第六話 帰路
棍棒が、森の中へ沈んだ。
ロードの腕が宙に残る。まだ握っているつもりなのか、太い指が何度も閉じかけ、血に濡れた手首が震えていた。
「グ、ォ……?」
喉の奥から、潰れた声が漏れる。
ロードは失った棍棒を探すように腕を振った。だが、指は空を掴むだけだった。赤黒い目がわずかに見開かれ、低い唸りが牙の隙間で揺れる。
「グォ、オ……ッ」
ジンは動かなかった。動けなかった。短剣を握る指に力を残したまま、ただ巨体の足元を見る。
ロードが一歩、踏み出そうとした。
その足が、抉れた穴の縁を踏み抜く。森を壊し続けた棍棒の跡だった。巨体が傾き、血の垂れる腕が空を掴む。支えるものはもうない。裂けた膝裏が耐えきれず、赤黒い脚が折れる。
ロードの膝が、地面へ落ちた。
重い音が森の奥へ沈む。巨体の頭がジンの高さまで落ち、荒い息が土を震わせた。赤黒い目がまだ動いている。怒りか、困惑か、恐怖か。牙の隙間から漏れる息が濁り、血に濡れた手が地面を掻いた。
ジンは一歩だけ踏み込んだ。
足元が揺れる。腹の奥が脈打ち、右肩はもう上がりきらない。短剣を持つ手も震えている。それでも、膝をついたロードの喉元だけは見えていた。
「グ、ァ……!」
ロードが腕を振り上げようとする。
遅い。
ジンの短剣が、顎の下へ滑り込んだ。赤黒い皮膚の隙間に刃が沈み、喉の奥で硬いものに触れる。ロードの声が途切れた。巨体がびくりと震え、空を掴んでいた指が、ゆっくりと開いていく。
ジンは短剣を抜かなかった。
抜けば倒れるのは、自分の方かもしれなかった。柄を握ったまま、ロードの目が濁っていくのを見ている。やがて巨体から力が抜け、森を揺らすような重さで、前のめりに崩れ落ちた。
静寂が落ちる。
折れた枝葉が遅れて転がり、どこかで小さな石が穴の底へ落ちていった。さっきまで木々を砕いていた棍棒は、少し離れた場所で土に半分埋もれている。ロードの手首から流れる黒い血が、折れた根の間へゆっくり広がっていく。
ジンは短剣を握ったまま、しばらく動かなかった。
肩は上がらない。息は浅く、吸うたびに肋骨の下が鈍く軋む。指先は痺れているのに、柄だけは離れていない。力を抜こうとしても、体の奥がまだ戦いの形を覚えていて、膝が勝手に次の一歩を探していた。
ーー終わったの。
《そうですね》
ーー本当にやりおったわ。
ベルゼリアの声は呆れていた。けれど、笑ってはいなかった。
ジンはロードの死体ではなく、落ちた棍棒を見る。柄に残った黒い血。手首を裂いた傷の深さ。足元に沈んだ穴。倒木の向き。森の中には、怪物が暴れた跡がいくつも残っている。どれも使った。どれも、あと少しずれていれば死んでいた。
短剣の刃は欠けていた。
ジンはそれを一度だけ見て、血を払う。右肩が動かず、腕の途中で動作が止まった。仕方なく左手を添え、ゆっくりと刃を下げる。
ーーお主、今すぐ倒れてもおかしくない顔をしておるぞ。
《倒れる場所は選びます》
ーーそういう話ではない。
足を踏み出すと、腹の奥が脈打った。視界の端がわずかに白む。ジンは近くの木に手をつき、呼吸をひとつ置いた。指の下で、裂けた樹皮がざらつく。
森は静かだった。遠くの村から、人の声が細く聞こえる。悲鳴ではない。怒号でもない。戸を叩く音、誰かを呼ぶ声、走る足音。戦いの終わりをまだ誰も信じきれていないような、落ち着かない音だった。
ーー歩くのか。
《戻ります》
ーーその足でか。
《まだ……動けますので》
ーーまったく、可愛げのない怪我人じゃ。
ベルゼリアが小さく鼻を鳴らす。ジンは返さなかった。倒れた木々の間を抜ける。足元には抉れた穴が続き、折れた枝が服の裂け目に引っかかった。引き剥がすたびに、乾き始めた血が皮膚の上で突っ張る。
ガサッ。
折れた枝を踏む音が、森の奥で響いた。
ジンの視線が、一瞬だけそちらへ向く。木々の影の奥。土煙の残る向こう側。誰かがいた。息を殺しているつもりでも、折れた枝は音を隠してくれない。
ーーところで。
ベルゼリアが、少し楽しげに声を落とした。
ーーずっと見ておったの。
《でしょうね》
ーー放っておくのか?
