第三話 異変

悲鳴は、村の入口へ転がり込んできた。


 肩から血を流した男が、柵の前で足をもつれさせる。片足を引きずり、土を掴むようにして這い上がろうとしていた。口は開いている。けれど息ばかりが漏れ、言葉にならない。


 その背後から、甲高い声が重なった。


 笑い声にも、獣の鳴き声にも聞こえる。喉を引っ掻くような音。ジンは入口の外へ視線を向けた。道の向こう、夕陽に照らされた草むらが揺れている。


「魔物だ!」


 誰かの叫びが、村の中を裂いた。


 緑色の小さな影が、柵の向こうから流れ込んでくる。背は低い。腕も細い。だが握っている錆びた剣や棍棒は、人の皮膚を裂くには十分だった。泥にまみれた足が畑を踏み荒らし、尖った歯の隙間から涎を垂らしている。


 ゴブリン。


 村人たちの顔から血の気が引いた。


 鍬を持った男が前へ出る。振り上げた腕は震えていた。それでも、一匹目の頭を打ちつける。乾いた音。ゴブリンが地面に倒れる。


 次の瞬間、横から飛びかかった別の影が男の腕に噛みついた。


「ぐあっ……!」


 錆びた刃が脇腹へ潜る。


 男の膝が折れた。


「やっぱり来たか……」


 タクトの声は小さい。


 ジンはタクトを見ない。村の入口に視線を向けたまま、足元の土を踏み直す。タクトの息が一度だけ乱れた。安堵にも、苛立ちにも似た浅い息だった。


ーー知っておった顔じゃな。


《ええ》


ーーだが、嬉しそうではない。


《数が違うのかもしれません》


ーー数だけかのう。


 ジンは入口付近を見た。六。畑の横に三。家の陰に二。森の奥から、まだ声が増えている。村人たちは家へ逃げ込もうとしていた。扉の前で人が詰まり、子供を抱えた女が足をもつれさせる。


 ゴブリンの一匹が、その背中へ向かった。


 タクトが動く。


 抜いた剣が夕陽を弾き、女へ飛びかかろうとしたゴブリンの首を裂いた。血が土に散る。タクトは倒れた魔物の体を蹴るようにして、女と子供を家の方へ押しやった。


「中へ。扉を閉めろ」


 声は軽くない。怒鳴りもしない。


 女は何度も頷き、子供を抱えたまま家へ駆け込んだ。タクトはすぐ次のゴブリンへ向き直る。剣に迷いはなかった。こういう場面に慣れている者の動きだった。


 けれど、目はゴブリンだけを見ていない。


 斬る。退く。村人の逃げ道を空ける。柵を見る。井戸を見る。森の奥を見る。


 タクトの視線は、戦場にあるものを拾いながら、ときおり何もない場所で止まった。空き地の端。横倒しの荷車。村の入口から少し外れた獣道。どこかを確かめるたび、唇の端から笑みが消えていく。


