第十四話 一閃

オーガの拳が迫る。


 速い。


 片腕になり、胸を裂かれ、全身を焼かれているはずなのに、その速度は落ちていなかった。怒りが痛みを押し潰し、残された左腕がセリスの頭上へ落ちてくる。


 セリスは目を見開いた。


 避けられない。


 足は動こうとしている。剣も上がろうとしている。けれど、どちらも間に合わない。巨大な拳の影が視界を覆い、採掘場の音が一瞬だけ遠のいた。


 その瞬間。


 ガンッ!!


 鈍い衝撃音が響いた。


 拳の軌道が逸れる。


 受け止めたのではない。拳が落ちる寸前、その外側から剣の腹が角度を合わせ、力の流れを横へ逃がした。地面を砕くはずだった一撃はセリスの横を外れ、採掘場の岩壁へ叩き込まれる。


 轟音。


 岩が砕け散り、破片が雨のように降った。


「え……?」


 セリスが息を呑む。


 何が起きたのか分からなかった。拳が来た。避けられなかった。そのはずなのに、今、自分はまだ立っている。頬を掠めた風圧だけが、死がすぐそこを通り過ぎたことを教えていた。


 オーガも同じだった。


 拳を弾かれた。


 その事実を理解できず、赤黒い瞳がわずかに見開かれる。力で押し返されたのではない。自分の力が、自分の知らない角度へ滑らされた。その違和感に、獣の顔が歪んだ。


 セリスの視線の先。


 そこに、ジンが立っていた。


「ジン……?」


 掠れた声が漏れる。


 ジンは答えなかった。


 血に濡れた服は破れ、胸元には黒い靄が薄く絡みついている。治ってなどいない。口元には乾ききらない血が残り、立っているだけで体の奥が軋む。けれど、その瞳だけは静かだった。


 世界が違って見えていた。


 オーガの呼吸。


 肩の沈み。


 残された左腕へ力が流れる瞬間。


 踏み込んだ足の沈み方。


 胸の傷を庇うために、わずかに狭くなった体の開き。


 ばらばらだったものが、一本の線として繋がっている。速い遅いではない。強い弱いでもない。力がどこから生まれ、どこへ流れ、どこで乱れるのかが、目の前に浮かんでいた。


 ジンは自分の剣へ視線を落とした。


 指先に意識を向ける。


 刃の表面に、淡い光が滲んだ。薄く、白い光だった。呼吸に合わせるように揺れ、刀身へまとわりつく。力を込めたわけではない。握った瞬間から、そこにあった流れへ手を伸ばしただけ。


「オーラ……?」


 タクトの声が、遠くから聞こえた。


 信じられないものを見た声だった。ついさっきまで、ジンは使えないと言った。魔法も、オーラも。少なくともタクトの知る筋書きでは、この場で目覚めるようなものではなかった。


 オーガが咆哮を上げる。


「ウゴォオオッ!」


 残された左腕が振り上げられる。ジンは前へ出た。


 速い。


 だが、ただ速いだけではない。足場の砕けた石を踏み、崩れた地面を避け、オーガの視線が追いつくより先に胸の傷へ入る。体は悲鳴を上げている。黒い靄が傷を縛り、裂けた体を無理やり動かしているだけだった。


 剣が走る。


 一閃。


 淡い光を纏った刃が、オーガの胸の傷を斬り裂いた。


「グ、ォアッ!」


 黒ずんだ血が舞う。オーガの巨体が揺れた。致命傷には届かない。だが、痛みは確かにあった。赤黒い瞳がジンを捉え、獣の本能が叫ぶ。


 危険なのは胸だ。


 胸を守れ。


 巨体が反射的に腕を動かす。残された左腕が、胸の傷を庇うように前へ入った。


 その瞬間、ジンは静かに口を開いた。


「残念」


 オーガが突進する。


 胸を守ったまま、巨体が前へ出た。大地が震え、砕けた石が跳ねる。残された腕で胸を塞ぎ、体そのものを武器にするような突進だった。


 ジンの体から、黒い靄が溢れた。


 闇。


 ベルゼリアの力だった。


 白かった光が黒く染まっていく。刃の周囲だけが光を吸い込み、影が刀身へ絡みつく。淡かったオーラに黒い魔力が混ざり、採掘場の空気がひとつ冷えた。


ーーまったく。


 ベルゼリアの声が響く。


 どこか楽しそうで、どこか呆れていた。


ーーいつも予想を外れてくれるの。


 ジンは地面を蹴った。


 オーガも前へ出る。


 互いに一直線。


 セリスは動けなかった。タクトも息を止めていた。砕けた採掘場の中央で、黒い光を纏った刃と、片腕の怪物が交差する。


 その刹那。


「そこではないですね」


 黒い斬撃が走った。


 静寂。


 風だけが吹く。


 誰も動かなかった。


 オーガが一歩進む。


 二歩。


 三歩。


 胸を庇った腕は、そのまま硬く固まっている。赤黒い瞳にはまだ怒りが残っていた。だが、首の位置だけが、ほんのわずかにずれていた。


 ずるり、と。


 音もなく、首が滑り落ちた。


 巨体がぐらりと揺れる。


 次の瞬間、轟音と共に地面へ崩れ落ちた。採掘場が震え、積もっていた砂埃が一斉に舞い上がる。黒ずんだ血が砕けた石の間へ広がっていった。


 全てが終わった。


 静寂が訪れる。


 セリスは剣を握ったまま、オーガの亡骸を見ていた。自分に迫っていた拳。避けられなかった一撃。そこに割って入ったジン。黒い光。首を落とした一閃。何が起きたのか、頭が追いつかない。


「勝った……?」


 掠れた声だった。


 ジンは答えない。


 剣を地面へ突き立てる。そうしなければ、立っていられなかった。黒い靄はまだ胸元に絡んでいるが、少しずつ薄れていく。刃を覆っていた光も、煙のようにほどけていった。


「なんだよ……それ」


 最初に言葉を形にしたのは、タクトだった。


 声には怒りも称賛もなかった。ただ、理解できないものを見た人間の乾いた響きだけが残っている。


 ついさっきまで死にかけていた。


 魔法も使えなかった。


 オーラも無かった。


 それなのに、今の一瞬で全てを覆した。


 タクトの知っている筋書きには、そんな展開はなかった。


ーー今のお主では長くは使えぬ。


 ベルゼリアの声が響いた。


 黒い靄がさらに薄くなる。


 同時に、痛みが戻ってきた。胸の奥が焼ける。肋骨の下が軋む。右肩が重い。傷を縫い止めていた糸が抜けていくように、体の輪郭が崩れ始める。


 ジンはようやく理解した。


「ああ……だからです……か」


 膝が崩れる。


 剣を支えていた手から力が抜けた。指が滑り、柄から離れる。セリスが何かを叫んだ気がしたが、その声はもう遠かった。


 地面が近づく。


 視界が暗くなる。


 そして、ジンの意識は再び闇へ沈んだ。







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