くことを忘れた泥濘にまたずっぽりと浸かった。

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