《今は、戻る方が先です》
ーー本当に適当じゃの。
ジンは答えなかった。背後でロードの巨体が沈黙している。見られていたことも、見せたものも、今さら取り戻せない。
森の出口へ向かって、ジンは歩き出した。
◇
タクトは木陰に身を隠したまま、その背中を見送っていた。
ジンの姿が倒れた木々の向こうへ消えていく。追うつもりはなかった。ただ、すぐに動く気にもなれず、しばらくその場から足が離れなかった。
やがて、視線を前へ戻す。
そこには、ロードの死体があった。
間違いない。ゴブリン・ロードだ。ゲームでも見た。何度も戦った。強く、硬く、遅い。動きを覚えて、距離を取り、決まった攻撃のあとに削る。そういう敵だった。
その怪物が、今は動かない。
タクトは慎重に近づいた。砕けた地面と倒れた木々が、森の至る所へ転がっている。抉れた大地には、棍棒が暴れ回った跡が深く残っていた。けれど、その中心で倒れているロードの体には、別のものが刻まれている。
同じ場所に重なった傷。
手首。膝裏。腕の内側。浅いもの、深いもの、少し横へずれたもの。偶然の並びではない。力任せでもない。何度も、何度も、同じ流れを狙われた跡だった。
「……」
言葉は出なかった。
ロードを倒した。それ自体は、目の前の死体が証明している。だが、傷を見れば見るほど、知っている倒し方とは噛み合わない。決まった隙を突いたのではない。攻略手順をなぞったのでもない。
その場で見つけて、その場で削った傷だった。
タクトは振り返る。
すでにジンの姿は見えない。折れた枝の間には、森の出口へ続く足跡だけが残っている。血の跡も混じっていた。普通なら歩けない量ではない。けれど、普通なら一度座るくらいの傷は負っている。
「……いや」
小さく呟いた。
何を否定したかったのか、自分でも分からない。ロードを倒した事実か。自分の知っている流れか。それとも、ジンを足止めに使えばいいと考えた少し前の自分か。
夕方に傾き始めた光が、砕けた森を赤く染めていた。
◇
少し前、タクトは村の中を走っていた。
家々の扉は閉まり、井戸の周囲には倒れた桶と踏み荒らされた土が残っている。ゴブリンの死体をまたぎ、崩れかけた柵を抜け、タクトは路地の奥へ視線を走らせた。息は乱れていない。だが、足取りだけが少し速い。
「いない……」
広場にはいない。井戸のそばにも、倒れた荷車の陰にも。見覚えのあるはずの場所が、細かくズレている。家の位置は同じなのに、人の流れが違う。逃げたはずの方向に足跡がない。
森の奥で轟音が響いた。
地面が揺れ、屋根に残っていた藁がぱらぱらと落ちる。タクトは一瞬だけ森を見た。あの怪物の音だ。ジンを向かわせた。足止めになればいい。少しでいい。そう思ったはずなのに、音が近づくたびに胸の奥が嫌な沈み方をする。
「あいつなら……」
言いかけて、やめた。
言葉にしても何も変わらない。タクトは舌打ちし、村外れへ向かう。セリスがいるなら、この辺りのはずだった。ゲームでは、そうだった。けれど、さっきから何もかもが少しずつ噛み合わない。
金属音がした。
タクトの足が止まる。村外れの家の陰。壊れた柵の向こうに、ゴブリンの死体が転がっていた。喉を裂かれている。もう一匹は足を引きずりながら唸り、残る二匹が、銀色の髪の少女を囲んでいた。
少女は短剣を構えている。
肩まで届かない銀髪が汗で頬に張りつき、左腕から血が流れていた。足にも傷がある。踏み込みは浅い。それでも刃先は下がらない。ゴブリンが爪を振ると、少女は体を引き、切っ先で手首を払った。倒しきれない。けれど、簡単には近づかせない。
「いた……」
声が漏れた。
ゴブリンが飛びかかる。少女が迎え撃つより先に、タクトの剣が横から入った。首が飛び、緑色の体が土へ落ちる。もう一匹が振り向いた時には、タクトの足がその間合いへ入っていた。
次の瞬間、二匹目も倒れていた。
静寂が落ちる。
少女は短剣を下ろさなかった。タクトの剣を見て、顔を見て、もう一度足元のゴブリンを見る。助かった者の顔ではない。次に何が来るかを測る目だった。
「大丈夫か?」
「……誰?」
「通りすがり」
少女の眉が寄る。
「絶対嘘」
「早いな」
「通りすがりは、ゴブリン斬りながら出てこないでしょ」
「まあ、それはそうか」
タクトは肩をすくめた。軽く笑ってみせる。少女は少しだけ短剣を下げたが、完全には力を抜かない。
「助かった」
「どういたしまして」
「でも怪しい」
「そこは一回分けてくれない?」
「無理」
森の奥で、また轟音が響いた。さっきより大きい。木が折れる音が重なり、遅れて土煙が空へ上がる。少女がそちらを見る。
「何、あれ」
「仲間が足止めしてる」
「一人で?」
「一応」
「一応で済む大きさじゃないでしょ」
「俺もそう思い始めてる」
タクトは森へ視線を向けた。音が止まない。棍棒の音、木が砕ける音、獣の咆哮。そこに混じって、何度か黒い血が飛ぶのが遠目にも見えた気がした。
少女がタクトを見る。
「助けに行かないの?」
「行く」
「じゃあ何で置いてきたの」
「探し物があった」
「人を足止めに使って?」
タクトは答えなかった。答えれば軽くならない。軽くできない言葉は、今は邪魔だった。
「ここで待ってろ。まだゴブリンが残ってるかもしれない」
「待てって言われて待つと思う?」
「思わないけど、言うだけ言った」
「変な人」
「よく言われる」
「今、私もそう思った」
タクトは苦笑し、森へ走った。背後で少女が短剣を握り直す気配がする。ついてくる足音はない。少なくとも、今は。
森に近づくほど、土煙の匂いが濃くなった。折れた枝が道を塞ぎ、地面には巨大な棍棒の跡が残っている。タクトは倒木を越え、抉れた穴を避けながら進む。
そして、足を止めた。
ロードがいた。
まだ立っている。だが、その動きはタクトの知っているものではなかった。棍棒が振るわれる。空を裂く。ジンはそこにいない。次の瞬間、別の場所で短剣が走り、ロードの腕から黒い血が飛ぶ。
また棍棒が外れる。
また血が飛ぶ。
傷が増えている。同じ場所に。手首、膝裏、腕の内側。力任せではない。偶然でもない。ロードが暴れるたびに森は壊れていくのに、その壊れた地面で、先に足を取られているのはロードの方だった。
「なんだよ……」
声が掠れた。
ジンは速いわけではない。少なくとも、ロードを圧倒するような速さではない。肩も上がっていない。息も荒い。何度も倒れかけている。なのに、棍棒は当たらない。
当たらないまま、傷だけが増えていく。
ロードの手から棍棒が落ちた。
重い音が森を沈める。タクトは動けなかった。目の前で起きたことを、見ていたはずなのに、理解が少し遅れてくる。ジンは短剣を握ったまま、崩れかけた森の中に立っていた。
その姿が、土煙の向こうに薄く霞んでいた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新作をお読みいただきありがとうございます!始まったばかりの本作ですが、皆様の【星(評価)】や【作品フォロー】がカクヨム内で作品が広がる大きな力になります。応援のほど、何卒よろしくお願いいたします!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます