第2話 十二文
「渡し賃は六文です。現金はお持ちですか?」
「あら驚いた。現代の硬貨をご存知?」
「あー…………確かに」
早朝、日が上りきらないうちに散歩をするのが日課だ。歳をとって、やけに朝早く目が覚めてしまう事が増えたけれど、朝の冷えた空気と朝靄、音の無い静かな世界は気に入っている。
さて、そろそろあの子の声が聞こえてくるはず……。
「あら……」
あたりを見回して、周りの景色が見覚えの無いものだと気づく。
濃い霧でほとんど周りは見えず、グレーの丸石のような砂利が足元で音を立てた。
ふわっと風が吹いて視界が僅かに開けると、川縁に丸い背中が見えた。
「おはようございます、道に迷ったのかしら……ここはどこかご存知?」
「道に迷ってなどいませんよ。最上ゆきこさん」
振り返れば可愛らしい女の子だった。
木の枝に糸を結んだだけの釣り竿で釣りをしているらしかった。
「私は三途の川の渡守。あなたを冥府へお送りしましょう」
ぼろぼろの麦わら帽子に着古したTシャツと短いズボン。足元はペラペラのサンダルで剥き出しになった太ももと相まって冷え冷えとして見える。綺麗に梳かれた髪と可愛らしくお化粧した顔がなんだか凸凹だった。
「あら、私死んじゃったのね」
不思議と納得してしまった。
そういえば着ているのはシルクのパジャマだし、足元はルームシューズだった。
寝ているうちに逝ってしまったようだ。
「渡し賃は六文です。現金はお持ちですか?」
「あら驚いた。現代の硬貨をご存知?」
「あー…………確かに」
女の子は頭を抱えて項垂れてしまった。心なしか、釣り竿も萎れて見える。
「あらあら……ごめんなさいね。でも、そもそもこの格好だし、お金は持っていないのよ」
「うーん、そうですよねぇ。何がしか払って頂いたらそれでいいんですけど……」
かわいそうに困らせてしまった。
なんだか何かしてあげたい気持ちになってルームシューズを脱いで彼女に履かせた。
戸惑って変な声をあげているが気にしない。女の子に冷えは大敵よ。私にはぬくぬく靴下がある!
「え、すごいふかふか……お高いんでしょう?」
「ふふ、お高いわね」
そう言えば、彼女の空気もやわらいだ。
「払えなかったらどうなるの?」
「その辺の石ころになりますね」
「あらぁ……」
深い霧でそう遠くまで見渡せる訳でも無いけれど、あたりは石ころだらけだ。
これだけの人が、思いを残してこの地に留まっている……。
「PayPayでも導入すればいいんじゃないかしら?」
「最上さん、意外とお若い」
お役所仕事なんで、そんなもんなんですよぉ。そう言ってまたしおしおと項垂れる女の子が、なんだか可愛らしく見えてきて思わず笑ってしまう。
「あら、もう80も間近のおばあちゃんよ」
「全く見えませんね」
「ふふ、子育てをしなかったからかもしれないわね」
結婚はしたけれど、子宝には恵まれなかった。
「それはお寂しい」
「そうでも無いのよ。そこそこ大きな会社を創業したから、それが子供みたいなものね」
かつての夫はそんな私が気に入らなくて、いつの間にか側にはいなかった……。
「へぇ」
「あら、気のない返事をするのね」
「うっ……面目ない」
「ふふ、いいのよ。人と話すのは久しぶりなの。おばあちゃんの独り言だと思って聞いてちょうだいな」
小さな会社を大きく育てていった。
少ない社員と家族のように手を取りながらがむしゃらに働いた。
いつの間にか顔も知らない社員が何百もいるようになっていって……家族のような社員達とは疎遠になっていった。
「やっぱり寂しいのじゃないですか?」
「……そうね。最後には後継者選びを間違えて会社も取られちゃったし」
疎遠になった社員たちのそばに居たのは若い役員だった。奪われるように、会社は私のものではなくなってしまった。
「……恨んだのではないですか?」
「最初は少し……でも、ゆっくりと人生を眺める時間を持てたわ」
個人の不動産や権利を処分して、田舎に戸建てを買って移り住んだ。
鳥の声で起きて、朝日が昇るのを見ながらお散歩。読もうと思って積んだままになっていた本をゆっくり読んで、丁寧に食事を作り、食べる。日が暮れたら、のんびりとお風呂に入って、穏やかに眠る。
そんな時間の中で、忙しく過ごしていた時間を振り返る事ができた。
「会社は取られちゃったけど、彼は優秀よ。社員が路頭に迷うこともない。私は土台を作り、次に手渡せた……案外満足できるのよ」
嘘なんて一つもない。頑張ってきた時間はきちんと形として残っている。
「おや珍しい。未練が無いとおっしゃるんですか?」
「そうね……一つだけ」
「ほう」
「私ね、ボーイフレンドがいるのよ」
「ブッ!!」
女の子が盛大に驚いて口と鼻からとんでもない飛沫が飛んだ。あんまりにもおかしくて、声を立てて笑ってしまう。
「ふふっ……っははは!あなた酷い顔よ!」
「だって!急すぎる!」
乱暴に顔を拭うものだから鼻が真っ赤になっている。
なんて可愛い渡守さんかしら。
「ふふふ……彼はきっと、六文銭なんて持ってやしないわ。ここに来たら、川を渡れずに石ころになっちゃうかと思うと気がかりなの」
「ふむ……」
腕を組んで考えてる渡守さんと一緒になって私も頭をひねる……。
「――そうだわ。ねぇ、私が石ころになったら、それを六文銭の代わりに受け取ってくれないかしら?」
「へ!?」
「私、自分の人生は精一杯生きたから、思い残す事は無いわ。そんな珍しい人の石よ?」
私を六文で買ってくれるならば、本当になんの未練も無い。
「……いいんですか?石ころになっても、誰かが気まぐれで渡し船に乗せてくれたら渡れるかもしれませんよ?」
そう言われて、ほんの少しだけ考えた。
長い時間を生きて、手を抜いた事などない。
どうにもならなかった事だってあったけれど……長い時間の中で角は削がれて、全てが満足いくものに思える。
私はやるだけの事をやった。
「生まれ変わるならそれはもう私では無いもの。私の命なら、私が使い切りたいわ」
この命の最後に使い道があるのなら、ささやかなわがままでいい。
「……いいでしょう、あなたが石ころになったなら、それを対価にボーイフレンドさんを確かにお渡しいたします」
「契約成立ね」
こうして、私の人生最後の契約は終わった。
「ところで、ボーイフレンドさんはどんな方なんです?」
「それはね――」
「こんにちは、私は三途の川の渡守。あなたを冥府へお送りしましょう」
「にゃ〜」
ずんぐりした三毛猫が最上さんのボーイフレンドだった。
「どれ、失礼しますよ」
猫さんを抱き上げれば、立派な男子のシンボル。間違いない。
「いや〜三毛猫のオスはたいそう珍しいらしいですよ〜ってイタタタァ!!」
「シャーーーー!!!!」
鼻の頭に思いっきり爪をたてられてしまった。
そういえば最上さんも抱き上げた事は無いって言ってたな。
朝、お散歩してると声をかけてくれるのよ。
ご飯が欲しいのかと思ったけど、ただ一緒にお散歩してくれるだけで家にも入ろうとしないの。
でも、天気のいい日に外で日向ぼっこをしていたら、いつのまにか隣で寝てたりするの。
日が影ってきたら、袖を咥えて日向に引っ張って行こうとするのよ。
何を気に入ってくれたのか知らないけれど……ご飯はもちろん。お水さえ私から受け取ったりしなかったわ。
ただ、側にいてくれたの。
穏やかに笑う最上さんを思い出した。
よく見れば三毛猫さんの鼻先には古い傷跡があった。深い毛皮に隠れているけど、他にもあるだろう。彼も猫一匹、見事に生きていたんだ。
なんだか最上さんと重なった。
「ほら、最上さんですよ。最後のお別れをしてあげて下さい」
最上さんは小さな、真っ白でつるりとした石になった。
三毛猫さんはすんすんと匂いを嗅ぐと――。
「あなた、なんて顔してるんです」
口を開けて固まった。
猫さんは特定のフェロモンに反応してこんな顔をするらしいと最上さんからは聞いていたけれど、ずいぶん間抜けで笑ってしまう。
きっと、石になった最上さんも笑っている。
背後で小さな水音がして、船がついたのがわかった。
「さぁ……行きなさいってわぁ!!」
三毛猫さんはそのずんぐりした体に見合わぬ素早さで最上さんの石を咥えると、トンっと船に乗り込んだ。
客が乗り込めば、船は勝手に彼岸に向かう。
「あっ!こら!乗り逃げだー!!」
思わず声を上げるけれど、三毛猫はにゃおうと低く鳴いて足元を見ていた。
あ、ルームシューズ。
これは一本取られた。
二人分で十二文よりずっとお高い事だろう。
晴れ晴れとした気持ちで二人の出立を見送った。
「あなた方の次の生に幸多からん事を……!」
乾杯するような声色で声を上げた。
最上さん、天晴れな引き際である。
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