入学試験編
第一話 受験者
翌朝のアルカディアは、昨日よりも騒がしかった。
夜の間にさらに人が増えたのだろう。宿の前の通りには、武器を背負った若者たちが流れを作り、商人が声を張り上げ、護衛を連れた馬車が石畳を軋ませながら進んでいた。どの顔にも、どこか浮ついた熱がある。期待。緊張。自信。恐怖。それらが混ざり合い、街全体の空気を少しずつ鋭くしていた。
神聖統合学園アークスの入学試験受付は、学園区へ続く大広場で行われていた。
広場には、既に多くの受験者が集まっている。貴族らしい上等な服を着た者、革鎧に身を包んだ者、傭兵上がりのような荒い目つきの者、杖を握る魔法使いらしき者。年齢も身分もばらばらだったが、腰の武器と目の奥の緊張だけは共通していた。
ジンは広場の端から、その全体を見ていた。
胸の奥にはまだ痛みが残っている。深く息を吸えば肋骨の下が軋み、急に体を捻れば傷が引きつる。クロードから受け取った軽い片手剣は腰に収まっていたが、今の体で長く戦えるかは分からない。
それでも歩ける。
剣も握れる。
なら、試験は受けられる。
「すごい人数……」
セリスが隣で呟いた。
左腕の包帯は残っているが、動きに支障はない。腰にはクロードから贈られた細身の剣がある。彼女は広場を見回しながらも、時折、周囲の受験者の視線を気にしていた。
「これで全員?」
「今はな」
タクトが答える。
右手には導雷の指輪が嵌められている。包帯はまだ残っていたが、昨日より動きは良い。表情にはいつもの軽さを戻していたが、目だけは周囲を細かく見ている。
「今年の受験者は四百人くらいだったはずだ」
「だった?」
「ここから減る」
その言い方に、セリスの眉が動いた。
「試験で?」
「いや」
タクトは広場の中央を見た。
「始まる前に」
ジンはタクトの横顔を見る。軽い声だったが、そこに混じったわずかな硬さを聞き逃さなかった。
広場の中央には、学園の紋章が入った黒い旗が立てられ、その前に試験官らしき者たちが並んでいた。鎧姿ではない。だが、どの者もただの事務員ではなかった。立ち方、視線、腕の位置。すぐに動ける者のそれだった。
やがて、広場のざわめきが少しずつ小さくなる。
中央の壇へ、一人の男が上がった。
灰色の長衣を纏った、痩せた男だった。年齢は四十前後。表情に起伏はなく、目だけが冷たい。声を張る前から、周囲の空気がわずかに沈む。怒鳴る必要がないと知っている人間の静けさだった。
「静粛に」
声は大きくなかった。
だが、不思議と広場の端まで届いた。
受験者たちの声が止まる。
「これより、神聖統合学園アークス入学試験について説明する」
男は淡々と告げた。
「現在、この場にいる受験者は四百名。試験は第一から第三まで存在し、各試験には首席が定められる。首席となった者には、入学後の評価と一定の特権が与えられる」
その言葉に、受験者たちの空気がわずかに変わった。
首席。
ただ合格するだけではなく、上に立てる者がいる。その響きに目を輝かせる者が何人もいた。貴族らしき少年が口元を吊り上げ、傭兵風の男が肩を鳴らす。誰もが、自分がそこへ届く可能性を一瞬だけ想像する。
試験官はその反応に興味を示さなかった。
「第二試験、第三試験の詳細は、突破者にのみ告げる。まずは第一試験だ」
彼が合図をすると、係員たちが箱を運んできた。中には、黒い金属製の札が大量に入っている。札には学園の紋章と番号が刻まれ、細い革紐が通されていた。
「第一試験は、札の奪取戦である」
広場に沈黙が落ちる。
「受験者には一人一枚、札を配布する。制限時間は半日。終了時点で三枚以上の札を所持し、生存している者を合格ラインとする」
セリスの表情が固まった。
「三枚……?」
つまり、自分の分だけでは足りない。
誰かから奪わなければならない。
受験者たちも同じことに気づいたのだろう。広場の空気がざわりと揺れた。隣に立つ者を見る目が変わる。少し前まで同じ受験者だった相手が、急に札を持つ対象へ変わっていく。
