第13話 年末の過ごし方
翌日はバイトのない日だった。
杏は大学の授業に出てスーパーで買い物し、悠里と暮らすアパートへ帰宅した。
鍵を開けて部屋に入る。「ただいま」と声をかけたが返事はない。
だがアトリエに悠里がいる気配があった。
杏はキッチンにスーパーの袋を置き、部屋を覗く。
この部屋では油絵を描いていないようでテレピン油の匂いはしない。
しかし学校の美術室に似た、絵の具が染み込んだ木材のような独特の匂いがあった。
悠里は長い黒髪を適当に束ね、ツナギ姿でキャンバスに向かっている。
「帰ったよ」
「ああ、おかえり」
こちらを見ずに悠里が告げる。
「お腹空いたし、ご飯作るね」
「ああ」
スーパーの袋から玉ねぎとひき肉、トマト缶を取り出す。
フライパン一つでできるミートソースパスタが杏の得意料理だ。すぐできるし、美味しいし、洗い物も少なくて済む。
フライパンでソースごとパスタを煮ていると、悠里が隣に来てフライパンを覗き込んだ。
悠里は女性としては背が高い方だが、それでも蒼斗と比べると少し低いのだということに気付き杏は身体を固くした。
逆に、蒼斗は男性としては特別長身な方ではない。そんな当たり前の体格差すら杏は今まで意識せずに生きてきた。
「まだ聞いてなかったな。どうだった?『デート』は」
「だ、だからデートじゃないってば。仕事!」
「それは仕事熱心で何よりだ」
難しい顔をする杏の表情を覗き込み、悠里が面白がるように聞いてくる。即答しつつも内心は穏やかではなかった。
「店長のこと意識してるだろ」
核心を突いてくるような悠里の言葉に杏は硬直した。
何も言い返せず、パスタが伸びちゃうからと心の中で言い訳をしながら無言で料理を皿に盛る。
悠里がいつの間にか消えたと思ったら、ツナギから普段着に着替えてテーブルに座っていた。
「さっきの話だけど、してないからね」
「ふーん、どうだか」
パスタのお皿を置きながら負け惜しみのようにそう言ってみるが、悠里は疑いの目を向けてくる。
私のプライベートを探ってZINEのネタにでもするつもりなのかと思い、視線で抗議をしたがどうも効いていないようだ。
「悠里って、意外と恋愛脳なの?」
「芸術家としては、人の心の機微に興味を持ってしかるべきだろ」
考えないようにしているのに蒼斗の顔が浮かんでしまう。杏はそれ以上言葉を返せなくなり、沈黙が広がった。
「杏、顔赤くないか?」
「ソースの色が反射してるんでしょ、きっと」
「別に法律で禁じられてるわけでもあるまいし、正直になれば良いものを」
悠里は肩をすくめた。
もう何を言われても聞こえないふりで、杏は洗い物をして自室に戻った。
机の上には描きかけの絵本の原稿が広げてある。
ソフトパステルで描かれたそれは、氷の国アイスランドの王子様と幸せを呼ぶケセランパサランの話だ。
今になって見るとなんて恥ずかしいものを描いているのかと破いて捨てたくなる。そんなこと、作品に失礼なのでしないが。
その夜、ベッドに入っても杏はなかなか眠れずにいた。
何度も寝返りを打ち、天井を見上げ、ふと蒼斗のことを考える。
「そろそろ切ろうかな」なんて言っていた、襟足がうなじにかかるくらいの長さでさらさらと流れる蜂蜜色の髪、杏に向ける優しい微笑み、たまに見せる冷たい瞳、ケセランパサランを見つめるどこか寂しげな横顔……
そして先日見た、子供たちと無邪気に笑い合う姿。
思い出すだけで胸が締め付けられるようだった。
それはどうしてなのか、理由が分からない。
仮に、仮にだ。万が一、二人の間に恋が生まれたとして、拗れたら気まずくなってバイトを続けられなくなるのではないか。
うさぎの尻尾は、杏にとって大切な居場所になりつつある。そこを、失いたくない。
だめだ、考えるな。杏は毛布を頭まで被った。あの人は優しい雇用主。ただ、それだけ。
「全部仕事なんだから」
小さく呟いて、それ以上は考えないことにしようと杏はぎゅっと目を閉じた。
明日になれば全部忘れる。そう願いながら。
翌日、起きても残念ながら忘れてはいなかった。
今日はあれから初めての出勤日だ。正直、気が重い。
ほら、まだ何も始まっていないのに悠里が変なことを言うから早くも気まずくなってしまっているじゃないかと思い、負けるものかと杏は自分を励ました。
「そういえば、うさぎの尻尾ってそろそろ年内最終営業日じゃないか?」
夕方に出勤準備をしていると、悠里が声をかけてくる。
もうそんな時期かとカレンダーを見ると、確かに明日の営業終了からうさぎの尻尾は年末年始休暇に入るようだ。
といっても休みは大晦日と元旦だけで、一月二日からは通常営業だ。
杏は明日出勤予定ではないので、今日の出勤が年内最後ということになる。
「本当だ。退勤する時挨拶しなきゃ」
「年末年始はどうするんだ? 私は実家に帰る予定だが」
「あ、そっか。一応今までは家族で帰省してたけど、今年は一人かな」
杏の両親は地元が北茨城の方なので、長期休みの時は帰省をする。
祖父母も特に杏に優しいということもなく、帰省が楽しみだったことはない。
今年は誘われないだろうしきっとこの家で一人で過ごすのだろうと、漠然と考えていた。
「杏も私と来るか? 母はきっと歓迎するぞ」
「行かないよ、悪いし。地元どこなの?」
「長野の軽井沢だ」
「お嬢様!?」
メイクをしながら喋っていた杏は驚いて悠里を振り返る。
軽井沢といえば別荘地のイメージが強いが、悠里の母は幼少期からそこで生まれ育ち、今も自身の両親である悠里の祖父母と暮らしているらしい。
「まあ、貧乏ではないだろうな。今までも好き勝手絵を描いて生きて来られたわけだし」
悠里は今日うさぎの尻尾に顔を出して、そのまま夜行バスで長野に向かうという。荷造りをすると言って彼女が部屋に戻ったあと、一人になった杏はまたぼんやりと蒼斗のことを考えてしまっていた。
蒼斗は親が亡くなっていて、店を譲った祖母は今フィンランドにいる。
他に親戚がいたり帰る地元があるという話は聞けていない。
たった二日ではあるがこの休みをどう過ごすのだろう。
杏はそんなことを思ってしまっていた。
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