一秒の英雄
@tokiwomodosou
プロローグ 一秒
一秒。たった一秒だ。
落としたコップが割れる前に、もう一度だけ手の中に戻せる。それがおれの全部だった。
灰羽ソウ。十六歳。異能の名は〈巻き戻し(リワインド)〉。査定はE級。世界でいちばん下のランクだ。
触れているものを、一秒だけ前に戻す。それ以上は戻らない。二秒前にも、十秒前にも、ましてや三年前には、絶対に戻らない。
三年前の、あの日にも。
夏の終わりだった。妹のユイが、踏切の遮断機の向こうで転んだ。ランドセルの肩ひもが、線路の継ぎ目に引っかかったんだと思う。八歳の手は、それをうまく外せなかった。
おれは走った。走って、手を伸ばして、ユイの腕に触れた。
触れた。だから、戻した。
一秒。
転んだユイが、一秒前に戻る。立ち上がりかけた、その姿勢に。
でも、それだけだ。一秒戻したところで、状況は何も変わらない。肩ひもはまだ引っかかったままで、警報はまだ鳴っていて、光はもう、すぐそこまで来ていた。
おれにできたのは、妹の最後の一秒を、もう一度だけ見ることだった。
その手の感触を、おれは、今でも覚えている。
巻き戻しても、おれの記憶だけは、巻き戻らない。だから、おれだけが、覚えている。妹の腕の、最後の温度を。間に合わなかった、あの一秒を。
——だから、おれは英雄になんてなれない。
一秒で救えるものなんて、この世にほとんどない。落としたコップ。こぼれかけたコーヒー。せいぜいその程度だ。
強い異能者は、街を割る。空を飛ぶ。時間さえ操る。
おれは、コップを割らずに済ませる。それだけの男だ。
それでも——と、今のおれは思う。
あの日から三年、おれはずっと考えてきた。
一秒で救えないなら、一秒で救えるところまで、状況のほうを動かしてやればいい。
戻すべき「一つ」を、戻すべき「一瞬」を、間違えなければ。
最弱の一秒にも、たぶん、使い方がある。
これは、その使い方をひとつずつ発明していった、おれの記録だ。
最弱のおれが、最強の「やり直し」と出会い、やり直せない世界の在り方を、それでも選び取るまでの——長い、長い、一秒の話だ。
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