「第一試験の合格予定者は百五十名。第一試験首席は、終了時点で最も多くの札を所持していた者とする」
ざわめきが大きくなる。
「三枚でいいんだろ?」
「多く集めた方が評価されるってことか」
「百五十人なら、半分以上は落ちる」
「いや、三枚必要ならもっと削れるだろ」
声が重なる。
ジンはその声ではなく、視線を見ていた。
怯える者。笑う者。隣の相手の首元を見る者。自分の仲間らしい相手と目配せする者。貴族らしく余裕を装う者。既に誰を狙うか決めている者。説明が終わる前から、広場の中では何かが始まっている。
「試験区域に魔物はいない」
試験官の言葉に、一部の受験者がわずかに安堵した。
だが、その安堵は次の言葉で消えた。
「区域内にいるのは、お前たち受験者だけだ」
空気が冷える。
「協力は自由。交渉も自由。裏切りも自由。札の奪取手段についても制限はない」
試験官は淡々と言った。
「殺害は禁止しない。むしろ推奨する」
広場が凍った。
セリスが息を呑む。
「……今、推奨って言った?」
タクトは答えなかった。
顔がわずかに強張っている。知っていたのだろう。けれど、知っていることと、今この場で聞くことは違う。導雷の指輪を嵌めた右手が、ほんの少し握られていた。
試験官は一切表情を変えない。
「札を奪う手段として、殺害は最も手早く、考える必要がない。相手が死ねば抵抗は消え、交渉も駆け引きも不要となる」
その口調は、まるで道具の使い方を説明しているようだった。
「ただし、殺した相手の札を取れなければ意味はない。殺害に時間をかけ、他者に札を奪われる程度の者は、その時点で能力不足と判断する」
誰かが小さく笑った。
誰かが青ざめた。
誰かが、一歩後ろへ下がった。
学園の入学試験。
その言葉から想像していたものが、受験者たちの中で音を立てて崩れていく。筆記でも、模擬戦でも、単なる実力測定でもない。ここにあるのは、半日の中で札を奪い合い、生き残るための選別だった。
「試験区域は、森、水辺、崖下の荒野を含む広大な封鎖区画だ。半日の間、外部からの介入は行われない。負傷、死亡、行方不明について、学園は一切の責任を負わない」
試験官は淡々と続ける。
「覚悟のない者は、今去るがいい」
静寂が落ちた。
誰もすぐには動かなかった。だが、その沈黙は長く続かなかった。一人の受験者が顔を青くしたまま後ずさる。隣にいた仲間が止めようとしたが、振り払うように広場の外へ向かった。
それをきっかけに、空気が崩れた。
一人。
二人。
十人。
最初は数えることができた足音が、すぐにまとまったざわめきへ変わっていく。怒ったように舌打ちする者もいた。泣きそうな顔で去る者もいた。笑いながら「馬鹿らしい」と吐き捨てる者もいた。だが、その背中はどれも、広場の中央へは向いていなかった。
セリスは息を呑んだまま、それを見ていた。
「本当に、帰るんだ……」
「帰れるのは今だけだからな」
タクトが言った。
声は低い。
「始まったら、終わるまで出られない」
ジンは去っていく者ではなく、残った者を見ていた。
逃げなかった者たちの目が、少しずつ硬くなっていく。恐怖を飲み込んだ者。最初から笑っている者。去る者を見下す者。隣にいた仲間が去ったことで、急に一人になった者。広場に残ったのは、強い者ばかりではない。だが、少なくとも今の説明を聞いてなお、足を止めた者たちだった。
試験官は去る者が完全に広場から出るまで待った。
そして、何事もなかったように告げる。
「残った受験者は三百十二名」
最初の四百という数字が、静かに削られていた。
「これより札を配布する」
係員たちが動き始める。
一人ずつ名前と照合され、黒い札を手渡される。近くで見ると、札は硬い金属でできていた。表面にはアークスの紋章と番号が刻まれ、裏面には細かな魔力刻印が走っている。偽造は難しい。革紐は首に掛けるには十分な長さがあり、同時に引きちぎろうと思えば不可能ではない強度だった。
ジンの番が来る。
係員は一瞬、彼の包帯を見る。それから表情を変えずに札を差し出した。
「番号、二百七十一」
ジンは札を受け取る。
重さを確かめる。指で縁をなぞる。刻印の深さ、紐の編み方、金属の厚みを見る。奪われるものなら、どこが弱いかを知っておく必要がある。
「そこ見るんだ」
セリスが呆れたように言った。
「奪われるものですから」
「そうだけど」
「紐は強くありません」
「そういうこと言われると不安になるんだけど」
ジンは札を首に掛ける。金属の冷たさが胸元に触れ、包帯の上で小さく揺れた。動くたびに札の位置が分かる。隠すには不便だが、試験としては都合がいいのだろう。
セリスも札を受け取り、首に掛けた。
「番号、百三十六」
彼女は札を軽く握り、周囲を見た。先ほどより目が鋭い。怖がっていないわけではない。だが、怯えて立ち止まるつもりもないのだろう。
タクトは札を受け取った。
「番号、十八」
その番号に、近くの受験者がわずかに反応した。ライゼクト家の名は既に何人かに知られている。高い番号か低い番号かではなく、タクト自身が目立つのだ。
タクトは札を首に掛け、右手の導雷の指輪に軽く触れた。
沈黙石。
簡易結界杭。
魔物引き寄せ香。
煙玉。
乾燥薬草布。
昨日選んだ物資の意味が、この試験説明で明確になった。セリスもそれに気づいたのか、横目でタクトを見る。
「……だから、あれ買ったんだ」
「心配性だからな」
「今それで誤魔化す?」
「誤魔化されてくれ」
「無理」
タクトは小さく笑った。だが、その目は笑っていない。
広場の中央で、試験官が最後の説明を始める。
「首席を狙う者は、より多く集めればいい。生き残るだけで満足する者は、三枚を守ればいい。何も持たぬ者は、奪え。奪えぬ者は、落ちろ」
その言葉が、広場の石畳に冷たく落ちる。
「ここは神聖統合学園アークスだ。才能を求めているのであって、保護する弱者を探しているわけではない」
誰も喋らなかった。
先ほどまでのざわめきは消え、残っているのは呼吸と衣擦れの音だけだった。全員が理解していた。今、首に下げている札は入学証ではない。獲物の印であり、同時に命の重さを測るための道具だった。
ジンは札を指で押さえる。
金属の冷たさが、包帯越しに胸へ伝わった。
「始まる前から、もう始まっていますね」
小さく呟く。
セリスがこちらを見る。
「何が?」
「奪い合いです」
ジンの視線の先では、数人の受験者が既に距離を取り始めていた。即席で組む者。孤立する者を探す者。怪我人を見て薄く笑う者。貴族の周囲に集まろうとする者。
何人かの視線が、ジンの包帯へ向いた。
赤い瞳。
胸元の包帯。
軽い片手剣。
見た目だけなら、狙いやすい怪我人に映るのだろう。
ーー人気者じゃの。
ベルゼリアが面白そうに言った。
《良いことですか》
ーー状況によるの。
《今は》
ーー悪い方じゃな。
ジンは答えず、視線の主たちを覚えた。
広場の奥で、巨大な門が重い音を立てて開いていく。
その先には、封鎖区画へ続く道があった。石畳は途中で途切れ、古い建物の残骸と森の影が混じる区域へ伸びている。遠くには水の匂いがあり、さらに奥には崖の影が見えた。
タクトが一瞬だけ、ジンとセリスを見た。
ほんのわずかな間だった。何かを言おうとしたようにも見える。だが、すぐに前を向く。セリスは気づいていない。ジンだけが、その一瞬の迷いを見ていた。
「何かありますか」
ジンが聞く。
タクトの口元が少しだけ動いた。
「……始まってから考える」
「そうですか」
「いや、そこはもう少し聞けよ」
「時間がなさそうなので」
タクトは苦笑しようとして、うまくできなかった。
試験官が右手を上げる。
受験者たちの体が、わずかに前へ傾いた。
門の奥から、冷たい光が漏れた。
「では、第一試験を開始する」
短い沈黙。
男は、最後に淡々と言った。
「生き残れ」
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