第三十話 「拾われた日から、ここが全部だ」

語り手:ぶち(黒白・♂・推定7歳)&ミックスたち


 俺は野良だった。


 生まれたときから外にいた。雨の日も、寒い日も、腹が減った日も、全部外で過ごした。どこかに属したことがなかった。どこにも、誰にも。


 名前もなかった。


 俺がぶちという名前になったのは、ここに来てからだ。

 黒白のブチ猫だからぶち。


 おじいさんの名前は、せがわやすじ(瀬川泰次)という。


 七十三歳で、元は郵便局の職員だったらしい。今は家にいることが多い。

 庭の手入れをしたり、本を読んだり、将棋の本を眺めたりしている。

 口数は少ない。でも、俺に向かっては割とよく話しかける。


 おばあさんの名前は、せがわきよこ(瀬川清子)という。


 七十一歳で、料理が得意だ。毎日三食、きちんと作る。

 俺のご飯も、キャットフードだけじゃなくて、時々手作りのものが加わる。

 魚を水で煮たやつとか、鶏肉を湯がいてほぐしたやつとか。俺はそれが好きだ。


 俺がここに来たのは、三年前のことだ。


 パンデミックがあって、街から人が減って、外は静かになった。俺にとっては、人間が減ったぶん、縄張りを争う相手も減って、少し楽になった時期だった。


 でもある日、足を怪我した。


 どこかで切ったのか、ぶつけたのか、気づいたら右の後ろ足から血が出ていた。歩くと痛かった。でも外では、痛くても歩かないといけない。食べないと死ぬから。


 そこをやすじさんに見つけられた。


 やすじさんは、俺を見て立ち止まった。


 俺は逃げようとした。人間は怖いものだと、長年の経験で知っていた。でも足が痛くて、うまく逃げられなかった。


 やすじさんがしゃがんだ。


 俺はうなった。来るな、という意味だ。


 やすじさんは来なかった。しゃがんだまま、じっとこちらを見ていた。しばらくそのままでいた。


 それから立ち上がって、家の中に入って、何かを持って戻ってきた。


 魚の切れ端だった。


 俺の前に置いて、また少し離れたところで待った。


 俺は警戒しながら、でも腹も減っていたから、食べた。


 それが最初だった。


       *


 その日から、やすじさんは毎日、同じ場所に食べ物を置くようになった。


 俺は毎日食べに来た。少しずつ距離が縮んだ。俺が近づくのを許すようになったのは、一ヶ月くらい経ってからだ。


 ある雨の日、やすじさんが「入るか」と言って、家の扉を開けた。


 俺は入らなかった。外が好きだった。


 次の日も、やすじさんは扉を開けた。入らなかった。


 それが何日か続いた。


 ある夜、大雨が降った。どこにも逃げ場がなくて、足もまだ少し痛くて、俺は扉の前に来た。


 やすじさんが気づいて、扉を開けた。


 「来たか」と、やすじさんが言った。責めるでもなく、喜ぶでもなく、ただそう言った。


 俺は中に入った。


 暖かかった。


 そのまま、ここにいることになった。


 やすじさんときよこさんは、保護猫活動をしている人たちだった。


【ミックス1】あたしが来たのは、もう少し後の話。

【ミックス2】おれはぶち先輩がいる家に、あとから来た。

【ミックス3】わたしは、近所で保護活動をしてたきよこさんに連れてこられた。

【ミックス4】おいらはもともと捨て猫だった。

【ミックス1】やすじさんが「また増えたのか」って言った。

【ミックス2】でも追い出さなかった。

【ミックス3】きよこさんが「この子たちも縁があるから」って言ったら、やすじさんが「まあ」って言った。

【ミックス4】「まあ」はOKってことらしい。

【ミックスたち】ぶち先輩に教えてもらった。

【ぶち】俺もここに来たとき、同じようなことを言われた。「まあ」は、やすじさんのOKだ。


       *


 今日も、朝から普通の日だった。


 やすじさんが庭に出て、草むしりをしていた。俺は縁側から見ていた。


【ミックス1】あたしは縁側であたしを温めてた。

【ミックス2】おれは台所で、きよこさんの邪魔をしてた。

【ミックス1】邪魔してたの?

【ミックス2】足元にいただけ。

【ミックス1】それ邪魔じゃない?

