第4話 高澤専用

高澤が仕事に戻ったあとも、五階スタジオにはまだ音が残っていた。


使用中ランプは消してある。廊下は静かで、ドアの向こうを通る足音もほとんどない。スタジオの中では、モニターだけが淡く光っている。


相沢は椅子に座ったまま、録音データを見ていた。


凪は壁にもたれ、さっきから何度か笑っている。


「もう一回」


「何回聞くんだよ」


「お前が言うな」


凪が言うと、相沢は黙った。仕事中に何度も聞いていたのは相沢の方だった。言い返せる立場ではない。


再生する。


スピーカーから、高澤の歌が流れた。


Fluctuation Crossは、本来なら凪のギターと相沢の音が交差して、夜の街へ抜けていく曲だった。けれど高澤の声が乗ると、曲はまったく違う場所へ向かう。


歌詞は合っている。リズムも、大きく外れているわけではない。声も悪くない。


ただ、音程だけが、毎回少し違う場所に落ちる。


しかも、その落ち方が妙に真面目だった。


凪が口元を押さえた。


「だめだ」


「笑うな」


「お前も笑ってるだろ」


「笑ってない」


「目が笑ってる」


相沢は再生を止めた。


止めても、サビの外れ方だけが耳に残っている。


凪は腕を組み、モニターの波形を見た。


「これ、何で残るんだろうな」


「知らん」


「上手くはない」


「上手くはないな」


「でも消えない」


相沢はもう一度、サビだけを再生した。


高澤の声が流れる。外れて、戻って、戻ったと思ったら、また少し違うところへ行く。


凪が目を細めた。


「適当に外してるわけじゃないな」


「うん」


「ここ、だいたい同じ方向に落ちてる」


「下がる」


「次は上がりきらない」


「そこは毎回そう」


凪が相沢を見る。


「お前、覚えてんの?」


「何回も聞いたから」


「仕事中に?」


「仕事中に」


「最低だな」


「癒しだから」


「最低の言い訳だな」


相沢は笑った。


もう一度、サビを戻す。


高澤の声は、やっぱり同じ場所で外れる。完全に同じではない。でも、癖はある。外れる方向がある。逃げる場所がある。


相沢は椅子の背にもたれた。


「直そうとしても、たぶん直らないな」


「ひでぇ」


「音感の問題だけじゃない」


「じゃあ何」


「高澤の歌い方」


凪は少し黙った。


相沢は再生画面を見たまま続ける。


「歌詞を読む。リズムを追う。声量を保つ。たぶん、そこまでは処理してる。でも音程だけ、本人の中で別の位置に置かれてる」


「声だけ別ルートなんだな」


「たぶん」


「高澤らしいな」


「らしい」


二人は少し笑った。


笑ってから、相沢はまた黙った。


笑えるのに、捨てられない。そこが面倒だった。ただの音痴なら、笑って終わりでよかった。高澤が真面目に改善しようとしているのも、それはそれで面白い。けれど、凪の耳が止まった時点で、これはもう相沢だけの癒し音源ではなくなっていた。


相沢は、モニターに残ったFluctuation Crossのデータを見た。


この曲では、だめだった。


曲にはもう、正しい形がある。原曲があり、歌があり、聴いた人間の中にも基準が残っている。そこへ高澤の声を乗せれば、どうしても「外れたもの」として聞こえる。


高澤も、たぶん気づく。


原曲と違う。基準音が違う。検証条件が違う。そういう言い方をして、必ず確認する。


既存曲では無理だった。


正しい音源がある限り、高澤の声はずっと間違いとして扱われる。


相沢は録音データの名前を見た。


仮保存。


歌唱改善の追加検証。


ふざけた名前だった。


でも、消す気はなかった。


凪が言う。


「既存曲は全部バレるぞ」


「バレる」


「正しい音源があるからな」


「うん」


「じゃあ、どうするんだよ」


相沢は少し黙った。


高澤の声が、まだ耳の奥に残っている。


正確に不正確な音。真面目に外れて、なぜか戻ってくる音。上手くはない。でも消えない。


相沢は、再生位置を少し戻した。


高澤のサビが、また流れる。


凪が笑いかけて、途中で止まった。相沢も、今度は笑わなかった。


外れる場所がある。


なら、そこに先に音を置けばいい。


高澤が下がるなら、上げておく。上がりきらないなら、届く位置まで曲の方を寄せる。高澤が真面目に外れた先で、正しい音に落ちるようにする。


相沢は小さく言った。


「作るしかないな」


凪が顔を上げる。


「何を」


「高澤用」


凪は一瞬黙った。


それから、声を殺して笑った。


「最低なのに、愛があるな」


「うるさい」


「高澤専用曲?」


「まだ曲じゃない」


「じゃあ何」


「検証用」


「お前も言い方が高澤に寄ってきてるぞ」


相沢は少し嫌そうな顔をした。


「やめろ」


凪は笑いながら、卓の横へ来た。


「つまり、相沢のお手本は、普通に聞くとズレてる。でも高澤がそれを頼りに歌うと、高澤のズレが乗って正しい音になる」


「たぶん」


「すげぇな」


「何が」


「音痴を直さずに、音痴のまま合わせる」


相沢は録音データを止めた。


その言い方は、たぶん合っていた。


高澤を直すのではない。


高澤がどう外れるかを覚えて、その外れ方ごと受け止める。曲の方を、先に曲げる。


凪はモニターを見ながら、少し真面目な顔になった。


「高澤、知ったら怒るぞ」


「言わない」


「一生?」


「必要になるまでは」


「必要になる時あるのかよ」


「知らん」


凪は笑った。


「でも、できたら面白いな」


「できるかは分からん」


「やるんだろ」


相沢は答えなかった。


答えなくても、凪には分かったらしい。


「高澤、改善したと思うぞ」


「そうだろうな」


「それでいいのかよ」


相沢は少し考えた。


高澤は、不正確なまま放置する理由がないと言った。


なら、不正確なままではなく、合った形で渡せばいい。本人がどう外れたのかを知らなくても、最後に合えば、それはたぶん高澤にとって改善になる。


相沢にとっては、違う。


改善ではない。


合わせただけだ。


けれど、それで高澤が歌えるなら、その方がいい気がした。


「いいんじゃないか」


相沢は言った。


「本人が気持ちよく歌えるなら」


凪が横を見る。


「珍しいな」


「何が」


「お前が高澤に優しい」


「悪いか」


「悪くない」


凪は、少しだけ笑った。


「性格は悪いけど」


「うるさい」


相沢は新しいトラックを開いた。


まだ何も入っていない。


空のトラック。


まだ何も走っていない波形。


そこに、高澤の声の残りだけがある。


凪が後ろから覗き込む。


「今からやるの?」


「少しだけ」


「仕様書は?」


「明日」


「最低だな」


「お前が五階に連れてきた」


「責任転嫁するな」


相沢は鍵盤を鳴らした。


最初の音は、少し高すぎた。普通に聞けば、気持ち悪い。


凪がすぐに顔をしかめる。


「おい」


「高澤用」


「もう音痴じゃねぇか」


「まだ入口」


「入口から不安なんだけど」


相沢はその音を少し戻し、また別の音を置いた。


高澤なら、たぶんここで下がる。ここで届かない。ここで真面目に外す。


相沢は、その場所に先に道を作っていく。


凪はもう笑っていなかった。


「……お前、よく覚えてるな」


「何を」


「高澤の外れ方」


相沢は画面から目を離さない。


「何回も聞いたから」


「仕事中に?」


「仕事中に」


凪は少しだけ息を吐いた。


「最低なのに、ちゃんと見てるんだよな」


「二回言うな」


「だってそうだろ」


相沢は返事をしなかった。


鍵盤の音が、また少しだけ外れた場所へ置かれる。


外れている。


でも、まだ正しくないだけで、間違いとは限らない。


高澤が歌えば、変わるかもしれない。


凪は壁にもたれ直した。


「タイトル、どうすんの」


「まだ早い」


「高澤専用でいいじゃん」


「絶対に言うな」


「言わねぇよ」


相沢は小さく笑った。


画面の中で、何もなかった場所に少しずつ音が置かれていく。


正しい音ではない。


でも、高澤が歌うための音だった。


スタジオの外では、夜のアトラボが静かになっている。


相沢は、作りかけのトラックを保存した。


Fluctuation Crossではなく。


既存曲でもなく。


まだ誰にも聞かせない、高澤用の音として。


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