第九話 オーガ
「――ウゴォオオオオオッ!!」
遠くの森から、重い咆哮が響いた。
鳥の声が一斉に途切れる。街道脇の草が遅れて震え、森の奥から何かが逃げるような羽音が広がった。セリスが足を止める。ジンも視線を上げた。
一番反応したのは、タクトだった。
顔から軽さが消えていた。さっきまで眠そうにしていた目が、森の方角を見たまま動かない。喉が小さく上下する。
「今の、何?」
セリスが眉をひそめる。
タクトはすぐには答えなかった。風が吹いても、視線だけが森から離れない。
「……確認する」
短く言って、タクトは街道を外れた。
「え、ちょっと」
「こっちだ。少し高い場所がある」
タクトの足は早かった。焦っているのを隠すように、歩幅だけが大きくなる。セリスは一度ジンを見てから、その後を追った。ジンも続く。右肩に残る痛みが坂道で少し響いたが、足は止めない。
三人は斜面を登った。
土は乾いていて、靴裏が滑る。セリスが小さく息を吐き、タクトは振り返らない。やがて視界が開けた。丘の上からは、街道と森、その向こうの山並みが見える。どこにでもある朝の景色だった。
ただ、森の一角だけが揺れていた。
風ではない。周囲の木々は静かなのに、そこだけが内側から押されるように震えている。鳥が黒い塊になって飛び立ち、散るように空へ逃げていく。獣の鳴き声はなかった。
「何、あれ……」
セリスの声が低く落ちる。
乾いた音が響いた。
一本の木が根元から傾く。少し遅れて、幹が裂ける音が丘まで届いた。次の瞬間、別の木が倒れる。さらに奥で、何本もの枝がまとめて砕けた。
森が、割れていた。
タクトの顔色が悪くなる。
「嘘だろ……」
倒れた木々の奥から、巨大な影が現れた。
ゴブリン・ロードよりもさらに大きい。灰色の皮膚は岩のように厚く、丸太のような腕がぶら下がっている。その手には、木というより柱に近い棍棒が握られていた。
オーガが一歩踏み出す。
地面が沈み、乾いた土が跳ねた。肩が木にぶつかる。避ける素振りはない。押された幹は悲鳴のように軋み、そのまま根元から折れて倒れた。
力任せ。
ただそれだけだった。だが、それだけで森の形が変わっていく。
「大きすぎない……?」
セリスが呟いた。誰に向けた言葉でもない。
オーガは森を抜けながら進んでいる。歩くだけで木が折れ、地面が揺れ、枝葉がばらばらと落ちる。ジンは黙ってその姿を見ていた。
棍棒。体格。歩幅。膝の沈み。腕の重さ。右肩に残る痛みとは別に、体の奥が静かに戦いの形へ戻っていく。
「ロードより、ひと回りどころじゃありませんね」
タクトは答えなかった。答える余裕がない顔だった。
オーガが不意に立ち止まる。
巨大な鼻が、空気を吸い込んだ。ジンの指が剣の柄へ触れる。タクトの肩がわずかに強張った。
次の瞬間、オーガの首がゆっくりとこちらを向く。
赤黒い瞳が、丘の上を捉えた。
セリスの肩が固まる。タクトの口元から血の気が引く。ジンだけは目を逸らさなかった。オーガは数秒こちらを見つめると、口元をゆっくり歪めた。
「――ウゴォオオオオオッ!!」
さっきより近い咆哮が空気を震わせた。
オーガが地面を蹴る。土が爆ぜ、巨体が信じられない速度で前へ出た。
「は?」
タクトの顔が引き攣る。
「待て待て待て」
オーガは一直線に丘へ向かってくる。一歩ごとに地面が揺れる。遅くない。むしろ速い。巨体に似合わない速度で木々を押し倒し、距離を削ってくる。
「おかしいだろ……!」
タクトが叫んだ。
「何でこんな所にいるんだよ!」
「来るの!?」
セリスの声が跳ねる。
「来る!」
タクトは即答した。
「逃げるぞ!」
三人は丘を駆け下りた。
背後から地響きが追ってくる。オーガは木を避けない。邪魔なものは押し倒し、そのまま進む。枝が折れ、幹が倒れ、地面を踏み抜く音が近づいてくる。
ジンは走りながら一度だけ後方を見る。
オーガの脚。膝の使い方。踏み込む位置。あの体格で、足が流れていない。想像より速い。いや、速いというより、一歩の距離が大きすぎる。