【ミックス2】きよこさんは怒らなかったから、邪魔じゃない。

【ミックス1】なるほど。

【ミックス2】きよこは優しいよな。


 やすじさんが草むしりを終えて、縁側に戻ってきた。


 「ぶち、暑いか」と、やすじさんが言った。


 少し暑い、と俺は思った。でもここが好きだから、いる。


 やすじさんが俺の隣に腰を下ろした。麦茶を飲んだ。


 「今日もいい天気だな」と、やすじさんが言った。


 そうだな、と俺は思った。


 やすじさんはよく、俺に話しかける。

 返事が来ないのはわかっているのに、話しかける。

 俺はそれをずっと不思議に思っていたが、今はわかる気がする。声に出すことで、自分の中にあるものが整理されるんだろう。


 俺も昔、外にいたとき、鳴くことがあった。誰もいないのに鳴いた。それと同じだ。


       *


 昼過ぎに、きよこさんが「やすじさん、お昼よ」と呼んだ。


 やすじさんが立ち上がった。俺も立ち上がった。


【ミックス3】わたしも台所に行った。

【ミックス4】おいらはもうそこにいた。

【ミックス3】早い。

【ミックス4】ずっといたからね。


 きよこさんが俺たち三匹のご飯を用意してから、自分たちのご飯を並べた。


 「今日は冷やしうどんにしたわ」と、きよこさんが言った。


 「うどんか」と、やすじさんが言った。


 「暑いから」


 「そうだな」


 二人が食べ始めた。俺たちも食べた。


【ミックス3】きよこさんのご飯はおいしい。

【ミックス4】毎回おいしい。

【ミックス3】キャットフードもおいしいけど、手作りのやつが特に。

【ミックス4】今日は何もなかった。

【ミックス3】残念。

【ミックス4】でも明日はあるかもしれない。

【ミックス3】あるといいけど。

【ぶち】お前たちは食い意地が張ってる。

【ミックス4】ぶち先輩だって、魚の日は早く来る。

【ぶち】……それはそうだ。


 食後、やすじさんときよこさんがお茶を飲んだ。


 「来年、金婚式だな」やすじさんが言った。


 「そうね、五十年」きよこさんが言った。


 「早いもんだ」


 「早いわねえ」


 俺は二人の会話を聞いていた。五十年というのが、どのくらいの時間なのか、俺にはわからない。でも、長い時間だということはわかる。


 「猫がいると、にぎやかでいいな」と、やすじさんが言った。


 「そうね」と、きよこさんが言った。「寂しくない」


 寂しくない、という言葉が、俺の中に少し残った。


 俺が外にいたころ、ずっと一匹だった。寂しいとは思っていなかった。思う余裕がなかった。食べることと、寝る場所を探すことと、寒さをしのぐことで、それだけで毎日が終わっていた。


 でも今、ここにいる。


 寂しくない、という状態が、どういうものかを、俺は今知っている。


       *


 夕方、俺は縁側に戻った。


 夕日が庭に差していた。やすじさんが丹精した庭木が、光を受けて影を作っていた。


【ミックス1】あたしも縁側に来た。

【ミックス2】おれも来た。

【ミックス1】みんなで夕日を見た。

【ミックス2】見てたっけ? おれは寝てたかも。

【ミックス1】同じでしょ、縁側にいたんだから。

【ミックス2】まあそうか。


 きよこさんが「夕ごはん、何にしようかしら」と台所でつぶやいていた。やすじさんが縁側から「何でもいい」と言った。


 「何でもいいって言うのが一番困る」きよこさんが言った。


 「じゃあ、魚がいい」と、やすじさんが言った。


【ミックス1】魚!

【ミックス2】魚!

【ぶち】……魚か。


 俺は縁側で、夕日が沈むのを見ていた。


 野良だったころ、夕日はただ「また夜が来る」という合図だった。夜は危ない。寒い。暗い。夕日を見るたびに、身構えていた。


 今は違う。


 夕日が沈んでも、ここにいる。暖かい場所が、ご飯が、やすじさんときよこさんが、仲間たちが、ここにいる。


 拾われた日から、ここが全部だ。


 外が全部だったころより、ずっと狭い場所だ。でも、狭いぶん、ぜんぶが濃い。濃くて、温かくて、毎日ちゃんとある。


 それで充分だと、今の俺は思っている。


【ミックス4】ぶち先輩、むずかしい顔してる。

【ミックス1】考えすぎじゃない?

【ぶち】考えてない。

【ミックス3】絶対考えてた。

【ぶち】少しだけ。

【ミックス2】夕日がきれいだったからかな。

【ぶち】まあ、そんなところだ。

【ミックス1】あたしもきれいだと思った。

【ミックス2】おれは寝てたけど。

【ミックス3】なんで起きてないのに「きれいだと思った」って言えるの。

【ミックス4】夢で見たからとか?

【ぶち】……お前たちは、だいたいそれでいい。


 きよこさんが「ご飯よ」と呼んだ。


【ミックスたち】ご飯!行く!

【ぶち】俺も行く。


 みんなで、台所へ向かった。


 夕日はもう、ほとんど沈んでいた。


第三十話 終


→ 第三十一話 スフィンクス

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