「まだですか」


 ジンが言うと、タクトの肩がわずかに止まった。


「何が?」


「あちらです」


 ジンは森の奥へ視線だけを向ける。


 タクトは一瞬だけ黙り、それから短く息を吐いた。


「ほんと、可愛げないな」


「よく言われます」


「誰にだよ」


 返事はしない。


 ゴブリンが二匹、井戸の横から回り込んでくる。ジンは落ちていた鍬の柄を足で跳ね上げ、手に取った。剣ではない。重心も悪い。けれど、ないよりはいい。


 一匹目が飛びかかる。


 錆びた刃が目の高さへ来るより先に、ジンは半歩だけ横へずれた。鍬の柄で膝を払う。小さな体が崩れ、地面へ落ちる前に柄尻を喉へ押し込んだ。


 声が潰れる。


 もう一匹が横から棍棒を振る。


 ジンは受けない。柄を捨てて距離を取った。棍棒が空を切り、勢いで前へ流れる。首筋が開く。ジンは地面に落ちていた短剣を拾い、欠けた刃をそこへ差し込んだ。


 ゴブリンの体が跳ねる。


ーーほう。奴隷生活も無駄ではなかったか。


《武器が悪いです》


ーーそこか。


 ベルゼリアが笑う。


 ジンは短剣を抜き、血を払わずに握り直した。手に馴染まない。刃も欠けている。それでも、ゴブリンの皮膚を裂くには足りる。


 地面が揺れた。


 最初は、遠くで荷車が倒れたのかと思うほど低い音だった。村人の叫びが一瞬遅れる。ゴブリンたちの奇声も、不自然に細くなった。


 もう一度、地面が沈む。


 柵の向こうの木々が揺れた。鳥が一斉に飛び立つ。葉の隙間から、黒い影が膨らんでいく。


 ゴブリンたちが左右へ散った。


 村へ群がっていた小さな魔物たちが、まるで道を開けるように身を低くする。


 森の奥から、巨大な腕が現れた。


 赤黒い皮膚。丸太のような指。握られた棍棒は、鉄で補強された木の塊だった。続いて肩が、胸が、頭が木々の間から押し出される。二メートルを優に超える体が村の入口に立つと、夕陽がその背後で細く切れた。


 獣と腐った血の臭いが、風に乗ってくる。


 村人の一人が膝から崩れた。


 誰も笑わない。誰も叫ばない。逃げるための足音さえ、一瞬止まった。ゴブリンたちですら、甲高い声を潜めている。


「……ゴブリン・ロード」


 タクトの声が落ちた。


 恐怖だけではない。予定より早く扉が開いた時のような、噛み合わないものを見る声だった。


ーーあれは少々、面倒じゃな。


 ベルゼリアの声から、軽さが少し消えた。


 巨大な魔物が息を吸う。胸が膨らみ、喉の奥から低い音が鳴る。次の瞬間、咆哮が村を打った。窓板が震え、井戸端の桶が転がる。近くにいた男が耳を押さえてうずくまった。


 ジンの頬に風が叩きつけられる。


 乾いた血が皮膚の上で剥がれた。


「……なんでだよ」


 タクトはロードを見ている。


 その顔は青ざめていた。だが、ただ怯えている顔ではない。知っている答えと、目の前の現実が食い違った者の顔だった。


「早すぎる」


 今度は、はっきり聞こえた。


 ジンはタクトを見る。


 タクトはこちらを見返し、すぐに顔をしかめた。


「その顔やめろ」


「まだ何も言っていません」


「言ってなくても、だいたい分かるんだよ」


「便利ですね」


「褒めてない」


 タクトは舌打ちをして、ゴブリン・ロードへ視線を戻す。


 巨大な棍棒がゆっくり持ち上がる。村人たちの顔から血の気が引き、誰かが小さく祈りの言葉を漏らした。


 ジンは短剣を見る。


 欠けた刃。短い間合い。あれに届くには、近づくしかない。近づけば、棍棒の内側に入ることになる。


ーー死ぬぞ。


《距離です》


ーー自信ではないのか。


《届くかどうかです》


 ベルゼリアが、楽しそうに息を漏らした。


「ジン」


 その名を、タクトは当然のように呼んだ。


 ジンは一瞬だけ目を向ける。


 名乗った覚えはない。


 競売場で名前を呼ばれた覚えもない。商人は年も不明、魔力反応なし、労働用だと言っただけだった。タクトが自分の名を知る理由は、この場にはない。


 タクトの手から短剣が投げられる。


 柄の側を向けて胸元へ飛んできた。ジンはそれを受け取る。刃は安物ではない。奴隷に渡す武器としては、少し良すぎる。


ーーほう。


 ベルゼリアの声が低く笑う。


 問いは後でいい。


 目の前で、棍棒が持ち上がっている。


「お前、どこまでやれる?」


 タクトの声には、少しだけ迷いが混じっていた。


 ジンは短剣の重さを確かめる。柄の長さ。刃の厚み。手に残る血で少し滑るが、握れないほどではない。


「おい、聞いてるか」


「聞いています」


「答えは?」


「今から分かります」


 タクトが何か言いかける。


 その前に、村の奥で誰かが叫び、彼の視線がそちらへ跳ねた。焦りが、ほんの一瞬だけ顔に出る。


 ジンはロードへ向き直った。


 棍棒が揺れている。足元の土は乾いている。右へ動けば井戸。左へ動けば畑。正面は巨大な影。


ーーくくっ。相変わらずじゃの。


 ジンは短剣を握り直す。


 指にぬめる血が残っていた。


 ロードの目が細くなる。目の前の人間が逃げないことに気づいたのか、ただ邪魔なものを見つけただけか。ゴブリンたちの黄色い目も、ジンへ向く。


 棍棒が、少しだけ揺れた。


 ジンは地面を蹴る。


 一直線に、ゴブリン・ロードへ向かって。





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