「想像より速いですね」
ーー笑えんの。
ベルゼリアの声にも軽さが薄い。
ジンは返さなかった。前だけを見る。右腕はまだ重い。剣を振るなら、一度目の重さを見誤れない。
「学園入学前のステータスだぞ!?」
タクトの声が裏返る。
「オーガなんて中級パーティでやっと安定する怪物なんだぞ!? どうすればいいんだよ!」
焦りがそのまま口から漏れていた。タクトは走りながら頭を回そうとしている。けれど、背後の地響きがその思考を踏み潰していく。
「パーティ……」
タクトの足が、一瞬だけ乱れた。
何かに気づいたように、彼はセリスを見る。
「オーラは!?」
「使えない!」
「魔法は!?」
「使えたら苦労しない!」
タクトが舌打ちする。今度はジンへ視線を向けた。
「お前は!?」
「使えません」
即答だった。
タクトの顔から、最後の色が抜けた。
「終わった……」
小さく漏れた言葉は、地響きに飲まれかける。
「諦めるには早いでしょう」
ジンが言った。
タクトが目を見開く。
「……は?」
「まだ追いつかれていません」
ジンは前を見たまま続ける。
「走れますか」
数秒、タクトは固まった。背後で木が折れる音がして、ようやく息を吐く。
「ああ……!」
強く頭を振る。
「走れ!」
三人は森の中を駆けた。
状況は良くならない。背後の地響きは消えず、むしろ近づいている。木々の隙間から灰色の巨体が見えた。近い。嫌になるほど近い。
セリスが息を荒げながら枝を避ける。タクトは何度も後ろを見そうになり、そのたびに前へ視線を戻した。ジンは足元を見る。古い轍。割れた石。草に埋もれた錆びた杭。人が使っていた道の跡が、森の奥へ続いている。
「右です」
ジンが言った。
「は?」
「あそこ、道が残っています」
木々の隙間の向こうに、岩肌の切れ目が見えた。古い木材が倒れ、錆びた金具が草の中で光っている。
「採掘場か?」
タクトが目を細める。
「たぶん」
「それで?」
「森よりはマシです」
それだけで、タクトは一瞬だけ考えた。
背後で、オーガが木を押し倒す。迷っている時間はなかった。
「そっちだ!」
三人は進路を変えた。
枝を抜け、古い轍を踏み、崩れた木柵の脇を駆け抜ける。視界が一気に開けた。
そこは、使われなくなった採掘場だった。
岩肌が剥き出しになり、地面は大きく掘り返されている。崩れた足場。放置された資材。錆びた道具。人の気配はない。奥へ続く道は崩れ、左右は岩壁に塞がれていた。
三人は足を止めた。
逃げ場が広くなったわけではない。森より見える。足場も選べる。だが、出口は限られている。
振り返る。
森の奥で木々が揺れた。
一本、倒れる。
二本目が裂ける。
そして、巨大な影が姿を現した。
オーガだった。
棍棒を肩に担ぎ、ゆっくりと採掘場へ足を踏み入れる。岩に囲まれた空間に、重い足音が響いた。灰色の皮膚に朝の光が鈍く乗る。赤黒い瞳が、三人を順に見た。
タクトが剣を抜く。
「クソッ……!」
言葉に余裕はない。それでも、剣先は下がらなかった。
「もうやるしかない」
セリスも剣を構えた。左腕の包帯が少し赤く滲んでいる。顔は強張っていた。それでも、口元だけは無理やり笑う。
「負けたら終わりだしね」
ジンは何も言わない。
岩肌。崩れた足場。放置された木材。オーガの棍棒。腕の長さ。距離。自分の右肩。視線が順にそれらをなぞる。
オーガがゆっくりと棍棒を持ち上げた。
巨大な影が、三人の上へ落ちる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新作をお読みいただきありがとうございます!始まったばかりの本作ですが、皆様の【星(評価)】や【作品フォロー】がカクヨム内で作品が広がる大きな力になります。応援のほど、何卒よろしくお願いいたします!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます